第3章 第3話:正面から来るライバル
放課後の教室は、妙に騒がしかった。
六限が終わった直後のざわめきにしては、少し熱がある。机を引く音、笑い声、端末をかざして何かを見せ合う声。窓から差し込む西日の色が教室の空気を薄く金色にしていて、その中で人の動きだけがやけに目についた。
「ねえ神谷くん、今日の学内配信の打ち合わせ、結局いつ行くの?」
「今日のうちに出したほうがいいんじゃない?」
「篠宮さんも呼ばれてたよね」
耳に入った名前に、澪の手がほんの少し止まる。
ノートを鞄へしまうふりをしながら、顔を上げる。
教室の前方では、朔が数人に囲まれていた。その少し横に、凛花が立っている。
ただ立っているだけなのに、やっぱり目を引く。
姿勢がきれいで、言葉に無駄がなくて、そこにいること自体に迷いがない。朔が自然に人の輪の中心へいる人なら、凛花は自然に視線を集める人だった。
「打ち合わせ、私もう行くけど」
凛花がさらりと言う。
「神谷くんも来るなら一緒でいいんじゃない?」
「え、今?」
朔が少しだけ目を丸くする。
「後で行こうかと思ってた」
「後でもいいけど、どうせ職員室前で捕まるでしょ」
「それはまあ……ありそう」
「だったら今のうちに終わらせたほうが楽じゃない?」
凛花の言い方はいつも通りだった。
押しつけがましくない。
でも退路も作らない。
“自然に一緒に行く流れ”を、迷いなく作る。
澪は視線を落とした。
胸の奥で、小さく何かが軋む。
これだ、と思う。
凛花はこうやって距離を取るのではなく、取る前提で動く。
空気を読むというより、空気を自分で整えてしまう。
「じゃ、俺も行くわ」
朔がそう言った瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
仕方ない。
それは本当に、仕方のない流れだ。
学内配信のコメント提出。面倒な用事。たまたま近くにいた二人。そこに恋愛的な意味なんて、たぶんひとつもない。
わかっている。
わかっているのに、嫌だと思ってしまう。
視界の端で、二人が並んで教室の外へ出ていく。
その背中を見送りながら、澪は小さく唇を噛んだ。
「朝倉」
横から声がして、はっとする。
夏希がいつの間にか隣へ来ていた。
「顔」
「……そんなに?」
「そんなに」
夏希はじっと廊下のほうを見る。
「篠宮、やること早いなあ」
「うん」
「感心してる場合じゃないか」
澪は返事をしなかった。
悔しい。
でも、その悔しさをうまく言葉にできない。
だって凛花は間違ったことをしていない。ただ自分から動いているだけだ。自分ができないことを、当たり前みたいにやっているだけ。
「行く?」
夏希がふいに言う。
「え」
「追うの」
「……そんなの」
「できない?」
その問いに、澪はすぐ答えられない。
追いたいわけじゃない。
でも、何となくそのまま見送るのも嫌だった。
何もしないで、また“見てるだけ”の自分へ戻るのが、一番嫌だった。
「……行かない」
結局、そう言う。
「でも」
自分でも驚くくらい、声は低かった。
「このままは嫌」
夏希は少しだけ目を細める。
「じゃあ、その“嫌”を忘れないことだね」
教室を出る頃には、廊下の人影はもうばらけ始めていた。
職員室のほうへ向かう流れの中に、朔と凛花の姿は見えない。
澪はひとりで靴を履き替え、昇降口を出た。
夕方の空気はあたたかいのに、胸の内側だけがやけに冷たい。
帰り道の途中、校門近くの掲示板前で、小さな人だかりができていた。
生徒会が来週の校内合同イベントの告知を貼ったらしい。学内配信とVR交流を組み合わせた半日行事。任意参加だが、各クラスから運営補助も何人か出す必要があると書いてある。
澪はぼんやりそのポスターを見上げた。
『校内交流デー』
『リアル交流+VR合同コンテンツ実施』
『有志運営補助募集』
こういう行事では、朔はだいたい巻き込まれる。
人当たりがよくて、運営も嫌いじゃなくて、頼まれれば断らないからだ。
そして凛花も、たぶんこういう場をうまく使う。
「朝倉さん」
背後から呼ばれて振り向くと、当の凛花が立っていた。
思わず息を呑む。
向こうはそんなこちらの反応も見慣れているみたいに、落ち着いた顔をしていた。
「さっきはごめん」
凛花が言う。
「職員室の件、神谷くん引っ張る形になったから」
「……別に」
「そういう顔じゃない」
澪は少しだけ眉を寄せる。
「どういう顔」
「悔しそうな顔」
あまりに真っ直ぐで、返す言葉が詰まった。
「図星?」
「……」
「わかりやすいね」
凛花は少しも意地悪く言わない。
ただ事実を確認するみたいに、淡々としている。
だから余計に、逃げ場がない。
「別に、職員室行ったくらいで何か変わるわけじゃないよ」
凛花は掲示板へ視線を向けたまま言う。
「でも、そうやって“何でもないこと”を積み重ねて近づくんだと思う」
澪は喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
何でもないこと。
そうだ。
一緒に職員室へ行くことも、少し長く話すことも、同じ話題を共有することも、それ自体は特別じゃない。
でも恋はたぶん、その“特別じゃないこと”の積み重ねで距離が変わる。
「朝倉さん」
凛花が今度はまっすぐこちらを見た。
「この前も言ったけど、待つだけの本命は危ういよ」
胸の奥がまた小さく痛む。
「……わかってる」
「ほんとに?」
「わかってる」
「なら、動かないと」
その一言に、澪の指先がきゅっと強張る。
「簡単に言わないで」
気づけば、そう返していた。
「簡単じゃないのはわかってる」
凛花は少しも怯まない。
「でも難しいからって止まってたら、結局行く人が取るだけでしょ」
「……」
「私は行くよ」
その言葉には、迷いがひとつもなかった。
「負けるつもりないし」
やっぱり、すごいと思う。
羨ましいとも思う。
でも、それ以上に悔しい。
自分にはまだ、そのまっすぐさがない。
欲しいものを欲しいと言う勇気も、隣へ行くことを当然みたいに選ぶ強さも。
凛花は少しだけ表情をやわらげた。
「別に、朝倉さんをいじめたいわけじゃない」
「……見えないけど」
「そうね」
ほんの少しだけ笑う。
「でも、見てると焦るの」
「焦る?」
「神谷くん」
その名前が出るだけで、澪の心臓は少し速くなる。
「たぶん、自分で思ってるより朝倉さんのこと見てるから」
澪は目を見開いた。
「何それ」
「そのまま」
凛花は肩をすくめる。
「なのに、当の本人がいちばん後ろにいるみたいに見える」
「……」
「それ、すごく厄介」
厄介。
その表現が妙にしっくりくる。
たしかに自分は後ろにいる。
ノアとしてなら少し前へ出られるのに、朝倉澪としてはまだ何歩も後ろだ。
「私、行くから」
凛花が最後に言う。
「朝倉さんも来るなら、ちゃんと来て」
そう言って、そのまま校門の外へ歩いていく。
堂々とした背中だった。
迷いがない。
その背中を見送りながら、澪は胸の奥がじくじく痛むのを感じていた。
負けたくない。
そうはっきり思ってしまった自分に、少しだけ驚く。
家へ帰っても、その感情はずっと残っていた。
夕飯を済ませ、自室へ戻り、制服から部屋着に着替えても消えない。端末の前に座っても、今日はノアになれば何とかなる気がしなかった。
凛花の言葉が頭から離れない。
――何でもないことを積み重ねて近づく。
――私は行く。
――来るなら、ちゃんと来て。
澪はベッドの端に腰掛けて、両手をぎゅっと握った。
悔しい。
でもそれは、凛花が嫌いだからではない。
自分ができていないことを、正面から突きつけられたからだ。
ノアとして近づくことはできる。
でも現実で何もしなければ、その距離はいつか誰かに上書きされる。
スマート端末が震えた。
画面を見ると、朔からメッセージが来ていた。
『今日、篠宮と職員室行ったあと、交流デーの補助頼まれた』
『たぶん参加することになる』
胸がぎゅっと縮む。
やっぱり、と思う。
そういう場に朔が入るのは自然だし、凛花もたぶん関わる。
つまり、また何でもない“近づける理由”が増える。
指先が少し震えたまま、澪は返信欄を開いた。
閉じる。
また開く。
どうする。
ここで黙るのか。
それとも。
夏希の言葉がよぎる。
嫌だと思ったなら、それを忘れないこと。
凛花の言葉も重なる。
待つだけの本命は危うい。
澪は息を吸って、短く打ち込んだ。
『私も出ようかな』
送信した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
たったそれだけの文なのに、告白でもしたみたいな気分になる。
数秒後、既読がつく。
すぐに返事が返ってきた。
『ほんと?』
『それ、ちょっと嬉しい』
その二行を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
また、“嬉しい”だ。
朔は何気なく言うくせに、その一言の破壊力を少しもわかっていない。
けれど今夜の澪は、その熱をただ抱えたままでは終わらなかった。
画面を見つめたまま、小さく唇を噛む。
少しだけでも、言い返したい。
ちゃんと、自分から踏み込みたい。
『まだ決めてないけど』
『出るなら、ちゃんと役に立つから』
送ってから、顔が熱くなる。
何を言っているんだろうと思う。
でも、取り消したいとは思わなかった。
朔から返ってきたのは、すぐだった。
『うん』
『澪が出てくれたら助かる』
その文面を見たまま、澪はゆっくり端末を胸へ抱えた。
怖い。
でも、嬉しい。
そして何より、今夜の自分は少しだけ前へ出た。
凛花は正面から来る。
だから強い。
でも、だからこそわかったこともある。
自分はもう、見ているだけの位置には戻れない。
負けたくないと思ってしまった以上、少しずつでも現実で動かなければいけない。
窓の外では、住宅街の夜が静かに広がっている。
その暗さの中で、澪は自分の胸の奥にある気持ちを確かめる。
幼馴染だから。
近くにいたから。
そんな理由のままでは、もう足りない。
好きだから、隣にいたい。
その願いの前では、もう受け身のままではいられなかった。




