第2章 第8話:待つだけの本命は危うい
放課後の空気は、どこか落ち着かなかった。
六限の終わりを告げるチャイムが鳴ってから、教室の中にはいつものようにざわめきが広がっている。椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音、端末に届いた通知へ反応する声。毎日繰り返される景色のはずなのに、澪には今日はその全部が少しだけ遠く見えた。
窓の外では、春の終わりみたいな薄い陽が校舎の壁を斜めに照らしている。
その光の中で、朔が笑っていた。
「神谷くん、昨日の配信クリップ見た?」
「見た見た。切り抜き、変なとこ使われてた」
「いや、でも普通にかっこよかったって」
「そういう持ち上げ方やめろって」
男子にも女子にも囲まれて、でも本人は少し困ったみたいに笑っている。
昔からよく見る光景だ。
見慣れているはずなのに、今はその“見慣れたはず”がいちばん苦しい。
ノアとしてなら、少しだけ近づける。
横に立てる。
自分から隣を取りにいくことだって、やろうと思えばできる。
でも現実の朝倉澪は、まだそこまで行けない。
そのズレを引きずったまま教室にいると、同じ景色の中で自分だけが立ち止まっている気がした。
「朝倉さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、凛花が机の横に立っていた。
相変わらず、目を引く子だった。制服の着こなしも姿勢も整っていて、何もしていないのに自然と視線が集まる。本人もそれを気にする様子はなく、ただまっすぐこちらを見ている。
「今、少しいい?」
「……うん」
澪が頷くと、凛花は顎で教室の外を示した。
「ここだとちょっとうるさいから」
断る理由も見つからなくて、澪は鞄を持たずに席を立った。
廊下へ出ると、夕方の光が長く床へ伸びている。部活へ向かう生徒たちの足音が遠く響き、窓の向こうにはオレンジへ傾き始めた空が見えた。
凛花は廊下の端、人気の少ない窓際まで歩いてから立ち止まる。
「単刀直入に言うね」
前置きなくそう言った。
「最近、神谷くんのこと、前より気にしてるでしょ」
澪は一瞬だけ言葉を失った。
否定しようと思えばできる。
でもこの相手にそれをしても、たぶん意味はない。
「……前から気にしてるよ」
「そういう意味じゃない」
凛花は首を横に振る。
「見てるだけじゃなくて、取られたくないって顔してる」
その一言で、胸の奥が静かに痛んだ。
図星だった。
いや、今の自分を言い当てるなら、それ以外にない。
「そんなにわかりやすい?」
自分でも少し驚くくらい、小さな声が出た。
「わかる」
凛花はあっさり言う。
「少なくとも、同じ土俵に立ってる側から見れば」
「……」
「朝倉さん、前までは“好きだけど見てるだけでいいです”って顔してた」
「そんな顔してた?」
「してた」
凛花は言い切る。
「でも今は違う。明らかに焦ってる」
澪は窓の外へ視線を逃がした。
焦っている。
その通りだ。
凛花がいて、
由良がいて、
ひながいて、
ほかにも朔へ向けられる好意があって。
その中で自分だけが“幼馴染だから”へ逃げていたら、本当に置いていかれる。
そんな現実がようやく、澪の中で現実味を持ち始めている。
「……篠宮さんって、ほんとにまっすぐだよね」
澪が言うと、凛花は少しだけ肩をすくめた。
「回りくどいの苦手なだけ」
「私は、その回りくどいほうだから」
「知ってる」
少しも迷いなく返ってくる。
「だから言っとく」
凛花は窓枠へ軽く寄りかかりながら、まっすぐ澪を見る。
「待つだけの本命って、いちばん危ないよ」
廊下の向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。
でもその一言だけは、やけに静かに澪の胸へ落ちた。
「本命だからって、勝手に残るわけじゃない」
凛花が続ける。
「むしろ一番近い場所にいるぶん、“言わなくてもわかるでしょ”とか、“今のままでも失わないでしょ”って、周りにも本人にも思われやすい」
「……」
「その間に、ちゃんと取りに行く人が横から持ってく」
澪は唇の内側を噛んだ。
反論したかった。
でも何ひとつ言い返せない。
凛花の言葉は少しも優しくない。
でも、嫌になるほど正確だった。
「私は待たない」
凛花は淡々と言う。
「欲しいと思ったら取りに行くし、勝負する」
「うん」
「セレスみたいなタイプもそう。あの子は静かだけど、ちゃんと近づいてる」
由良の名前が出た瞬間、澪の指先がわずかに震えた。
「……知ってる」
「ならなおさら」
凛花は目を細める。
「VRで近づいて満足してる場合じゃないんじゃない?」
その言葉に、息が詰まりそうになる。
満足なんてしていない。
むしろ逆だ。
ノアとして近づけるほど、朝倉澪の恋が置いていかれる感覚に苦しんでいる。
でも、外から見ればそう映っても不思議じゃない。
近づいているように見える。
隣に立っているように見える。
それでいて、現実ではまだ何も言えていない。
「……満足なんて、してない」
やっとそれだけ返すと、凛花は少しだけ頷いた。
「でしょうね」
「じゃないと、あんな顔しない」
「あんな顔?」
「神谷くんが他の子と話してる時の顔」
澪は思わず目を見開いた。
「見てたの?」
「見えるでしょ、普通に」
凛花は悪びれずに言う。
「別に笑うつもりもないし、責めるつもりもないよ」
「……」
「ただ、そろそろ自分で認めたほうがいい」
「何を」
「譲れないってこと」
その一言が、ずっと胸の奥で言葉になりかけていたものへ、はっきり輪郭を与えた。
譲れない。
取られたくない。
自分が隣にいたい。
それはもう、やさしい片想いの顔ではなかった。
「私、別に朝倉さんへ親切で言ってるわけじゃない」
凛花が言う。
「勝つ気でいるし」
「……うん」
「だから、立たないなら立たないでいい。でもその場合、取られてから泣いても知らない」
そこまで言われると、さすがに少しだけ胸が痛む。
でも、痛いのは図星だからだ。
「厳しいね」
澪が小さく言うと、凛花はわずかに笑った。
「恋愛ってだいたいそうじゃない?」
「篠宮さんには余裕があるように見える」
「ないよ」
即答だった。
「余裕なんかあったら、こんなこと言わない」
その言葉が少し意外で、澪は顔を上げた。
凛花はいつも自信満々に見える。
欲しいものを欲しいと言えて、まっすぐ取りにいける人だ。
でも、その凛花ですら“余裕なんかない”と言う。
そう思った瞬間、ほんの少しだけ救われる自分がいた。
「……怖くないの」
澪は小さく聞く。
「壊れるの」
「怖いよ」
凛花はあっさり答えた。
「でも、何もしないで終わるほうが嫌」
その言葉は、夕方の光の中でやけに真っ直ぐ響いた。
何もしないで終わるほうが嫌。
澪はそれを聞いた途端、胸の奥で何かが強く揺れた。
自分もたぶん、もうそこに近づいている。
壊れるのは怖い。
でも、何もしないまま誰かに取られる未来のほうが、今はもう怖い。
「朝倉さん」
凛花が最後に言う。
「本命って、待ってれば選ばれる人のことじゃないよ」
「……」
「ちゃんとその位置を取りに行ける人のこと」
その言葉を聞いた瞬間、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
視線を向けると、朔だった。
男子数人と話しながらこちらへ歩いてきて、途中で凛花と澪が並んでいるのに気づき、少しだけ足をゆるめる。
「篠宮、朝倉」
「神谷くん」
凛花は自然に名前を呼ぶ。
「ちょうどよかった。さっき先生が言ってた学内配信用のコメント、今日中に出せる?」
「え、今日だっけ」
「今日。忘れてたでしょ」
「忘れてた」
「だと思った」
そのやり取りはあまりに自然だった。
まるで昔からよく知っている相手同士みたいに、軽く、迷いがない。
それを見た瞬間、澪の胸の奥でまた小さな痛みが走る。
凛花はやっぱり現実で強い。
真っ直ぐ行ける。
名前を呼んで、話を繋いで、自然に隣へ立てる。
そして何より、その姿が似合ってしまう。
「朝倉さん?」
朔がこちらを見る。
「何かあった?」
「……別に」
また反射でそう返してしまう。
でも今は、自分でもその言葉の空虚さがわかる。
凛花はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
それから澪へ向けて、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言う。
「ほらね」
「……」
「そうやってる間に、普通に持ってかれる」
澪は何も返せなかった。
悔しい。
でも、その通りだと思ってしまう。
凛花はすぐに表情を戻し、朔へ向き直る。
「じゃ、先に提出しとくから、神谷くんもあとで」
「あー、助かる」
「借りひとつね」
「はいはい」
凛花は小さく笑って、そのまま廊下を去っていった。
去り際まで、堂々としている。
見ているだけで、自分とは違う世界の人みたいに思える。
「何話してたんだ?」
朔が気軽に聞く。
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「ただの話」
そう返すと、朔はまだ何か気にしている顔をしたが、深くは聞かなかった。
その日の帰り道、澪はひとりで歩いた。
住宅街へ伸びる夕暮れの道は、いつもより少し長く感じる。空は薄い紫から群青へ変わりかけていて、家々の窓に灯りがつき始めていた。
凛花の言葉が、ずっと頭の中で反響している。
待つだけの本命は危うい。
本命って、待ってれば選ばれる人のことじゃない。
ちゃんとその位置を取りに行ける人のこと。
胸が少し痛い。
でも同時に、どこかではっきりしたものもあった。
ノアとして近づけるのは嬉しい。
それは本物だ。
でも、それで終わったらだめなのだ。
現実で凛花が隣へ立ち、
VRで由良が静かに距離を詰める。
その中で自分だけが“幼馴染だから”の位置に座り込んでいたら、本当に何も残らない。
家へ着く少し前、澪は立ち止まって空を見上げた。
風はやわらかい。
でも胸の内側では、はっきりとした焦りが息をしている。
「……待ってるだけじゃ、だめなんだ」
誰にも聞こえない声で、そう呟く。
認めたくなかった。
ずっと、そういう顔をしないようにしてきた。
けれど、もう誤魔化せない。
待つだけでは、足りない。
見守るだけでは、終わる。
そしてその終わりは、たぶん想像しているよりずっとあっさりやってくる。
このままだと、本当に誰かに取られる。
その危機感が、ようやく“痛い予感”ではなく、“動かなければいけない現実”として澪の中へ落ち始めていた。




