第2章 第12話:夜の名前では、届ききらない
その夜、ノアはログインした瞬間から、どこか静かな緊張を抱えていた。
アステリオの中央広場は、深夜前らしい落ち着いた光に包まれている。白い塔の窓は遠くまで規則正しく瞬き、石畳には噴水の反射が揺れていた。行き交うプレイヤーの数は少なく、声も足音も、昼間よりひとつ薄い膜を通したみたいにやわらかい。
広場の中央寄り、転送柱のそばにアークの姿を見つけた時、ノアの胸はわずかに鳴った。
気づいた向こうが、すぐにこちらを見る。
「来た」
その一言が、妙に近い。
「……来た」
ノアも返す。
「今日、早いな」
「少しだけ」
「助かる」
アークは笑った。
「新エリアの最奥、二人で地形だけ見に行けそうだったから」
ノアは一瞬、息を止めた。
二人で。
その言葉は、今の自分にはあまりに強い。
けれど同時に、断りたくないとも思ってしまう。
「フレアたちは?」
どうにか平静を装って訊く。
「ピピは今日は来るの遅いって。フレアとセレスは周回終わったあとで合流するかも」
アークは軽く肩をすくめる。
「だから、最初だけ先見に行くなら今かなって」
最初だけ。
先に二人で。
そういう小さな特別が、最近少しずつ増えている。
ノアは目を伏せる。
嬉しい。
嬉しいのに、その嬉しさを全部そのまま受け取ってしまうと、どこかで怖くなる。
これはノアへ向けられている。
朝倉澪へではない。
「ノア?」
アークが少しだけ不思議そうに呼ぶ。
「……行く」
気づけば、そう答えていた。
転送後、二人が降り立ったのは《星蝕回廊》の最奥区画だった。
巨大なアーチが幾重にも連なる石の回廊。床には細かい銀の紋様が走り、壁面には夜空を封じ込めたみたいな黒い鉱石が埋め込まれている。遠くでは青白い灯石がゆっくり脈打ち、影が水面のように揺れていた。
静かだ。
深い場所へ来た時特有の、音の輪郭だけがはっきりする静けさ。
「綺麗だな」
アークが周囲を見回しながら言う。
「……罠だらけのくせに」
ノアが返す。
「そういうとこ含めて」
アークが笑う。
二人きりだと、会話の間がいつもより少しだけ長い。
でも、その間が嫌ではない。
むしろ心地いいと感じてしまうから困る。
「右、段差」
ノアが先に言う。
「了解」
アークはすぐ足を緩める。
「この先、反転床あるかも」
「じゃあ今日はノアの言うこと全部聞くわ」
「それ、普段も聞いて」
「努力目標で」
「信用ないなあ」
「でも、ノアの指示は信じてる」
何気ない口調だった。
それなのにノアは一瞬、うまく呼吸ができなくなる。
信じてる。
そういう言葉を、最近のアークはためらわずに向けてくる。
たぶん本人は深く意識していない。
でも、受け取る側の心はそんなふうに器用にできていない。
二人で進む回廊は、思っていたよりずっと静かだった。
途中で小型の魔物が二体だけ湧いたが、ノアの拘束とアークの斬撃でほとんど時間もかからずに片づく。戦闘後に残るのは、足音と、時折落ちる短い言葉だけだった。
「やっぱ二人だと早いな」
アークが剣を払う。
「余計なとこ見なくていいし」
「余計なとこって何」
「後ろのフォローとか、全体の位置とか」
少し考えてから、アークが続けた。
「ノアといると、そこを任せられるから楽」
ノアは視線をまっすぐ前に向けたまま、指先だけをきゅっと握る。
楽。
任せられる。
最近、その言葉は増えた。
それは確かに、自分が近づけている証拠でもある。
ノアとして積み重ねてきた時間が、ちゃんと形になっている証拠だ。
なのにその一方で、胸のどこかが冷える。
朝倉澪は、どうなのだろう。
現実の自分はまだ、朔の前でうまく笑えない。
ちゃんと話すことさえ、こんなに難しいのに。
ノアだけがこうして近づいていくのは、何かが少しずつずれていくみたいで怖かった。
最奥手前の開けたテラスへ出ると、回廊の外側に広がる巨大な空洞が見渡せた。底の見えない黒の中を、星屑みたいな光がゆっくり流れている。風はないのに、ローブの裾だけがわずかに揺れた。
「ここ、すごいな」
アークが欄干へ近づく。
「落ちたら戻ってこられなさそう」
「縁起でもないこと言わないで」
ノアは少しだけ眉を寄せる。
「いや、たとえ話」
「そういうの、やめて」
思ったより強い声が出た。
アークが振り返る。
「……ごめん」
ノアはすぐに言い直した。
「別に怒ってるわけじゃなくて」
「うん」
「そういうの、ちょっと苦手」
「わかった」
アークは素直に頷いて、それ以上は続けなかった。
その沈黙が落ち着くようで、逆に少しだけ苦しい。
ちゃんと引いてくれる優しさがあるから、余計に期待してしまう。
しばらく二人で欄干越しの景色を見ていると、アークがぽつりと言った。
「最近さ」
「何」
「ノアには、言いやすいこと増えた」
心臓が、ひとつ強く打つ。
「……何それ」
「そのまま」
アークは前を向いたままだった。
「変に隠さなくていいっていうか」
「隠してるの」
「割と」
意外な返答に、ノアは少しだけ目を見開く。
アークは人に弱いところを見せないタイプではない。
明るくて、距離も近くて、困っている人がいればすぐ手を出す。
でも、本当に面倒なものは自分の中で勝手に処理してしまうところがある。
それを、ノアは昔から知っていた。
「……何を」
気づけば、そう聞いていた。
「いろいろ」
アークは苦笑する。
「最近、現実のほうちょっと面倒で」
「現実?」
「うん」
少し間を置いてから続ける。
「別に何か大きい問題があるとかじゃない。でも、何ていうか」
そこで言葉を探すように黙る。
「距離が近い相手ほど、うまくいかない感じ」
ノアの胸が静かに軋んだ。
それは、自分のことを言っているのかもしれない。
でも確信は持てない。
持ちたくないのに、期待してしまう。
「わかんなくなるんだよ」
アークは低く言う。
「昔みたいに普通でいたいのに、前と同じじゃない感じがして」
ノアは返事ができなかった。
わかる。
痛いほどわかる。
でも、それを「わかる」と言ってしまったら、何かが繋がりそうで怖かった。
「ノアには」
アークが続ける。
「なんか隠さなくていい気がする」
その一言が、真っ直ぐ胸へ落ちる。
アークはまだこちらを見ていない。
ただ、景色の向こうを見たまま、静かに言葉を置いているだけだ。
だからこそ、嘘じゃないのだとわかってしまう。
ノアは喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
嬉しい。
どうしようもなく嬉しい。
でも同時に、その嬉しさがそのまま刃になる。
それはノアに向けられた言葉だ。
朝倉澪ではない。
「……それ」
やっとのことで声を出す。
「軽く言わないで」
アークがようやく振り向いた。
「軽く言ってない」
「だから困る」
「困るのか」
「困る」
視線がぶつかる。
夜の光を含んだ瞳が、思っていたより近かった。
ここが現実じゃなくてよかったと、一瞬だけ思う。
朝倉澪のままでは、こんなふうに正面から受け止められない。
「ノア」
アークが少しだけ声を落とす。
「最近、ほんとにいてくれて助かってる」
ノアは唇を噛む。
言葉にしないでほしい。
でも、言ってほしい。
そういう矛盾ばかりが胸の中にある。
「……嬉しい」
気づけば、本音が漏れていた。
アークが目を細める。
「うん」
「嬉しいけど」
そこから先は、喉の奥で少し引っかかった。
「……これじゃだめだって思う」
「え」
言ってしまった、とノアは思う。
でも止まらなかった。
「ノアとして近づけるのは、嬉しい」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「でも、それだけじゃ」
アークは何も言わない。
その沈黙が、続きを促している気がした。
「……届ききらない」
最後の言葉は、ほとんど自分に言い聞かせるみたいだった。
アークが小さく息を呑む気配がした。
「ノア」
「ごめん」
ノアは視線を逸らす。
「今の、忘れて」
「忘れられるかよ」
その返しが少しだけ強くて、逆に胸が揺れる。
「どういう意味?」
アークが聞く。
「それ」
「……」
「ノアとして、って」
ノアは答えられなかった。
ここで全部言えば楽になるのかもしれない。
朝倉澪として好きだということも、
現実の自分が置いていかれて苦しいことも、
このままじゃだめだと思っていることも。
でも、それを言ってしまうにはまだ足りない。
勇気も、覚悟も、何もかも。
「……今は言えない」
結局、それしか出なかった。
アークは少しだけ苦い顔をする。
「そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
短く返して、アークは欄干へ視線を戻す。
「でも、いつかちゃんと聞きたい」
その言葉はやさしいのに、逃げ場がなかった。
フレアたちが合流したのは、その少しあとだった。
通話が開き、ピピの元気な声が飛び込んでくる。
『合流できそう?』
『できる』
アークが先に返す。
『今、最奥テラス』
『じゃあ行くわ』
フレア。
『待っててくださいねー!』
ピピ。
『セレスさん、足元気をつけて』
『大丈夫ですよ』
セレスの声も混じる。
途端に、二人だけの空気はやわらかくほどけた。
それなのに、ノアの胸の中の熱だけは消えなかった。
嬉しい。
でも、これじゃだめだ。
その気持ちが、今は同じ重さでそこにある。
合流したあと、探索自体は何事もなく終わった。
フレアは相変わらず鋭く、ピピはにぎやかで、セレスはやさしく全体を支える。アークはいつも通り頼もしくて、時々ノアへ視線を向けてくる。そのたびに、ノアは胸の奥が小さく疼くのを感じた。
ログアウトして現実へ戻ると、部屋の天井はやけに近く感じた。
澪はベッドへ腰を下ろしたまま、しばらく動けない。
ノアとしてもらった言葉が、まだ胸の奥に熱を残している。
――ノアには、なんか隠さなくていい気がする。
――いてくれて助かってる。
嬉しい。
本当に嬉しい。
でも、その嬉しさに浸るだけでは終われないことも、今夜ようやくはっきりわかった。
それはノアへ向けられたものだ。
朝倉澪の恋が、そのまま報われたわけじゃない。
「……だめだ」
小さく呟く。
嬉しいのに、泣きそうだった。
ノアは夜の名前だ。
そこで近づけることは、本物だ。
でも、そのまま夜の中だけで終わってしまったら、朝倉澪はどこにも届かない。
窓の外には、住宅街の明かりがぽつぽつと灯っている。
現実の夜は静かで、VRよりずっと冷たい。
澪は両手をゆっくり握りしめた。
夜の名前では、届ききらない。
それでも、ノアとして近づけたことまで無駄にしたくない。
なら、その先へ行くしかない。
朝倉澪として、ちゃんと。
そこまで思えた時、胸の奥の痛みはまだ残ったままだったけれど、その痛みの形だけは、以前よりずっとはっきりしていた。




