第3章 第4話:夜の中では、もう特別
その夜、ノアはログインしてすぐに、胸の奥が少しだけ落ち着かないことに気づいた。
昼間のやり取りが、まだどこかに残っている。
『私も出ようかな』
『それ、ちょっと嬉しい』
現実の朝倉澪へ向けられた、朔の言葉。
それは嬉しかった。嬉しかったはずなのに、夜になってノアとしてアステリオへ立つと、今度は別の意味で胸が騒ぐ。
澪として一歩前へ出した。
その余熱を抱えたまま、ノアとして会うのが少しだけ怖かった。
中央広場は、深夜前らしい静かな賑わいに包まれていた。白い塔の窓に灯る光、噴水の飛沫に混じる青い魔導灯の揺らめき、石畳を行き交うプレイヤーたちの影。夜の都市は、やっぱりきれいで、少しだけ現実から遠かった。
『ノア』
通話へ入る前に、個別回線が先に開く。
アークだった。
「……何」
思わず、生の声で返してしまう。
『来たばっか?』
「うん」
『よかった』
それだけ言って、少しだけ笑う気配がした。
『今日、人少ないんだよ』
「フレアたちは?」
『ピピは家の用事。セレスは少し遅れる。フレアは別パーティの手伝い終わってから合流かもって』
つまり今は、ほとんど二人だ。
そう理解した瞬間、ノアの鼓動が少しだけ速くなる。
『で』
アークが続ける。
『最初、新しい深層マップの外周だけ見に行かない?』
ノアは一瞬だけ黙る。
最近、こういう“最初だけ二人”が増えている。
戦力的にも合理的だし、不自然ではない。
でも、合理的で説明がつくことと、心が平気でいられることは違う。
「……行く」
『うん』
アークの声が少しだけやわらぐ。
『じゃ、先に転送門行ってる』
断れないのではない。
断りたくないのだと、自分でもちゃんとわかっていた。
転送された先は、《月蝕水晶洞》だった。
青白い結晶が壁一面に群生する巨大な洞窟で、足元には浅い水が張っている。天井から落ちる雫が波紋を作り、そのたびに結晶の光が細かく揺れた。一本道に見えて分岐が多く、深層になるほど視界干渉が強くなると聞いている。
「綺麗」
気づけば、ノアは小さく呟いていた。
「だろ」
アークが少し前を歩きながら振り返る。
「ノア、こういう景色好きそう」
「どういう意味」
「静かで、でもちゃんと危ないやつ」
「最後の一言いらない」
「でも当たってるだろ」
「……否定はしない」
アークが笑う。
その笑い声が近い。
周囲が静かなぶん、余計にそう感じる。
結晶洞は敵の数自体は少なかったが、そのぶん足場と罠がいやらしい。水面に反射した偽の床、一定間隔で強く明滅する視界妨害晶、音で反応する小型の寄生獣。
「左、踏まないで」
ノアが先に言う。
「見えてる?」
「半分くらい」
「半分でわかるのすごいな」
「こっちはこれが仕事だから」
「ほんと頼りになる」
さらっと言われて、ノアは視線を前に向けたまま少しだけ息を詰める。
最近、こういう言葉が増えた。
助かる。
頼りになる。
ノアがいると落ち着く。
最初に聞こうと思った。
いてくれて助かる。
それを全部、ノアは嬉しいと思ってしまう。
そして嬉しいと思うたびに、その温度が現実の自分から少しずつ離れていくような感覚もある。
細い結晶橋を渡ったところで、小型の水晶獣が三体湧いた。
「前、二体引く」
アークが剣を抜く。
「右止める」
ノアが術式を展開する。
青い拘束陣が水面に広がり、水晶獣の足元を絡め取る。アークの剣がその隙へ滑り込み、一体、二体と連続で斬り落とす。最後の一体が横へ跳ねた瞬間、ノアが視界補正を重ね、アークが迷いなく追撃した。
短い戦闘だった。
でも、終わったあとに残る呼吸の近さが妙に意識へ残る。
「やっぱノアと二人だと早いな」
アークが剣を払う。
「最近、そればっかり言ってる」
「本当なんだからしょうがない」
「適当」
「適当じゃないって」
アークは少しだけ真面目な声になる。
「ノアいると、無駄に構えなくていいんだよ」
ノアは返事ができなかった。
無駄に構えなくていい。
その言葉が、ノアの奥へ深く落ちる。
「……何それ」
やっとそれだけ言う。
「そのまま」
アークは前を向いたままだった。
「他のやつといる時が嫌って意味じゃない。けど、ノアといる時は、何か違う」
結晶の光が、水面越しに揺れている。
その揺らぎの中で、ノアは自分の胸の鼓動だけをやけにはっきり聞いていた。
「違うって?」
「うまく言えない」
アークは少し考えるように黙る。
「……優先したくなる、に近いのかも」
ノアは思わず足を止めた。
優先したくなる。
その表現は、今までのどの言葉よりもずっと強かった。
嬉しい。嬉しいはずだ。
でもその嬉しさの勢いのまま受け取ってしまったら、きっとどこかで壊れる。
「ノア?」
アークが振り返る。
「何」
「いや、急に止まったから」
「……びっくりしただけ」
「何に」
「今の言い方」
アークは一瞬だけ目を瞬かせる。
「変だった?」
「変っていうか」
ノアは視線を結晶の壁へ逃がした。
「そういうの、軽く言わないで」
「軽く言ってるつもりない」
その返しが、ひどくまっすぐだった。
ノアは小さく息を吐く。
やっぱり、ずるいと思う。
適当に言ってくれるほうがまだ楽なのに、本人はこういう時だけ無駄に真面目だ。
結晶洞の中腹まで進んだところで、半円形の広場のような場所へ出た。
中央には大きな蒼い結晶柱が立っていて、そのまわりを淡い光の粒がゆっくり回っている。敵の気配はない。短く休憩を挟むにはちょうどいい場所だった。
「ここ、安全そう」
ノアが言う。
「じゃあ少しだけ休むか」
アークは剣を収めて、結晶柱の近くへ腰を下ろした。
ノアも少し距離を置いて座る。
浅い水の音と、結晶の微かな共鳴音だけがあたりに満ちる。
「ノア」
静かな声だった。
「何」
「最近さ」
アークは結晶柱の光を見上げたまま言う。
「最初にノアへ聞こうと思うこと、増えた」
また、その言葉だ。
胸の奥がじわりと熱を持つ。
「相談とか」
アークは続ける。
「ルートのことでも、周回のことでも、何かあった時でも」
「……」
「たぶん、ノアが一番落ち着く」
ノアは視線を落とす。
そんなふうに言われたら、もうどうしたらいいのかわからない。
嬉しさが先に来る。でも、そのあとすぐに苦しさが追いつく。
「セレスとかフレアじゃなくて?」
思わず聞いてしまった。
「比べてるわけじゃない」
アークは静かに返す。
「でも、ノアは特別に話しやすい」
特別。
その言葉が、結晶洞の静けさの中でやけに鮮明に響いた。
ノアは息を吸って、ゆっくり吐く。
言ってはいけない。
でも、何も返さないのも違う気がした。
「……嬉しい」
小さく言う。
アークがこちらを見る。
「うん」
「嬉しいけど」
その先の言葉が少しだけ重い。
「それ、ノアに言ってるでしょ」
アークは少しだけ眉を寄せた。
「ノアに、って?」
「そのまま」
ノアは視線をそらさないようにした。
「私はノアだから、そういうふうに受け取れる。けど」
「けど?」
「……それだけじゃ、だめだって思う時がある」
アークは何も言わない。
その沈黙が、続きを待っている。
ノアは少しだけ唇を噛む。
ここまで来て、また曖昧に逃げるのかと思う。
でも、全部を言ってしまう勇気はまだない。
「ノアとして近づけるのは、すごく嬉しい」
静かな声で続ける。
「でも、嬉しいと思うほど、自分じゃないみたいになる時がある」
アークがゆっくり瞬きをした。
「……難しいこと言うな」
「難しいよ」
「でも、わからなくはない」
その返しに、ノアは少しだけ目を見開く。
「わかるの?」
「全部じゃないけど」
アークは苦笑する。
「ノアって、たまに“そこじゃない”って顔するから」
そこじゃない。
まるで見透かされたみたいで、胸の奥がひどくざわつく。
「今も?」
「少し」
アークは正直に言った。
「でも、無理に聞こうとは思ってない」
「……」
「ただ」
アークは一度だけ息を吐く。
「ノアがいてくれてよかったって、最近ほんとによく思う」
その一言で、ノアの胸の奥が痛いほど熱くなる。
こんなの、嬉しくないわけがない。
ずっと欲しかった言葉に近い。
でも、完全には届かない。
届きそうで届かない。
「……だめだ」
ノアは小さく呟いた。
「何が」
「そういうの」
「また?」
「また」
アークが少しだけ笑う。
「困る?」
「困る」
「嫌ではない?」
ノアは少しだけ間を置いた。
「……嫌なら、こんなに困らない」
その答えに、アークは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線をやわらげる。
その沈黙が、余計に苦しい。
少しして、共通通話にセレスの接続音が入った。
続いてフレアの短い挨拶も重なる。
『合流できる?』
フレアが聞く。
『できる』
アークが答える。
『今、中腹の結晶広場』
『じゃあそっち行きますね』
セレスのやわらかな声。
『ノアさん、います?』
『……いる』
『よかった』
その一言が、なぜだか少しだけ現実へ引き戻してくれる。
二人だけの空気は、そこでいったんほどけた。
合流後の探索は穏やかだった。
フレアは相変わらず鋭く、セレスは静かに支え、アークは前線で安定していた。ノアもいつも通りに動けたし、会話もできた。誰が見ても、よく噛み合ったパーティに見えただろう。
でも、ノアの胸の奥にはずっと同じ感覚が残り続けていた。
夜の中では、もう特別だ。
アークの言葉も、頼り方も、視線も、以前とは違う。
たぶんそれは間違いじゃない。
でも、それはノアに向けられている。
朝倉澪のままでは、まだ届ききっていない。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はしばらく端末を外したまま動けなかった。
部屋の静けさが、さっきまでの結晶洞の静けさとはまるで違う。
現実は、狭くて、冷たくて、ひどくはっきりしている。
「……嬉しいのに」
小さく呟く。
その続きは、誰に聞かせるでもない。
嬉しい。
でも、それでは足りない。
ノアとして近づけたことまで否定したくない。
けれど、夜の名前のままでは自分の恋は届ききらない。
なら、やっぱり朝倉澪として進まなければいけない。
それがどれだけ怖くても、今夜の言葉をただノアの中だけに閉じ込めたままでは、いつか本当に苦しくて立ち止まる。
澪はベッドへ腰を下ろし、ゆっくりと手を握りしめた。
夜の中では、もう特別だ。
だからこそ、この特別を夜だけのものにしたくなかった。




