第3章 第1話:現実で隣に立つ練習
朝の空気はまだ少し冷たくて、制服の袖口から入る風が肌を撫でた。
住宅街の道は静かだった。通学時間帯特有のざわめきはあるけれど、車の音も人の声も、どこか薄い膜を一枚かぶせたみたいに遠い。空は明るい青へ向かいかけていて、電線の向こうに白い雲が細く流れている。
澪は鞄の紐を握りしめたまま、曲がり角の手前で一度だけ深く息を吸った。
昨日の夜、自分の中ではっきりしたことがある。
ノアとして近づけることは、本物だ。
でも、それだけでは届かない。
朝倉澪として、現実で立たなければ、この恋はどこにも行けない。
わかっている。
わかっているのに、足はやっぱり少しだけ重い。
曲がり角を曲がると、見慣れた背中があった。
神谷朔は、スマート端末を片手に持ったまま、電柱の影へ軽く寄りかかっていた。待っていたわけではないのかもしれない。でも、澪がその姿を見つけた瞬間、心臓は勝手に「待っていたのかもしれない」と期待してしまう。
向こうも気づいた。
顔を上げて、少しだけ目を丸くする。
「お」
その一音だけでも、胸の奥がざわつく。
ここでいつも通りに黙ったまま近づいたら、また同じだ。
自然に並んで、自然に息を合わせて、それでいて肝心なことは何も変わらないまま終わる。
だから、澪は唇を軽く結んでから、先に口を開いた。
「……おはよう」
朔が一瞬だけ間を置いた。
それから、少しやわらかい顔で笑う。
「おはよ」
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が熱い。
自分から言った。
それだけで、思っていた以上に消耗する。
並んで歩き出す。
昔から何度も繰り返してきた通学路だ。足元のひび割れた舗装も、角にある小さな花屋も、二つ目の信号の押しボタンが少しだけ固いことも、全部知っている。
知っているのに、今日は少し違って見える。
それは景色が変わったからじゃない。
自分が変わろうとしているからだ。
「今日、早いな」
朔が言う。
何気ない声。
でもその何気なさに、澪は少しだけ救われる。
「うん」
「珍しい」
「……ちょっと、早く起きたから」
「へえ」
朔がちらっとこちらを見る。
「朝倉さん、そういうの苦手そうなのに」
「何それ」
「朝弱いだろ」
「弱くないよ」
「いや、弱い」
そんな軽口に、澪はほんの少しだけ笑いそうになる。
前なら、こういう会話はもっと自然だった。
でも今は、一つひとつの言葉が少しだけ怖い。
返し方を間違えたら、何かがすぐに崩れそうな気がする。
それでも、今日は黙らないと決めた。
「朔は」
自分でも少し驚くくらい自然に言葉が出る。
「今日は先、行かないの?」
朔が目を瞬く。
「え」
「いつも、このへんでちょっと早く歩くから」
「……よく見てるな」
その言い方が、妙に近い。
澪は慌てて視線を逸らした。
「別に」
「いや、別にって」
朔が少し笑う。
「それ、澪から言うの珍しい」
「そう?」
「そう」
珍しい。
その一言だけで、また心臓が少しうるさくなる。
でも、嫌じゃない。
むしろちゃんと気づいてもらえたことが、少しだけ嬉しい。
「何かあった?」
朔が続ける。
「何かって?」
「いや、最近ちょっとずつ違うだろ」
澪はすぐには答えられなかった。
違う。
そうだ。たぶん、自分でもわかるくらいには。
ノアとして近づいたぶん、現実では余計にぎこちなくなった時期もあった。
でも今は、そのままでは終わりたくないと思っている。
その気持ちが、少しずつ行動へ滲み始めているだけだ。
「……少しだけ」
やっとそれだけ言う。
「少しだけ?」
「前より、逃げないようにしてる」
口にした瞬間、自分で少しだけ驚いた。
ここまではっきり言うつもりはなかった。
でも、嘘じゃない。
むしろ今の自分を表すなら、それが一番近い。
朔は黙って、その言葉を受け止めていた。
からかうでもなく、軽く流すでもなく、ただ少しだけ真面目な顔になる。
「そっか」
短い返事。
でも、その声は思っていたよりやわらかかった。
「……ありがと」
「何で」
「いや」
朔が少し困ったように笑う。
「逃げないでいてくれるの、普通に嬉しい」
澪の胸の奥が、ひどく静かに熱を持つ。
嬉しい。
そう言われるだけで、また簡単に期待してしまいそうになる。
でも今は、それでいいのかもしれない。
全部を否定しながら進むより、少しでも嬉しいと思えたことを大事にしたい。
学校へ着くまでの道は、いつもより短く感じた。
とはいえ、ずっと気楽だったわけではない。話が途切れるたびに、また黙ってしまいそうになるし、隣の気配が近いだけで胸は勝手に落ち着かなくなる。
それでも今日は、ひとつだけ違った。
澪が黙るたび、朔のほうから何気ない話題を拾ってくれたことだ。
「今日の一限、移動だっけ」
「うん」
「資料忘れてない?」
「持ってる」
「珍しい」
「失礼だなあ」
「いや、澪たまにギリギリで焦るじゃん」
「それは朔もでしょ」
「俺は何とかなる派」
「何ともならない時あるでしょ」
「ある」
その即答に、澪は思わず少し笑った。
たぶん、こういう時間の積み重ねなのだ。
好きになった理由の大きな部分は。
無理に盛り上げなくても続く会話。変に飾らなくても隣にいられる空気。そういう当たり前が、気づけば何より大事になっていた。
でも今は、その“当たり前”の中にいたままでは足りないとも、知ってしまっている。
教室へ入ると、夏希がすぐにこちらを見た。
澪が席へ着くより先に、口元だけで「どうだった」と聞いてくる。
澪は小さく息を吐いてから、指先でほんの少しだけ丸を作った。
すると夏希が目を見開く。
ホームルームが始まる前の短い時間、夏希は椅子を少しずらして小声で言った。
「え、何それ。何かあったの?」
「……おはようって、自分から言った」
「は?」
「あと、ちょっとだけ普通に話した」
夏希は数秒黙ったあと、ありえないものを見るみたいな顔になった。
「朝倉、それ普通に革命じゃん」
「大げさ」
「大げさじゃないって」
夏希は小さく身を乗り出す。
「で、神谷は?」
「びっくりしてた」
「そりゃする」
「でも」
澪は少しだけ言葉を探す。
「嬉しそう、だった」
その事実を口にすると、また胸が熱くなった。
嬉しそうだった。
それだけで、やった意味があったと思ってしまう。
単純だ。単純すぎる。
でも、今の自分にはそのくらいの小さな前進で十分だった。
「ほら」
夏希が小さく笑う。
「ちゃんと進んでる」
「……疲れたけど」
「それは知ってる」
「すごく疲れた」
「でもやった」
そこで先生が教室へ入ってきて、会話は途切れた。
午前中の授業は、いつもより少しだけ現実味があった。
まだ不安は消えていない。朔と目が合うたびに胸はざわつくし、話しかけられたらまたうまく返せないかもしれないと思う。
けれど、少なくとも今日は朝倉澪として一歩動けた。
その実感が、小さな芯みたいに胸の奥へ残っていた。
昼休み、澪が廊下へ出ると、ちょうど自販機の前に朔がいた。
視線が合う。
逃げるか、立ち止まるか。
ほんの一瞬だけ迷って、澪はそのまま近づいた。
「何買うの?」
自分から聞いた瞬間、朔がまた少しだけ驚いた顔をする。
「……今日どうした」
「何が」
「いや、何か」
朔は缶ジュースを取り出しながら笑う。
「朝からちょっと攻めてるなって」
その言い方に、澪の頬が少しだけ熱くなる。
「攻めてない」
「そう?」
「普通」
「それがいつもより珍しいんだって」
「ひどい」
朔が缶を一本差し出す。
「これ、澪も飲む?」
「え」
「前に好きって言ってたやつ」
ラベルを見ると、甘さ控えめのミルクティーだった。
何でもない顔で差し出してくる。
でもそういう何でもなさの中に、ちゃんと覚えていることが混ざっているから、簡単に心が揺れる。
「……ありがと」
受け取ると、缶の冷たさが指先へ移る。
「ちゃんと覚えてた」
「そりゃ覚えてるだろ」
朔は当たり前みたいに言う。
「澪、意外と好き嫌いはっきりしてるし」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
「半分なんだ」
少しだけ笑いがこぼれる。
ほんの数分の立ち話。
でも、その数分が前より自然に感じられた。
まだ緊張はある。心臓もうるさい。けれど、“現実の名前で呼ばれること”だけで息が詰まる段階からは、ほんの少しだけ進めた気がする。
放課後、澪は一人で帰りながら空を見上げた。
薄いオレンジから群青へ変わっていく夕方の空。校門の外へ流れる生徒たちの波。遠くで鳴る自転車のベル。
今日、自分から話しかけた。
短い会話をした。
普通みたいな顔で、少しだけ隣へ立った。
それだけだ。
それだけなのに、昨日までの自分にはできなかった。
ノアみたいにうまくはできない。
スマートでもないし、言葉だって全然足りない。
でも、朝倉澪としてやれたことには、ノアとは違う重みがあった。
家へ帰って自室へ入ると、ベッドへ座る前にスマート端末が震えた。
画面を見る。
朔からだった。
『朝、ちょっと嬉しかった』
『また普通に話そ』
その二行を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ノアではなく、朝倉澪へ届いた言葉だ。
澪はしばらく画面を見つめて、それから小さく息を吐いた。
まだ足りない。
まだ全然、届いていない。
でも、今日の一歩はちゃんと意味があった。
夜の名前に隠れなくても、少しずつなら前へ行ける。
その手応えだけは、確かに残っていた。




