第3章 第5話:静かに奪う人
その日の昼休み、教室の窓から差し込む光はやけにやわらかかった。
春の終わりに近い空気は、もう朝ほど冷たくない。グラウンドのほうから聞こえる笛の音も、廊下を走る足音も、昼休み特有のざわめきに混ざって広がっている。教室の中ではパンの袋を開ける音や、端末の画面を見せ合う声があちこちで重なっていた。
澪は席で弁当箱を開きながら、何とはなしに前方へ視線を向けた。
朔がいた。
窓際の席に腰掛けて、男子二人と何か話している。笑っている顔はいつも通りで、肩の力が抜けていて、そこだけ空気が少し軽いみたいだった。
その少しあとで、由良が近づいた。
大きな動きは何もない。
走っていくわけでも、わざとらしく声を張るわけでもない。ただ、手にしていたプリントを軽く持ち上げて、朔の机の横へ自然に立つ。
「神谷くん、これ提出した?」
やわらかい声だった。
「あ、まだ」
朔が顔を上げる。
「やっぱり」
由良は少しだけ笑う。
「先生、今日中って言ってたよ」
「助かった。忘れるとこだった」
「神谷くん、そういうのたまに危ないよね」
「否定できない」
その会話の流れが、あまりに自然だった。
まるで前からずっとそうしてきたみたいに、力みがない。
距離を縮めようとしているようには見えないのに、気づけばきちんと近いところへ立っている。
澪は箸を持つ指先へ少しだけ力が入るのを感じた。
こういうのだ、と思う。
凛花は正面から来る。
だからわかりやすいし、構えもできる。
でも由良は違う。やさしくて、控えめで、押しつけがましさがない。そのぶん、こちらが警戒する前に、するりと隣へ入ってくる。
しかも本人には悪気がない。
たぶん本当に、自然にやっているのだ。
「朝倉」
夏希がパンを齧りながら、机を少しだけ寄せてくる。
「今の顔、だいぶ出てる」
「……そんなに?」
「うん」
夏希はあっさり頷いた。
「白瀬、またやってるなーって顔」
澪は思わず視線を逸らした。
「やってるって」
「静かに距離詰めるやつ」
夏希は遠慮がない。
「篠宮とは真逆だけど、あっちもあっちで強いよね」
「……うん」
「神谷がああいうの嫌いじゃないのも厄介」
その一言に、澪の胸が少しだけ痛む。
嫌いじゃない。
そうだと思う。
朔は押しの強い人も苦手ではないけれど、由良みたいにやわらかく寄ってきて、変に構えなくていい相手にも弱い気がする。
優しいからだ。
誰かに頼られたり、自然に隣へ来られたりすると、わざわざ線を引いたりしない。
「朝倉さん」
不意に名前を呼ばれて、澪は肩を揺らした。
目の前に由良が立っていた。
いつの間に近づいていたのかわからない。そういうところまで、セレスと似ている気がして、余計に胸がざわつく。
「……何?」
「ごめん、急に」
由良は少しだけ困ったように笑った。
「さっき先生が、交流デーの補助希望、今日中に一回集めたいって」
「あ」
掲示板の前で凛花と話したあの日のことを思い出す。
あのあと、澪は勢いに押されるみたいに「私も出ようかな」と朔へ送ったのだった。
「朝倉さん、出る?」
由良がやわらかく問う。
「神谷くん、たぶん参加するって言ってたから」
その言い方が何気ないぶん、胸の奥へ静かに刺さる。
神谷くんが参加するから。
たぶんそれは澪にとっても十分大きな理由なのに、由良にそれを言われると、まるで気持ちの輪郭まで見透かされた気がする。
「……まだ、ちゃんとは決めてない」
「そっか」
由良はそれ以上踏み込まなかった。
「でも、朝倉さんがいたらちょっと安心かも」
「え」
「準備とか、ちゃんとしてくれそうだし」
少しだけ微笑む。
「私、細かいところ抜ける時あるから」
そうやって、さらっとやわらかい言葉を置いていく。
断りにくくなくて、でも少しだけ心へ残る言い方。
ほんとうに強い人だと思う。
「……白瀬さんも出るの?」
気づけば、澪のほうから聞いていた。
「たぶん」
由良は頷く。
「せっかくだし、楽しそうだから」
その返答も自然すぎて、逆に怖い。
楽しそうだから。
それだけで朔のいる場所へ行けるのが、少し羨ましい。
「神谷くん、こういうの向いてるよね」
由良が何気なく続ける。
「人の間に入るのうまいし、ちゃんと気づくし」
「……そうだね」
「やさしいし」
澪はそれに返事ができなかった。
知っている。
そんなことは誰よりも知っている。
そして、その優しさがどれだけ危ういかも。
昼休みのあと、廊下を歩いていると、前方で朔と由良が並んでいるのが見えた。
距離は近いわけじゃない。でも遠くもない。話すために必要なぶんだけ自然に詰められた距離だ。
「それ、重くない?」
朔が由良の持っている資料束を見て言う。
「少しだけ」
「持つ?」
「え」
「職員室行くんだろ」
由良は一瞬だけ目を瞬かせ、それから少し笑った。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「いいよ」
そのやり取りを見た瞬間、澪の足がわずかに止まる。
自然だ。
あまりにも自然で、悪意の入り込む隙もない。
困っていたから手を貸す。
頼まれたから引き受ける。
その流れに不自然なものは何ひとつない。
けれど、そういう何でもない優しさが、少しずつ距離を縮めていく。
それがわかるから、どうしようもなく焦る。
「朝倉」
また夏希だった。
澪が立ち止まったことに気づいたのだろう。
「しんどい?」
「……うん」
「だろうね」
慰めるでもなく、夏希は素直に言う。
「白瀬ってそういうタイプだもん」
「タイプ?」
「押さないようで押してる」
それは、残酷なくらい正しかった。
放課後、交流デーの補助希望者を確認するために、一部の生徒が居残りになった。
澪もその中にいる。
教室の前方では、担任が参加予定者の名前を端末へ入力していた。
「神谷」
「はい」
「篠宮」
「はい」
「白瀬」
「はい」
名前が呼ばれていく。
やっぱり、と思う。
そして次に呼ばれるのを待ちながら、澪は自分の心臓が少しずつ速くなるのを感じていた。
「朝倉」
「……はい」
声に出した瞬間、ほんの少しだけ現実味が増す。
本当に、自分も出るのだ。
朔と同じ場所に、自分の意思で行く。
それはまだ“好き”と口にすることとは違う。
でも確かに、見ているだけではない側へ足を踏み出す行為だった。
居残りが終わって教室を出る時、由良が澪の横へ並んだ。
「朝倉さん、参加するんだね」
「……うん」
「ちょっと嬉しい」
やわらかい言い方だった。
「一緒にやれる人、多いほうが安心するし」
またそうやって、自然にこちらへも入り込んでくる。
敵意なんてないのだろう。
だからこそ厄介だ。
「白瀬さん」
澪は少しだけ迷ってから口を開いた。
「何?」
「……近づける時に近づいたほうがいいって、思う?」
由良は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
それから、やわらかく笑う。
「うん」
迷いのない頷き。
「そう思う」
「どうして」
「届かなくなること、あるから」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
届かなくなることがある。
それは脅しではない。
ただ、由良の実感なのだろう。
「……やっぱり、そうなんだ」
澪が小さく呟くと、由良は少しだけ目を細めた。
「朝倉さんも」
「え」
「そう思ってるから、参加するんじゃないの?」
図星だった。
返す言葉が出てこない。
由良は責めるでも、勝ち誇るでもなく、ただ静かに続ける。
「やさしくしてるだけだと、届かないこともあるから」
その言葉に、澪は息を呑む。
セレスのようで、由良の言葉だった。
やわらかいのに、逃がしてくれない。
「私、意地悪で言ってるわけじゃないよ」
由良が小さく笑う。
「ただ、近づけるなら近づきたいって思うだけ」
それは正直で、静かで、そして強かった。
凛花の強さとは違う。
正面から競りに来るのではなく、やわらかいまま、でもちゃんと奪いに来る強さ。
帰り道、澪はひとりで夕方の空を見上げながら歩いた。
オレンジから群青へ変わる空。電線の影。道端の植え込みを鳴らす風。何でもない住宅街の景色の中で、胸の内側だけがひどく落ち着かない。
由良は怖い。
やさしいくせに、逃げ道をくれない。
こちらが悪者になれないまま、正しいことだけを静かに置いていく。
近づける時に近づいたほうがいい。
届かなくなることがある。
それはたぶん、澪自身が一番わかっていることだった。
家へ帰ってからも、その言葉は消えなかった。
制服を脱いで、机の前へ座って、端末の画面を眺める。
ノアになれば、少しだけ呼吸がしやすい。
でも今夜は、ノアへ逃げるだけではだめな気がした。
現実でも近づかなければいけない。
そうしないと、きっと誰かのやさしい距離の詰め方に、気づいた時には追い越されてしまう。
スマート端末が震えた。
画面を見る。
朔からだった。
『交流デー、出るの助かる』
『澪いるとちょっと安心する』
その二行に、胸がじんと熱くなる。
嬉しい。
でも、それと同じくらい、今夜ははっきり思った。
この“安心する”を、ただの幼馴染の位置で受け取っているだけでは足りない。
もっと近い意味で、隣にいたい。
澪は端末を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
静かに奪う人は、たぶん一番強い。
だからこそ、こちらも静かに立ち止まっているわけにはいかなかった。




