第2章 第9話:君にだけ言えること
その夜のログインは、いつもより少し遅かった。
家のことを済ませて、自室へ戻って、机の上の端末を前にしてからも、澪はしばらく動けなかった。凛花に言われた言葉が、まだ胸の中で静かに反響している。
待つだけの本命は危うい。
それはたぶん、正しい。
正しいからこそ苦しい。
自分がずっと“待つ側”に立ち続けてきたことを、もう否定できなくなっている。
それでも、夜になればノアになれる。
朝倉澪のままではうまく呼吸ができない日でも、ノアなら少しだけ前を向ける気がする。
その感覚に甘えていることもわかっているのに、今はまだその逃げ道が必要だった。
澪はフルダイブ端末を装着し、静かに目を閉じた。
意識が沈み、次にひらいたのは見慣れたアステリオの夜だった。
群青の空。白い塔。広場を横切る淡い光の筋。人の気配はあるのに、昼ほど騒がしくない。深夜前特有の、少しだけ輪郭のやわらいだ時間帯だ。
ノアはログイン直後、自然とフレンド一覧へ視線を向ける。
アークはすでにオンラインだった。
それだけで、胸の奥が小さく反応する。
こんな自分が嫌なのに、その反応を止められない。
共通通話へ入ると、今日は人数が少なかった。
ピピはオフライン。フレアもまだ入っていないらしい。接続していたのはセレスとアークだけだった。
『こんばんは、ノアさん』
最初に聞こえたのはセレスのやわらかな声だった。
『こんばんは』
ノアは返す。
『こんばんは、ノア』
続いてアークの声。
『遅かったな』
『少しだけ』
『そっか』
会話はそれだけだったのに、妙に近い。
人数が少ないせいだろうか。
通話の空気そのものが、いつもより静かで、距離が近い気がする。
『フレアとピピは?』
ノアが訊く。
『フレアさんは少し遅れるそうです』
セレスが答える。
『ピピさんは今日は家のほうで用事があるって』
『だから今、三人だけ』
アークが補足した。
三人。
その数字に、ノアは少しだけ息を止める。
セレスがいて、アークがいて、自分がいる。
それだけのことなのに、なぜか少しだけ落ち着かない。
きっと、昨日までの流れがあるせいだ。セレスが自然にアークの隣を取る空気に、敏感になりすぎている。
『もしよかったら』
セレスが穏やかに言う。
『今日、新しく開いた夜霧湿原の入口だけ見に行きませんか? 深夜帯の敵配置、確認しておきたくて』
『いいね』
アークがすぐ頷く。
『ノアは?』
『……行く』
『よかった』
セレスの声に本当に嬉しそうな色が混じる。
押しつけがましくない。けれど、ちゃんと感情が伝わる笑い方だ。
ノアはそれを聞きながら、言いようのない焦りをまた胸の奥で感じていた。
転送後の夜霧湿原は、名前の通り霧に沈んだ場所だった。
足元は浅い水に覆われ、細い木道が湿地のあちこちへ伸びている。枯れた草の先端に青白い光が灯り、遠くでは見えない何かの鳴き声がする。風はほとんどないのに、霧だけがゆっくりと流れていた。
『雰囲気あるね』
アークが周囲を見回す。
『綺麗だけど、絶対面倒なやつです』
ノアは簡易マップを開いた。
『視界不良と足場制限、あと一定周期で音反応型もあるかも』
『音反応型?』
『足音とか戦闘音で湧き位置が変わるタイプ』
『なるほど』
セレスが小さく頷く。
『じゃあ、あまり派手に動かないほうがよさそうですね』
三人で湿地の浅い水を踏みながら進む。
木道は狭く、横並びになれる場所とそうでない場所がある。前にアーク、少し後ろにノア、さらにその後方にセレスという形でしばらく歩いたあと、道が二手に分かれた。
『右は行き止まりっぽい』
ノアが言う。
『左が本線』
『じゃあ左で』
アークが進路を変える。
その時、木道の端が少しだけ崩れた。
『危な』
アークが体勢を立て直す。
『言ったでしょ、前に出すぎ』
ノアが反射的に言う。
『はいはい』
アークが苦笑する。
『でも今の、ノアの声なかったら普通に踏み抜いてたかも』
その何気ない言葉が、少しだけ嬉しい。
でも、それを素直に受け取る前に、セレスがやわらかく続けた。
『アークさんって、ノアさんがいるとほんとに安心して前へ出ますよね』
一瞬、ノアの視線が揺れる。
『そうか?』
アークは不思議そうに返す。
『はい。信頼してる感じ、すごくわかります』
『まあ、してるけど』
あっさり答える声。
ノアは少しだけ指先に力を入れた。
信頼している。その言葉は嬉しい。でも今の自分は、その嬉しさをまっすぐ味わえない。
その信頼を、自分がどの立場でもらっているのか。
ノアとしてなのか。
朝倉澪としてなのか。
まだ曖昧なままだからだ。
湿地の奥へ進んだところで、小型の影獣が二体湧いた。
『来ます』
セレスが短く言う。
『左、止める』
ノアが術式を飛ばす。
『右持つ』
アークが剣を抜く。
狭い足場だから、大きな動きはできない。
そのぶん、連携の正確さがそのまま生死へ繋がる。ノアの拘束陣が影獣の足を鈍らせ、その隙にアークが一体を斬り落とす。二体目が跳んだ瞬間、セレスの防護膜がアークの肩口へ重なり、ノアの補助術がそのまま追撃へ繋がった。
戦闘は短く終わった。
『助かった』
アークが息を整えながら言う。
『そっちも』
ノアが返す。
『やっぱり、三人くらいのほうが呼吸見えやすいですね』
セレスが穏やかに言う。
『ですね』
ノアも同意したが、その一方で少しだけ複雑だった。
三人だから見えやすい。
距離も、温度も、誰が誰にどう話しているかも。
だからこそ、セレスの静かな入り込み方が余計にはっきり見えてしまう。
少し開けた場所へ出たところで、アークが足を止めた。
『ここ、少し休めそう』
湿地の真ん中に、朽ちた東屋みたいな木組みが残っている。屋根は半分落ちていたが、足場は比較的安定していて、水気も少ない。
三人はそこで一旦足を止めた。
霧の向こうから虫の羽音みたいな音がして、遠くの水面が時々きらりと光る。
『アークさん』
セレスが静かに口を開く。
『昨日もありがとうございました』
『ん?』
『触媒集め』
『ああ』
『あの時間帯、一人だとちょっとしんどかったので』
セレスは笑う。
『助かりました』
『それくらいなら全然』
アークは気軽に返す。
『セレス、回復職なのにあのへん普通に踏み込むから心配なんだよ』
『心配されてる』
セレスが少しだけ目を細める。
『されるでしょ』
『優しいですね』
『普通だろ』
そのやり取りを、ノアは少し離れた場所から聞いていた。
優しいですね。
普通だろ。
自然な会話だ。
でも、そんなふうに何気なくやり取りされる言葉ひとつひとつが、今のノアには妙に近く聞こえる。
セレスは押してこない。
自分の好意や距離感を露骨に見せつけるわけじゃない。
でもこうやって、ふたりで共有した時間を静かに言葉へして、アークの中へちゃんと残していく。
それが、こわい。
『ノアさん?』
セレスに呼ばれて、はっとする。
『何』
『少しぼんやりしてません?』
『……してない』
『してますよ』
アークまでそう言った。
『さっきからちょっと遠い』
『そんなこと』
『ある』
アークは言い切る。
『今日、何かあった?』
心臓がひとつ強く跳ねる。
まただ。
こういう時だけ、どうしてこんなに見抜くのだろう。
『何でもない』
『ノア』
名前を呼ばれる。
夜霧の中で、その声だけが妙にくっきり聞こえた。
『無理して誤魔化す時の顔してる』
ノアは思わず目を伏せる。
誤魔化したいわけじゃない。
でも言えるほど、まだ整理できていない。
『……ちょっと考え事』
『どんな』
『そこまで言う必要ある?』
思ったより刺のある声が出た。
アークは一瞬だけ黙る。
セレスもすぐには口を開かない。
しまった、と思う。
別に当たりたいわけじゃない。
でも、優しく近づかれるほど、自分の醜い部分が浮き彫りになる気がして、うまく息ができなくなる。
『ごめん』
ノアはすぐに言い直した。
『言い方きつかった』
『いや』
アークは短く返す。
『責めたいわけじゃない』
『わかってる』
だから余計に、つらい。
しばらくの沈黙のあと、セレスがやわらかく言う。
『アークさん、少しだけ向こうの採取点見てきてもいいですか?』
『え』
『ここからならそんなに遠くないので』
セレスは穏やかなままだった。
『ノアさん、ちょっと休んだほうがいい気がするし』
ノアは顔を上げた。
気を遣われたのだとすぐにわかった。
しかも、押しつけがましくないかたちで。
たぶん本当に優しさから出た言葉だ。
でも、今のノアにはその優しささえ痛かった。
自分が揺れていることを、セレスにまで見抜かれている気がしてしまうから。
『いや、私も行く』
ノアは少し早口で言った。
『大丈夫だから』
『ノア』
アークが低く呼ぶ。
『大丈夫じゃないだろ』
『……』
『少し休めって』
その言葉は優しい。
優しいけれど、今は受け取れない。
休め、と言われることが、まるで自分だけが外されたみたいに感じてしまう。
たぶんそんな意味じゃないのに。
『じゃあアークさん』
セレスが静かに続ける。
『私だけ少し行ってきます。すぐ戻るので』
『一人で?』
『入口近くだけですし、大丈夫です』
『いや、でも』
『なら、私が行く』
気づけば、ノアはそう口にしていた。
二人が同時にこちらを見る。
夜霧がやけに冷たく感じる。
『何でそうなるんだよ』
アークが少し困ったように言う。
『だって』
その先の言葉が、喉で引っかかった。
だって、あなたとセレスを二人きりにしたくない。
そんなの、言えるわけがない。
『ノアさん』
セレスの声はやわらかい。
『別に無理しなくていいんですよ』
その一言で、胸の奥がきゅっと縮む。
無理してる。
そうだ。たぶんその通りだ。
でも、その通りだからこそ苦しい。
『……ごめん』
ノアは小さく言った。
『少しだけ、頭冷やしてくる』
それだけ言って、東屋を出る。
止められる前に、水辺沿いの細い木道を少し早足で進んだ。
霧が濃い。
水の匂いが冷たい。
自分の足音だけが、板の上で軽く鳴る。
何をしているんだろう、と思う。
情けない。
子どもみたいだ。
セレスは何も悪くない。アークも悪くない。
それなのに、自分だけが勝手に苦しくなって、勝手にその場から逃げた。
木道の先は、小さな採取エリアだった。
淡い青い花が群生していて、その上を小さな光虫が飛んでいる。幻想的な景色なのに、今のノアには何ひとつ綺麗に見えない。
『ノア』
少し遅れて、アークの個別回線が開いた。
『今どこ』
『採取エリア』
『一人で行くなよ』
『大丈夫』
『その“大丈夫”信用ならないって』
ノアは返事をしない。
すると、少し置いてからアークが静かに言った。
『行くから、待ってて』
その一言が、胸の奥へ深く落ちる。
待ってて。
そう言われると、どうしても嬉しくなってしまう。
こんな自分がずるいと思う。
ほどなくして、霧の向こうにアークの姿が見えた。
黒と金のアバターが木道を渡ってくる。その歩幅を見ているだけで、どうしようもなく安心してしまう自分がいた。
『何』
ノアはできるだけ平静に言う。
『何、じゃないだろ』
アークが目の前で足を止める。
『急にいなくなるなって』
『……ごめん』
『怒ってるわけじゃない』
それから少しだけ声を落とした。
『でも、心配はする』
またその言い方だ。
心配する。
ちゃんと見ている。
放っておけない。
そういう言葉を、こんなに自然にくれるから困る。
『さっき』
アークが続ける。
『何か嫌だった?』
『……』
『セレスのこと?』
ノアは否定しなかった。
否定できなかった。
夜霧の湿った空気の中で、沈黙だけが二人の間に落ちる。
『ノア』
アークはほんの少しだけ言葉を選ぶようにしてから口を開いた。
『俺、変なことしてたなら言って』
その声は本気だった。
責めるでも、茶化すでもなく、本当に知りたいと思っている声。
それを聞いた瞬間、ノアの中で何かがゆっくりほどける。
綺麗な言い方なんてできない。
でも、全部を隠したままではもう無理だった。
『……羨ましかった』
やっと出た言葉は、思ったより小さかった。
『え』
『セレスといる時』
ノアは視線を合わせないまま続ける。
『自然で、やさしくて、落ち着いてて』
喉が少し熱くなる。
『そういう時間、ずるいなって思った』
そこまで言ってしまうと、もう後戻りはできない気がした。
アークはしばらく何も言わなかった。
でも、その沈黙は嫌なものではなかった。
『……そっか』
やがて、小さくそう落ちる。
『ずるいって思うんだ』
『思うよ』
『何で』
『それ、今聞く?』
少しだけ苦く返すと、アークは困ったように笑った。
『いや、ちゃんと聞きたいなって』
その言い方が、ひどく真面目だった。
ノアは薄く目を閉じて、息を吐く。
言えるわけがない。好きだから、なんて。
取られたくないから、なんて。
そこまではまだ無理だ。
でも、ここまで言ってしまった以上、逃げるのも違う気がした。
『……近づいてるのが、見えるから』
ノアは静かに言う。
『ああいうふうに、何でもない顔で隣にいられるの』
『うん』
『それが、ちょっと嫌だった』
アークはそれを遮らなかった。
ただ、最後まで聞いていた。
『わかった』
短い返事。
でも、その一言が予想以上にやさしくて、ノアは少しだけ目を見開く。
『それだけ?』
『それだけ、って』
『もっと困るとか、めんどくさいとか』
『思わないよ』
アークは即答した。
『嫌だったって言ってくれたの、むしろありがたい』
『……ありがたい?』
『うん』
夜霧の向こうで、光虫がふわりと飛ぶ。
『ノアって、あんまりそういうの言わないだろ』
『言わない』
『でも今日は言ってくれた』
アークは少しだけ笑った。
『それ、俺にはでかい』
ノアは言葉を失う。
嫌だった。
羨ましかった。
近づいていくのが見えて、苦しかった。
そんな醜い感情だと思っていた。
でもそれを“でかい”と言われるなんて思わなかった。
『……困る』
気づけば、また同じことを言っていた。
『何が』
『そういう返し』
アークが小さく笑う。
『ごめん』
『全然思ってないでしょ』
『半分くらいは』
『半分なんだ』
ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。
さっきまで胸を締めつけていた痛みが、完全ではないにせよ、少しだけ形を変えた気がした。
戻ろう、とアークが言った時、ノアは小さく頷いた。
東屋へ戻る途中、夜霧の中を並んで歩きながら、ノアは胸の奥をそっと確かめる。
羨ましかった。
嫌だった。
譲りたくなかった。
それはもう、十分すぎるほどはっきりした感情だった。
東屋へ戻ると、セレスは何も聞かなかった。
ただ「おかえりなさい」とやわらかく言って、少しだけ位置をずらしてくれた。その配慮がありがたくて、同時にやっぱり強いなと思う。
優しい人だ。
そして、そういう人はたぶん、静かに心へ入るのがうまい。
だからこそ、負けたくない。
その感情にようやく名前がつき始めていることを、ノアはもうごまかせなかった。
嫉妬。
独占欲。
譲りたくないという意思。
見守るだけの恋では、もういられないのだと。
その事実だけが、湿った夜の空気の中で静かに、でも確かに輪郭を持ち始めていた。




