表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/108

第2章 第11話:朝倉澪として、そこにいる意味


 その日は、朝から少しだけ空気が違った。


 教室の窓から差し込む光はいつも通りなのに、澪の胸の中だけが落ち着かない。ホームルーム前のざわめき、端末の起動音、誰かの笑い声。何も変わらないはずの日常が、今日は薄い膜を一枚挟んだみたいに遠く感じる。


 ノアとしてなら、少しずつ近づけている。

 その実感はもう否定できない。


 アークがかけてくる言葉も、

 頼り方も、

 視線の向け方も、

 以前より明らかに近い。


 でも、だからこそ朝倉澪のまま教室にいる自分が、余計に頼りなく思えてしまう。


 朔は数席離れた場所で、男子たちと話していた。

 笑っている。いつも通りの顔だ。

 なのに澪の目には、その“いつも通り”が前よりずっと遠く見えた。


「朝倉、聞いてる?」

 夏希の声で、はっとする。

「え」

「え、じゃない。今日の小テストの範囲」

「あ、ごめん。聞いてなかった」

「でしょ」

 夏希は呆れたように息をつく。

「最近ずっと上の空だよ」

「……そうかも」

「神谷のこと?」

 あまりにも当然みたいに聞かれて、澪は少しだけ苦笑した。

「ほかにあると思う?」

「ない」


 即答だった。

 それが少しだけ救いになる。


「昨日も入ったんでしょ」

 夏希が小声で言う。

「うん」

「で、進んだ?」

「……ノアは、たぶん」

「朝倉澪は?」

 その問いに、澪は答えられなかった。


 やっぱりそこだ。

 ノアとしての自分と、朝倉澪としての自分。

 その二つが、今はきれいに繋がらない。


「朝倉」

 夏希が少しだけ真面目な声になる。

「便利な顔に逃げるの、もう限界来てるんじゃない」

「逃げてるつもりは」

「なくても、結果的にはそうなってる」

 澪は視線を机へ落とした。


 わかっている。

 ノアを否定するつもりはない。

 でも、ノアだけが先に進んでいくのなら、その先にいるのは本当に“自分”なのかと時々わからなくなる。


「現実でも、何かひとつやったほうがいい」

 夏希が言う。

「ひとつ?」

「大したことでなくていいから。神谷の前で、ちゃんと朝倉澪として立つこと」

「立ってるよ」

「立ててないから今こんな顔してるんでしょ」


 返す言葉がなかった。


 昼休み、澪は購買へ向かう途中で朔に呼び止められた。


「澪」

 背後から落ちた声に、肩がわずかに揺れる。

「……何」

「今日、放課後少し時間ある?」

 その言い方が、前より少し慎重だった。

 たぶん朔なりに気を遣っているのだろう。澪が逃げたがると知っていて、それでも話そうとしてくれている。


「どうして」

「どうしてって」

 朔は少しだけ困ったように笑う。

「この前から、ちゃんと話したいって言ってるだろ」

「……」

「無理にとは言わない。でも、ずっとこのままも嫌だ」

 その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。


 ずっとこのままも嫌。

 それはきっと、澪だって同じだ。


「……少しだけなら」

 気づけば、そう答えていた。


 朔がほんの少しだけ、安心したような顔をする。

 その表情にまた胸が揺れて、澪は慌てて視線を逸らした。


 放課後までの時間は、思っていたより長かった。


 授業の内容は頭へ入ってこないし、ノートを取る手も時々止まりそうになる。何を話すつもりなのか、自分でもまだわからない。好きだとまでは言えない。じゃあ何を伝えるのか。どこまでなら言えるのか。


 答えの出ないまま、時計の針だけが進んでいく。


 六限が終わると、朔は約束通り教室の外で待っていた。

 周りにはまだ生徒の気配が多い。だからか、朔はそのまま校舎裏の渡り廊下へ歩き出す。以前、第1章の終わりにも少しだけ話した場所だ。夕方の風が通って、窓の外に運動部の声が聞こえる。


「ここなら少し静かだから」

 朔が言う。

「うん」

 澪も小さく返す。


 少しの沈黙。

 その間に、風がガラス窓をかすかに鳴らした。


「最近」

 先に口を開いたのは朔だった。

「俺といる時、無理してるだろ」

 澪はすぐには答えられなかった。


 無理している。

 その通りだと思う。

 でも、それをどう認めればいいのかわからない。


「してないって言ったら、嘘になる?」

 やっとのことでそう返す。

 朔は少しだけ目を細めた。

「なる」

「だよね」

「うん」


 そこまであっさり言われると、逆に少しだけ笑いそうになる。

 でも笑えない。


「何でなのか、聞いてもいい?」

 朔が言う。

「……」

「全部じゃなくてもいいから」

 その声はやわらかい。

 でも逃がさない。


 澪は指先をぎゅっと握りしめる。

 ここでまた黙ったら、本当に何も変わらない気がした。


「朔といると」

 言葉を選ぶ。

「最近、前みたいにいられない」

 朔は黙っている。

「普通に話したいのに、できない時がある」

「うん」

「言いたいことがあるのに、言えない」

 そこまで言って、喉が少しだけ熱くなる。


 好きだとか、

 取られたくないとか、

 もっと見てほしいとか、

 そんなことはまだ言えない。


 でも、何もないふりを続けるのも違う。


「それって」

 朔が慎重に言う。

「俺が原因?」

 原因。

 その言い方に少しだけ息が詰まる。


「……原因っていうか」

 澪は視線を床へ落とした。

「関係は、ある」

 朔が短く息を呑む気配がした。


 関係がある。

 それは今までよりずっと踏み込んだ言葉だった。


「この前も言ってたよな」

 朔が低く言う。

「俺に関係あるって」

「うん」

「それ、どういう意味か聞いていい?」

「……今は、まだ」

「そっか」

 少しだけ寂しそうな声だった。

 その響きに、澪の胸が痛む。


 ちゃんと向き合おうとしてくれている。

 それがわかるからこそ、言えない自分が余計に情けない。


「ごめん」

 澪は小さく言う。

「でも、何もないわけじゃない」

 朔はしばらく黙って、それからゆっくり息を吐いた。


「わかった」

 その返事があまりにも静かで、逆に不安になる。

「……怒った?」

「怒ってない」

 朔は首を振る。

「ただ、やっぱり知りたいとは思う」

「うん」

「でも、無理に言わせても意味ないのもわかる」

 その言い方がひどく朔らしくて、澪は少しだけ目を伏せた。


 そうだ。

 こういう人だから好きになったのだ。

 ちゃんと相手を見て、踏み込む時も引く時も、雑にしない。

 でもその優しさが、時々ひどく残酷でもある。


「澪」

 朔がまた名前を呼ぶ。

「俺、待つって言っただろ」

「……うん」

「それ、本気だから」

 胸の奥が、また少し熱くなる。


「でも」

 朔は続ける。

「待つだけじゃなくて、俺もちゃんと知ろうとする」

 澪は顔を上げた。

 夕方の光の中で、朔の表情はいつもよりずっと真面目に見える。


「最近の澪、前と違う」

 朔が言う。

「なんか、前より遠いのに、たまに前より近い気もする」

 その言葉に、心臓がひとつ大きく打つ。


 遠いのに、近い。

 それはたぶん、ノアと澪が混ざりかけて見えているからだ。

 でも朔はまだ、その正体を知らない。


「……ずるい言い方」

 澪は小さく呟く。

「何が」

「そうやって、わかったようなこと言うの」

「わかってないから知りたいんだけど」

 朔は少し苦笑した。

「でも、完全に関係ない感じじゃないのは、たぶんわかる」

 澪は言い返せなかった。


 完全に関係ないどころか、全部関係ある。

 でも、その全部をまだ言えない。


 風が渡り廊下を抜ける。

 窓の外では、部活帰りの生徒たちが小さく見えた。


「ノア」

 気づけば、朔がその名前を口にしていた。

「え」

「いや」

 朔自身、少しだけ驚いたような顔をする。

「今、なんか変な感じした」

 澪の背中に、ひやりとしたものが走る。


 ノア。

 今、この場で、その名前が出るのは反則みたいだった。


「何それ」

 どうにか平静を装って返す。

「わかんない」

 朔は首を振る。

「でも、最近そういうの多い」

「……」

「澪見てると、別の誰かを思い出すみたいな」

 それ以上は言わないでほしいと、澪は心の底から思った。


 まだ繋がらないでほしい。

 でも、いつか繋がってほしい気もする。

 その矛盾で、息が苦しくなる。


「ごめん」

 朔は自分から話を切った。

「今の変だよな」

「ううん」

 澪は小さく首を振る。

「……でも、今日はここまででいい?」

 朔は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから頷く。

「うん」

「ちゃんと話してくれてありがとう」

 その一言で、また胸が熱くなる。


 好きだとは言っていない。

 でも、何もないわけじゃないとは伝えた。

 それだけでも、以前の自分からすれば十分すぎるくらい大きな一歩だ。


 渡り廊下を出たあと、澪は一人で昇降口へ向かった。

 外へ出ると、空はもう薄い群青に変わっていて、校門の向こうに街の灯りが見え始めている。


 歩きながら、澪は自分の胸へそっと手を当てる。


 ノアでいるだけでは終われない。

 今日、それをまた強く思った。

 現実の朝倉澪として、朔の前で言葉を出すこと。

 それがどれだけ怖くても、避け続けるわけにはいかない。


 でも同時に、もうひとつはっきりしたこともある。


 ノアはただの逃げ場所じゃない。

 そこで近づいた時間も、交わした言葉も、たしかに本物だ。


 だからこそ、それを朝倉澪へ繋げなければいけない。

 ノアで終わらせたくない。

 ノアだけを置いて先へ行かせたくもない。


 家までの道を歩きながら、澪は小さく息を吐く。

 今日の会話は、きっとまだ入口だ。

 でも入口にすら立てなかった頃の自分を思えば、それはもう十分に大きかった。


 朝倉澪として、そこにいる意味。

 それを自分で見失わないようにしなければ、もうこの恋は前へ進めないのだと、夕暮れの残り香の中で静かに思っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ