第3章 第2話:近づくたびに怖くなる
次の日の朝、目が覚めた瞬間に、澪は昨日のメッセージを思い出した。
『朝、ちょっと嬉しかった』
『また普通に話そ』
たった二行。
それだけなのに、胸の奥へ残る熱は思っていたより長かった。
ノアではなく、朝倉澪へ向けられた言葉。
それが嬉しかった。
嬉しかったのに、同じくらい怖くもなった。
普通に話そう。
そんなの、昔からできていたはずなのに。
今はそれが“進んでいる”ことの証拠みたいに感じてしまうから、前よりずっと重い。
制服に着替えて、髪を整えて、鏡の前で一度だけ小さく息を吐く。
昨日は一歩進めた。
なら今日は、あと半歩だけ。
そう思うのに、家を出る頃にはもう心臓が少しうるさかった。
通学路の角を曲がると、今日は朔のほうが先にこちらへ気づいた。
「おはよ」
自然な声だった。
待っていたみたいに聞こえてしまうのは、たぶん澪の都合のいい耳のせいだ。
「……おはよう」
澪も返す。
昨日ほどの緊張はない。
でも、まったく平気でもない。
少しずつ前へ出ようとするたびに、その一歩の重さがちゃんとある。
「今日も早いな」
朔が言う。
「昨日だけじゃなかったんだ」
「何それ」
「たまたまじゃないんだなって」
そう言って少し笑う顔が、やけに近く見える。
昨日より自然に会話できている。
その事実が嬉しい。
でも、嬉しいと感じた瞬間に、別の不安も胸の底から浮いてくる。
このまま近づいて、もしどこかで変に噛み合わなくなったらどうするのだろう。
また前みたいに何もなかったふりはできるのだろうか。
「澪?」
気づけば少し黙っていたらしい。
「え」
「またぼーっとしてる」
「してない」
「してる」
軽い言い合い。
昔ならもっと無造作に返せたはずのやり取りだ。
なのに今は、その一つひとつが宝物みたいで、同時に壊れ物みたいでもある。
「今日、一限移動だっけ」
澪は少し無理にでも話を繋ぐように言った。
「うん。視聴覚室」
「資料ある?」
「ある」
「ほんとに?」
「何だよその疑い方」
「朔、たまに忘れるから」
「おまえにだけは言われたくない」
「私は最近ちゃんとしてる」
「最近、って自分で言うんだ」
少し笑われて、澪はほんの少しだけ頬が熱くなった。
そうだ。
最近、ちゃんとしている。
少なくとも、ちゃんとしようとはしている。
教室へ入ると、夏希が露骨にこっちを見た。
澪が席へ着くなり、すぐに身を乗り出す。
「どうだった」
「朝の挨拶くらい」
「それでも昨日より前進」
「そうだけど」
「で、神谷の顔は?」
「……普通」
「嘘。絶対ちょっと嬉しかった顔してたでしょ」
図星だった。
夏希はすぐ顔に出る澪を見るのがうまい。
澪は目を逸らして、教科書を机に置く。
「嬉しそう、だったかも」
「はい、十分です」
夏希が満足そうに頷く。
「朝倉、それ今かなり進んでるから」
「でも」
「でも?」
「進んでる感じがするほど、怖い」
そう言うと、夏希は少しだけ表情を和らげた。
「まあ、それはそうだろうね」
「……」
「何も変わらないのは苦しいけど、変わり始めると今度は壊れるのが怖くなるし」
あっさり言い当てられて、澪は何も返せなくなる。
まさにその通りだった。
近づきたい。
でも、近づくほど怖い。
それは矛盾しているようで、たぶん恋をしている人間にはすごく自然な感情なのだろう。
午前の授業は、昨日よりさらに落ち着かなかった。
朔と目が合うたびに、昨日のメッセージを思い出す。何か言われるたび、今の会話はただの幼馴染のものなのか、それとも少しだけ違うのかと考えてしまう。
考えすぎだ、と自分でも思う。
でも、考えないではいられない。
昼休み、澪が購買の列に並んでいると、少し後ろから朔が声をかけてきた。
「澪、何買う?」
不意打ちで呼ばれて、肩がわずかに揺れる。
「……サンドイッチ」
「またそれ?」
「何が」
「最近ずっとそれじゃん」
「好きだからいいの」
「飽きない?」
「飽きない」
「へえ」
朔は少しだけ笑った。
「じゃあ俺、飲み物だけにするわ」
「今日はパンじゃないの?」
「朝ちょっと食った」
そう答えながら、自然に澪の隣へ立つ。
近い。
でも、嫌じゃない。
嫌じゃないからこそ余計に困る。
「昨日のさ」
朔がぼそっと言う。
「また普通に話そ、って送ったけど」
「うん」
「無理そうなら無理でいいからな」
澪は顔を上げた。
「え」
「いや」
朔は少し視線を逸らす。
「変にプレッシャーになってたら嫌だなと思って」
その言い方があまりにもやさしくて、胸の奥がじわりと熱くなる。
無理そうなら無理でいい。
でも話したい。
その距離感が、ずるい。
「……無理ではない」
澪は小さく言う。
「ほんと?」
「うん」
「そっか」
朔はそれだけで少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、よかった」
その顔を見た瞬間、澪の胸の奥で何かが大きく揺れる。
嬉しい。
でもその嬉しさのぶんだけ、怖くなる。
自分の言葉ひとつで、こんなふうに表情が変わる。
そのこと自体が、前よりずっと意味を持って見えてしまうからだ。
購買から戻る途中、教室前の廊下で数人の女子がひそひそと話しているのが耳に入った。
「最近また仲いいよね」
「前からじゃない?」
「でもちょっと空気違くない?」
「わかる。なんか前より近い感じ」
通りすがりの何気ない声だった。
悪意なんてない。ただ見たままを口にしているだけだ。
なのに、その“前より近い感じ”という表現が、澪の胸を静かに打った。
近いのかもしれない。
少なくとも、少しは変わっているのかもしれない。
でも、それを自覚した瞬間、喉の奥が詰まりそうになる。
壊れたらどうしよう。
この“前より近い”が、いつか“前みたいには戻れない”に変わったらどうしよう。
放課後、掃除当番を終えた澪が教室へ戻ると、朔が窓際でスマート端末をいじっていた。
帰り支度をしながら何気なく顔を上げ、目が合う。
「帰る?」
朔が聞く。
自然な調子。
前なら、こんなの何でもない一言だった。
「……うん」
「じゃ、一緒に行こ」
それも、昔から何度も聞いた言葉だ。
でも今は、その“一緒に行こ”が昨日までより少しだけ違う意味を持って聞こえてしまう。
「澪?」
返事が遅れたせいで、朔が不思議そうに首を傾げる。
「嫌なら別に」
「嫌じゃない」
思ったより早く、強く言葉が出た。
朔が少しだけ目を丸くする。
澪は自分でも驚いて、すぐに視線を逸らした。
「……嫌じゃないけど」
「けど?」
「ちょっと、びっくりしただけ」
「何に」
「普通に誘われたから」
「いや、普通に誘うだろ」
朔は苦笑する。
「前からそうしてたじゃん」
「……そうだけど」
そうだ。
前からそうしていた。
でも今は、その“前から”の中にいられない自分がいる。
二人で校門を出て、並んで歩く。
夕方の空気は朝よりやわらかく、風の匂いも少しだけ変わっている。住宅街の向こうには夕焼けが残っていて、電柱の影が長く伸びていた。
「今日、昼に聞こえたんだけど」
朔が何気なく言う。
「クラスの女子が、最近また仲いいって言ってた」
澪の心臓が跳ねた。
「……聞いてたの?」
「聞こえた」
「で」
「で、って?」
「何か思った?」
聞いた瞬間、自分で後悔する。
何を聞いているんだろう。
そんなの、普通に「昔からだし」で終わるに決まっている。
でも朔は少しだけ考えるように黙ったあと、意外なくらいまっすぐ言った。
「……前より近いかもな、とは思う」
足が止まりそうになる。
「え」
「いや、最近の澪、ちょっと違うだろ」
朔は前を向いたまま続ける。
「前よりちゃんとこっち見て話すし、避けないようにしてる感じあるし」
「……」
「それ、俺はけっこう嬉しい」
その一言で、胸の奥が大きく揺れた。
嬉しい。
またその言葉だ。
こんなふうに何度も、簡単に、でも真面目な顔で言われたら、もうどうしたらいいのかわからなくなる。
「でも」
朔が少しだけ声を落とす。
「近いって思うほど、たまにすごい遠い時もある」
澪は返事ができなかった。
それもまた、図星だったからだ。
近づこうとしている。
でも、その一歩が怖くて、たまに自分から壁を作る。
朔から見ても、その揺れはきっと伝わっている。
「……ごめん」
澪は小さく言う。
「謝らなくていい」
「でも」
「怖いんだろ」
あまりにも静かに言われて、思わず顔を上げる。
朔は少しだけ困ったように笑った。
「何となく、そう見える」
その表情に、胸の奥がきゅっと痛む。
どうしてそんなふうにわかってしまうのだろう。
肝心なところはまだ何も知らないくせに、こういう時だけは妙に正しい場所へ触れてくる。
「……うん」
澪はやっとのことで頷いた。
「ちょっと、怖い」
「そっか」
朔はそれ以上深く聞かなかった。
ただ、小さく息を吐いてから言う。
「でも、近づいてくれるのは嬉しいから」
まただ。
嬉しい、という言葉が、まるで当たり前みたいに落ちてくる。
澪は唇を噛んで、何も言えなかった。
家へ帰って、夜になり、ノアとしてログインすると、アークはいつも通りそこにいた。
群青の空、白い塔、石畳に落ちる光。
夜の名前をまとえば、少しだけ呼吸がしやすくなる。
でも今夜のノアは、その呼吸のしやすさの奥に別の痛みを感じていた。
『ノア』
アークがこちらへ手を上げる。
『来たか』
『うん』
『今日は少し機嫌いい?』
軽く聞かれたその一言に、澪は一瞬だけ目を伏せた。
朔にも似たようなことを言われた。
遠いのに近い、と。
変わった、と。
そして、近づいてくれるのが嬉しい、と。
現実でもVRでも、少しずつ距離は動いている。
それなのに、二つの世界はまだ繋がらない。
『……わかるの』
ノアが小さく返す。
『何となく』
アークが笑う。
『最近、ノアわかりやすいし』
『そんなことない』
『あるって』
そのやり取りに、ノアはふと苦しくなる。
近づけている。
でも、近づくたびに怖くなる。
現実の名前で呼ばれる時も、
夜の名前で笑いかけられる時も、
どちらも嬉しいのに、どちらもその先へ進む怖さを抱えている。
それでも今日は、ひとつだけはっきりしていた。
怖いからこそ、もう前みたいに黙っているだけではいられない。
近づくたびに怖くなるのなら、それはきっと、本当に近づいている証拠でもあるのだと思いたかった。




