第2章 第10話:ノアとして近づくほど
その夜、ノアはログインした直後から、少しだけ嫌な予感がしていた。
アステリオの中央広場は、いつも通り穏やかな夜の光に満ちている。白い石畳に流れる淡い魔法陣の光。遠くで鳴る演奏エモートの旋律。噴水の縁で雑談するプレイヤーたち。景色だけ見れば、何も変わっていない。
でも、通話欄に並んだ名前を見た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
アーク。
セレス。
フレア。
ピピ。
全員いつも通りだ。
けれど、ノアの目はその中でも真っ先にアークの名前を追ってしまう。
『こんばんは』
ノアが通話へ入ると、まずピピが元気よく反応した。
『ノア先輩こんばんはー!』
『こんばんは、ノアさん』
セレスのやわらかな声が続く。
『遅かったわね』
フレアは変わらず簡潔だった。
『こんばんは』
最後にアークの声が落ちる。
『来ると思ってた』
その一言が、妙に近く響いた。
来ると思ってた。
何気ない言葉なのに、ノアの胸の奥ではそれだけで少し熱が灯る。
『何』
ノアはできるだけ平静を装って返す。
『別に』
アークが少し笑う気配がする。
『最近、ノア来ると落ち着くから』
その言葉に、ノアは一瞬だけ息を止めた。
落ち着く。
また、その種類の言葉だ。
嬉しい。
でも、その嬉しさがそのまま苦しさへ繋がることも、もう知っている。
『はいはい、そこ会話止めないで』
フレアが淡々と切り込む。
『今日の行き先決めるわよ』
『はーい』
ピピが返事をする。
『今日は新しい遺跡区画の下見でしたよね』
セレスが補足する。
『うん』
アークが頷く。
『ノア、地形ログ取れる?』
『取れる』
『助かる』
助かる。
落ち着く。
来ると思ってた。
どれも何気ない言葉のはずなのに、今のノアにはどれも重い。
それを自分が欲しがっているからだ。
五人は転送門を抜け、《蒼層遺跡》へ移動した。
そこは階段状に広がる石造りの遺跡群で、壁や床のあちこちに青い鉱脈が走っている。天井は高く、外界から切り離された地下空間なのに、どこか夜の色が残って見えた。古びた柱、崩れた橋、浮遊する小型の灯石。足音は乾いていて、少し遠くまで響く。
「右手に索敵反応」
ノアがマップを見ながら言う。
「先行く」
アークが一歩前へ出る。
「私も横つく」
ノアは反射的にそう返した。
最近ではもう、その並びが少しずつ自然になってきている。
アークが前へ出て、ノアが少し横につき、その後ろにセレス、遊撃でピピ、火力補佐にフレア。
戦術としても合理的だし、周囲もそれを不自然とは言わなくなってきた。
それが嬉しい。
でも、その“自然になってきた”ことが別の意味で怖くもあった。
自分はノアとして近づいている。
そのぶん、朝倉澪はどうなっているのだろう。
最初の戦闘は軽かった。
中型の機械獣二体と小型の浮遊兵器が三体。遺跡らしく視界が開けているぶん、動線は読みやすい。
「ノア、左補助いける?」
「もう出してる」
青い拘束陣が床に走り、浮遊兵器の軌道がわずかに鈍る。
その隙をアークが迷いなく断ち切った。
「ナイス」
「そっちも」
「やっぱやりやすい」
アークが軽く言う。
「……最近そればっかり」
ノアは小さく返す。
「本当だからな」
その調子があまりにも自然で、ノアは言葉を続けられなくなる。
戦闘が終わるたびに、アークはノアへ短い言葉を投げる。
助かる。
助かった。
やっぱりいると違う。
最近は、そういう小さな言葉の数が少しずつ増えていた。
前なら、チーム全体へ向けられていたはずの信頼や感謝が、今は時々、ノア個人へ向く。
それが嬉しくて仕方ないのに、その嬉しさのぶんだけ、現実の自分が取り残されていく気もした。
遺跡二層目の手前で、ノアはふと足を止める。
「どうした?」
すぐにアークが振り返る。
「……何でもない」
「何でもない歩き方じゃなかったけど」
「ノア先輩、今日ちょっと静かですね」
ピピも不思議そうに言う。
「いつも静かでしょ」
「そういう静かじゃなくて」
ピピは言葉を探すように手を振る。
「なんか、聞こえてないみたいな感じです」
ノアは少しだけ視線を逸らした。
聞こえていないわけじゃない。
むしろ、聞こえすぎているのだ。
アークの何気ない言葉も、
自分がその言葉を嬉しいと思うことも、
そして、その嬉しさが“ノアだけのもの”になりつつあることも。
全部、はっきりわかってしまう。
『先、確認してくる』
アークが短く言って、少し前へ出た。
フレアもその後ろへ流れる。
ピピが「わたしも行きます!」と追いかけ、セレスはノアの横へ自然に残った。
『ノアさん』
やわらかな声だった。
『少し疲れてます?』
『……そんなにわかる?』
『少しだけ』
セレスは微笑む。
『最近、前より頑張りすぎてる気がするので』
『頑張ってるっていうか』
『うん』
『近づけてる感じは、あるの』
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
セレスは驚かなかった。
ただ静かに聞いている。
『でも、その感じがするほど』
ノアは遺跡の青い床へ視線を落とした。
『自分じゃないみたいになる時がある』
『自分じゃない?』
『……朝倉澪じゃなくて、ノアだけが進んでる感じ』
そこまで言ってから、自分で軽く息を呑む。
ここまで言うつもりはなかった。
でもセレスは責めるでも、探るでもなく、少しだけ目を細める。
『それ、苦しいですね』
その一言が、ひどく静かに刺さった。
『うん』
ノアは小さく頷くしかない。
セレスは少しだけ考えるように間を置いてから言った。
『でも、ノアさんが近づいてるのは本当なんですよね』
『……たぶん』
『なら、それは無駄じゃないと思います』
ノアはセレスを見る。
その横顔はやわらかいのに、言葉は意外とまっすぐだった。
『現実の自分が追いついてない感じは、しんどいと思う』
セレスは続ける。
『でも、近づけた時間まで嘘になるわけじゃないです』
『……』
『ノアさんが積み重ねたものは、ちゃんとノアさんのものだから』
その言葉に、ノアの胸が少しだけ揺れた。
やさしい。
そして、ほんとうに強いと思う。
こういうふうに、相手の痛みにふわっと触れながら、でもちゃんと核だけは外さない。
だからこそ、怖いし、負けたくないとも思う。
前方からアークの声が飛んでくる。
『ノア!』
反射で顔を上げる。
『来れる? こっち、罠面倒』
『行く』
ノアはすぐに返した。
呼ばれる。
必要とされる。
そのたびに胸があたたかくなる。
でも、それが今の自分にとっては、同時に痛みでもあった。
ノアは走り出しながら、自分の感情の面倒くささに内心で小さく苦笑した。
たどり着いた先では、アークとフレアが床面に広がる多重罠の前で足を止めていた。青い光が幾重にも交差していて、進路を誤ると上階から魔導弾が降る仕組みらしい。
「どう見る?」
アークが聞く。
「左の細いラインだけ本物」
ノアはすぐに解析を走らせる。
「右は誘導。真ん中は二段罠」
「じゃあ左抜け」
「うん。私、前で切る」
「了解」
ノアは一歩前へ出た。
術式を細く展開し、罠の輪郭だけを浮かび上がらせる。アークがその横をぴたりと合わせて進み、フレアが無駄なく続く。後方ではセレスが防御補助を貼り、ピピが気配を殺して遊撃位置を維持していた。
危なげなく抜けたあと、アークが笑う。
「やっぱノアがいると違うな」
「……それ、今日何回目」
「本当だから何回でも言う」
「何その理屈」
「だってノアいると助かるし」
あまりにも自然に言われて、ノアは返す言葉を失う。
嬉しい。
嬉しいのに、胸の奥が少しだけひりつく。
こんなふうに言われるたび、ノアとしての自分は満たされる。
でも、朝倉澪としては何ひとつ進んでいない。
そのちぐはぐさが、最近ずっと自分の中に残っている。
周回を終えて遺跡から戻るころには、通話の空気はかなりやわらいでいた。ピピは今日の戦果に上機嫌で、フレアはそれを半分呆れながら聞いている。セレスは次回用の素材管理を確認し、アークはそれに適当に相槌を打ちながら、時々ノアへ次の地形ログの相談を振ってきた。
その自然さが、もう少し怖い。
ノアがそこにいて、返して、支えて、横に並ぶことが、少しずつ当たり前になっている。
でもその“当たり前”は、どこまでいってもノアのものだ。
ログアウトして現実へ戻ると、自室の天井がやけに低く感じた。
端末を外したまま、澪はベッドへ背中を預ける。
静かな部屋。
カーテン越しの街灯。
遠くの車の音。
現実の夜は、VRよりずっと狭くて、ずっとはっきりしている。
「……近づけてるのに」
小さく呟いてみる。
その言葉は部屋の中ですぐに消えた。
近づけている。
それはたぶん本当だ。
ノアとして、アークとの距離は確実に縮まっている。
言葉も、頼り方も、心のゆるめ方も、少し前とは違う。
でも、そのぶんだけ朝倉澪はどうなっているのだろう。
朔の前で自然に笑えているかと言えば、答えはまだ出ない。
名前で呼ばれるだけで胸がざわつくし、肝心なことは何ひとつ言えないままだ。
ノアとして得たものが増えるほど、朝倉澪の空白だけが余計に目立っていく。
それが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
嬉しいのに、苦しい。
進んでいるはずなのに、置いていかれる。
近づけているのに、自分じゃない。
澪は枕へ顔を埋めて、小さく息を吐いた。
ノアとして近づくことを、もう否定はできない。
それはたしかに自分が選んだ一歩で、得たものも本物だ。
でも、このままノアだけが進んでいくなら、きっといつか耐えられなくなる。
恋をしているのは、夜の名前じゃない。
朝倉澪だ。
その当たり前の事実が、今日はいっそう重たく胸にのしかかっていた。




