第2章 第11話:朝倉澪として、そこにいる意味
その日は、朝から少しだけ空気が違った。
教室の窓から差し込む光はいつも通りなのに、澪の胸の中だけが落ち着かない。ホームルーム前のざわめき、端末の起動音、誰かの笑い声。何も変わらないはずの日常が、今日は薄い膜を一枚挟んだみたいに遠く感じる。
ノアとしてなら、少しずつ近づけている。
その実感はもう否定できない。
アークがかけてくる言葉も、
頼り方も、
視線の向け方も、
以前より明らかに近い。
でも、だからこそ朝倉澪のまま教室にいる自分が、余計に頼りなく思えてしまう。
朔は数席離れた場所で、男子たちと話していた。
笑っている。いつも通りの顔だ。
なのに澪の目には、その“いつも通り”が前よりずっと遠く見えた。
「朝倉、聞いてる?」
夏希の声で、はっとする。
「え」
「え、じゃない。今日の小テストの範囲」
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「でしょ」
夏希は呆れたように息をつく。
「最近ずっと上の空だよ」
「……そうかも」
「神谷のこと?」
あまりにも当然みたいに聞かれて、澪は少しだけ苦笑した。
「ほかにあると思う?」
「ない」
即答だった。
それが少しだけ救いになる。
「昨日も入ったんでしょ」
夏希が小声で言う。
「うん」
「で、進んだ?」
「……ノアは、たぶん」
「朝倉澪は?」
その問いに、澪は答えられなかった。
やっぱりそこだ。
ノアとしての自分と、朝倉澪としての自分。
その二つが、今はきれいに繋がらない。
「朝倉」
夏希が少しだけ真面目な声になる。
「便利な顔に逃げるの、もう限界来てるんじゃない」
「逃げてるつもりは」
「なくても、結果的にはそうなってる」
澪は視線を机へ落とした。
わかっている。
ノアを否定するつもりはない。
でも、ノアだけが先に進んでいくのなら、その先にいるのは本当に“自分”なのかと時々わからなくなる。
「現実でも、何かひとつやったほうがいい」
夏希が言う。
「ひとつ?」
「大したことでなくていいから。神谷の前で、ちゃんと朝倉澪として立つこと」
「立ってるよ」
「立ててないから今こんな顔してるんでしょ」
返す言葉がなかった。
昼休み、澪は購買へ向かう途中で朔に呼び止められた。
「澪」
背後から落ちた声に、肩がわずかに揺れる。
「……何」
「今日、放課後少し時間ある?」
その言い方が、前より少し慎重だった。
たぶん朔なりに気を遣っているのだろう。澪が逃げたがると知っていて、それでも話そうとしてくれている。
「どうして」
「どうしてって」
朔は少しだけ困ったように笑う。
「この前から、ちゃんと話したいって言ってるだろ」
「……」
「無理にとは言わない。でも、ずっとこのままも嫌だ」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。
ずっとこのままも嫌。
それはきっと、澪だって同じだ。
「……少しだけなら」
気づけば、そう答えていた。
朔がほんの少しだけ、安心したような顔をする。
その表情にまた胸が揺れて、澪は慌てて視線を逸らした。
放課後までの時間は、思っていたより長かった。
授業の内容は頭へ入ってこないし、ノートを取る手も時々止まりそうになる。何を話すつもりなのか、自分でもまだわからない。好きだとまでは言えない。じゃあ何を伝えるのか。どこまでなら言えるのか。
答えの出ないまま、時計の針だけが進んでいく。
六限が終わると、朔は約束通り教室の外で待っていた。
周りにはまだ生徒の気配が多い。だからか、朔はそのまま校舎裏の渡り廊下へ歩き出す。以前、第1章の終わりにも少しだけ話した場所だ。夕方の風が通って、窓の外に運動部の声が聞こえる。
「ここなら少し静かだから」
朔が言う。
「うん」
澪も小さく返す。
少しの沈黙。
その間に、風がガラス窓をかすかに鳴らした。
「最近」
先に口を開いたのは朔だった。
「俺といる時、無理してるだろ」
澪はすぐには答えられなかった。
無理している。
その通りだと思う。
でも、それをどう認めればいいのかわからない。
「してないって言ったら、嘘になる?」
やっとのことでそう返す。
朔は少しだけ目を細めた。
「なる」
「だよね」
「うん」
そこまであっさり言われると、逆に少しだけ笑いそうになる。
でも笑えない。
「何でなのか、聞いてもいい?」
朔が言う。
「……」
「全部じゃなくてもいいから」
その声はやわらかい。
でも逃がさない。
澪は指先をぎゅっと握りしめる。
ここでまた黙ったら、本当に何も変わらない気がした。
「朔といると」
言葉を選ぶ。
「最近、前みたいにいられない」
朔は黙っている。
「普通に話したいのに、できない時がある」
「うん」
「言いたいことがあるのに、言えない」
そこまで言って、喉が少しだけ熱くなる。
好きだとか、
取られたくないとか、
もっと見てほしいとか、
そんなことはまだ言えない。
でも、何もないふりを続けるのも違う。
「それって」
朔が慎重に言う。
「俺が原因?」
原因。
その言い方に少しだけ息が詰まる。
「……原因っていうか」
澪は視線を床へ落とした。
「関係は、ある」
朔が短く息を呑む気配がした。
関係がある。
それは今までよりずっと踏み込んだ言葉だった。
「この前も言ってたよな」
朔が低く言う。
「俺に関係あるって」
「うん」
「それ、どういう意味か聞いていい?」
「……今は、まだ」
「そっか」
少しだけ寂しそうな声だった。
その響きに、澪の胸が痛む。
ちゃんと向き合おうとしてくれている。
それがわかるからこそ、言えない自分が余計に情けない。
「ごめん」
澪は小さく言う。
「でも、何もないわけじゃない」
朔はしばらく黙って、それからゆっくり息を吐いた。
「わかった」
その返事があまりにも静かで、逆に不安になる。
「……怒った?」
「怒ってない」
朔は首を振る。
「ただ、やっぱり知りたいとは思う」
「うん」
「でも、無理に言わせても意味ないのもわかる」
その言い方がひどく朔らしくて、澪は少しだけ目を伏せた。
そうだ。
こういう人だから好きになったのだ。
ちゃんと相手を見て、踏み込む時も引く時も、雑にしない。
でもその優しさが、時々ひどく残酷でもある。
「澪」
朔がまた名前を呼ぶ。
「俺、待つって言っただろ」
「……うん」
「それ、本気だから」
胸の奥が、また少し熱くなる。
「でも」
朔は続ける。
「待つだけじゃなくて、俺もちゃんと知ろうとする」
澪は顔を上げた。
夕方の光の中で、朔の表情はいつもよりずっと真面目に見える。
「最近の澪、前と違う」
朔が言う。
「なんか、前より遠いのに、たまに前より近い気もする」
その言葉に、心臓がひとつ大きく打つ。
遠いのに、近い。
それはたぶん、ノアと澪が混ざりかけて見えているからだ。
でも朔はまだ、その正体を知らない。
「……ずるい言い方」
澪は小さく呟く。
「何が」
「そうやって、わかったようなこと言うの」
「わかってないから知りたいんだけど」
朔は少し苦笑した。
「でも、完全に関係ない感じじゃないのは、たぶんわかる」
澪は言い返せなかった。
完全に関係ないどころか、全部関係ある。
でも、その全部をまだ言えない。
風が渡り廊下を抜ける。
窓の外では、部活帰りの生徒たちが小さく見えた。
「ノア」
気づけば、朔がその名前を口にしていた。
「え」
「いや」
朔自身、少しだけ驚いたような顔をする。
「今、なんか変な感じした」
澪の背中に、ひやりとしたものが走る。
ノア。
今、この場で、その名前が出るのは反則みたいだった。
「何それ」
どうにか平静を装って返す。
「わかんない」
朔は首を振る。
「でも、最近そういうの多い」
「……」
「澪見てると、別の誰かを思い出すみたいな」
それ以上は言わないでほしいと、澪は心の底から思った。
まだ繋がらないでほしい。
でも、いつか繋がってほしい気もする。
その矛盾で、息が苦しくなる。
「ごめん」
朔は自分から話を切った。
「今の変だよな」
「ううん」
澪は小さく首を振る。
「……でも、今日はここまででいい?」
朔は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから頷く。
「うん」
「ちゃんと話してくれてありがとう」
その一言で、また胸が熱くなる。
好きだとは言っていない。
でも、何もないわけじゃないとは伝えた。
それだけでも、以前の自分からすれば十分すぎるくらい大きな一歩だ。
渡り廊下を出たあと、澪は一人で昇降口へ向かった。
外へ出ると、空はもう薄い群青に変わっていて、校門の向こうに街の灯りが見え始めている。
歩きながら、澪は自分の胸へそっと手を当てる。
ノアでいるだけでは終われない。
今日、それをまた強く思った。
現実の朝倉澪として、朔の前で言葉を出すこと。
それがどれだけ怖くても、避け続けるわけにはいかない。
でも同時に、もうひとつはっきりしたこともある。
ノアはただの逃げ場所じゃない。
そこで近づいた時間も、交わした言葉も、たしかに本物だ。
だからこそ、それを朝倉澪へ繋げなければいけない。
ノアで終わらせたくない。
ノアだけを置いて先へ行かせたくもない。
家までの道を歩きながら、澪は小さく息を吐く。
今日の会話は、きっとまだ入口だ。
でも入口にすら立てなかった頃の自分を思えば、それはもう十分に大きかった。
朝倉澪として、そこにいる意味。
それを自分で見失わないようにしなければ、もうこの恋は前へ進めないのだと、夕暮れの残り香の中で静かに思っていた。




