第2章 第7話:現実の名前で呼ばれると
翌朝、目を開けた瞬間に、昨夜の熱がまだ胸の奥に残っているのがわかった。
ノアとしてアークの横に立った。
自分からその位置を取りに行って、「横についてくれてよかった」と言われた。
たったそれだけのことなのに、思い返すたびに胸が少しだけ熱くなる。
嬉しかった。
間違いなく、嬉しかった。
でも、洗面台の鏡の前に立った瞬間、その熱は別の形へ変わる。
映っているのは、ノアじゃない。
朝倉澪だ。
黒髪を軽く整えて、制服の襟を直して、リボンを結ぶ。どれも毎朝の何でもない動作なのに、今日はひとつひとつが妙に現実的だった。ノアなら、昨日の続きを少しだけ素直に引き受けられたかもしれない。でも朝倉澪として朔の前に立つとなると、胸の奥にある言葉の全部がまた重たく沈み直す。
好き。
取られたくない。
隣にいたい。
そのどれも、結局まだひとつも言えていない。
通学路の角を曲がると、思った通り、朔が待つみたいに立っていた。
早朝の空気はまだ少し冷たくて、背後の空は淡い水色に薄く光っている。住宅街の静かな道の真ん中で、朔だけがやけに見慣れていて、でも同時に少し遠く感じた。
「おはよ」
いつも通りの声だった。
「……おはよう」
澪も返す。
並んで歩き出す。
昔から何度も繰り返してきた距離だ。歩幅を合わせようとしなくても自然に並べる。隣に人の気配があることが当たり前で、その当たり前にいちいち心臓がうるさくなるなんて、本当はおかしい。
「昨日」
朔が口を開く。
「遅くまで入ってた?」
「うん。少しだけ」
「そっか」
少しだけ、の中にどれだけいろいろ詰まっているかなんて、もちろん朔は知らない。
ノアとして一歩踏み出したことも、その一歩を嬉しいと思ったことも、でも同時にそれが朝倉澪を置いていくみたいで怖かったことも。
「澪」
また名前で呼ばれる。
その名前が、夜よりずっと重い。
ノアじゃない。澪だ。
現実の自分の名前を、朔の声で呼ばれると、胸の奥に隠していたものが全部見透かされそうになる。
「何」
「この前から思ってたんだけど」
朔は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「最近、俺といる時、緊張してる?」
足が一瞬だけ止まりそうになる。
「……してない」
反射的に返してから、自分で嘘だと思う。
「してるだろ」
「してないって」
「してるよ」
軽い口調ではない。
でも責めてもいない。ただ、本当に気づいたことをそのまま言っているだけだった。
そういうところだと思う。
肝心なことには鈍いくせに、こっちが隠そうとする変化ばかりは拾ってくる。
「前は、もうちょい普通だった」
「普通って何」
「何ていうか……もっと自然に話してた」
澪は視線を逸らした。
自然。
またその言葉だ。
ノアに対しても、朔はそんなふうに言った。
前より近い、とか、話しやすい、とか、自然だ、とか。
そういう言葉を、何気ない顔でくれる。
でもそれを受け取っているのはノアであって、朝倉澪ではない。
「澪?」
「別に」
「別に、じゃなくて」
「何」
思ったより強い声が出た。
「そんなに変?」
朔は少しだけ目を見開く。
「いや、変っていうか」
「変なんでしょ」
「そういう言い方しなくていいだろ」
「じゃあどう言えばいいの」
「澪」
そこで、自分の声が少し尖っていることに気づく。
でももう遅い。引っ込めたくても、引っ込まない。
昨夜までノアとしてなら素直に歩けたのに、今はたったこれだけの会話でもう苦しい。
近づけたはずの距離が、現実ではむしろ余計に遠くなる。
「……ごめん」
澪は小さく言った。
「ちょっと、朝からきつい」
「きついって」
「今はうまく話せない」
朔は何か言いかけて、やめた。
それから小さく息を吐く。
「俺、何かした?」
「……してない」
「じゃあ何で」
「そういうの、今聞かないで」
言い切ると、朔は黙った。
校門が近づいてくる。
周りの生徒の数も増えていく。もうこれ以上は、話せない。いや、話したくないのかもしれない。人の目のあるところで壊れたくないだけで、本当は二人きりでも大して変わらない気もした。
教室へ入ってからも、澪の心は落ち着かなかった。
机の上へ鞄を置いて、教科書をしまって、ホームルームの準備をする。手はちゃんと動く。けれど、心のほうだけが朝のやり取りへ引き戻され続けていた。
「おはよ、朝倉さん」
柔らかい声が横から落ちる。
顔を上げると、由良だった。
現実の由良は、VRのセレスより少し控えめに見える。けれど、近くにいる時の距離の取り方はやっぱりどこか似ていた。柔らかくて、押しつけがましくなくて、でも自然に入り込んでくる。
「……おはよう」
澪は返す。
「昨日、遅くまで入ってたよね」
「うん、少しだけ」
「そっか。私も少しだけアークさんたちと素材回ってて」
その一言で、胸の奥がまた小さくざわつく。
アークさんたち。
やわらかな言い方なのに、距離を感じるには十分だった。
「触媒、足りなくて」
由良は悪気なく続ける。
「アークさん、そういう時ほんとに頼りになりますよね」
「……そうだね」
「優しいし」
由良は少し笑う。
「誰かが困ってると、放っておかないから」
それは澪が一番よく知っていることだった。
昔から、そうだった。
そしてその優しさが、誰かを安心させて、勘違いさせて、近づけてしまうことも。
「朝倉さん?」
由良が不思議そうに首を傾げる。
「ごめん、聞いてた?」
「聞いてた」
「ならいいけど」
由良は少しだけ目を細めた。
「今日、やっぱり顔色よくないね」
「寝不足だから」
「……そっか」
否定しない。追い詰めない。ただ、受け取って少しだけ引く。
その引き方すらやさしい。
だから厄介だ、と澪は思う。
セレスは現実の由良より少し積極的だけど、根っこは同じだ。相手に強く踏み込ませず、自分は自然に一歩ずつ近づいていく。
昼休み、澪は夏希に問答無用で校舎裏へ引っ張られた。
「朝、また何かあったね」
開口一番だった。
「……なんでわかるの」
「顔」
「雑」
「雑じゃないって。神谷もなんか変だったし」
夏希は購買のパンをちぎりながら、澪の顔をじっと見る。
「で?」
澪は自販機のカフェオレを握りしめたまま、少しだけ俯く。
「朔に」
「うん」
「最近、俺といると緊張してるって言われた」
「うわ」
「うわって何」
「神谷、それ言うか」
「言った」
「しかも朝から?」
「朝から」
夏希が深くため息をついた。
「で、朝倉はどう返したの」
「してないって」
「嘘じゃん」
「嘘だよ」
そう言い切ると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
少なくとも夏希の前では、誤魔化さなくていい。
「してる」
澪は続けた。
「すごく、してる」
「だよね」
「ノアなら言えることが、朝倉澪だと言えない」
夏希は黙って聞いている。
「昨日だって、ノアとしてなら少しだけ隣に行けた」
「うん」
「でも現実だと、名前で呼ばれただけで緊張する」
「うん」
「近づけてるはずなのに、現実の私は置いていかれてるみたいで」
そこで言葉が詰まる。
「……ちょっと、無理」
夏希がパンを置いて、少しだけ真面目な声になる。
「便利な顔を持っちゃったんだよね」
「便利な顔」
「ノア」
あっさりと言う。
「ノアなら言える。ノアなら隣に行ける。ノアならちょっとだけ強くなれる。だからそっちに寄ってく」
「……」
「でも恋してるのは朝倉澪だから、そっちが置いてかれるとしんどい」
その通りだった。
ノアが嫌いなわけじゃない。
むしろ助けられている。
昨日だって、ノアだからできたことがある。
それでも、その成功がそのまま朝倉澪を救うわけではない。
「どうしたらいいと思う?」
澪が小さく聞く。
「今すぐ告白しろとかは言わない」
夏希は即答した。
「そんなの無理でしょ、今の朝倉には」
「うん」
「でも、現実でも少しずつ慣らさないと駄目なんじゃない」
「慣らす」
「神谷の前で、ちゃんと朝倉澪として立つことに」
澪は目を伏せた。
簡単じゃない。
でも、それ以外に道がない気もする。
放課後、掃除当番を終えて教室へ戻ると、朔が自分の席の近くで待っていた。
心臓が嫌なくらい反応する。
「澪」
「……何」
「朝、ごめん」
またそれだ。
ちゃんと謝る。
ちゃんと気にする。
そういうところが優しいのに、その優しさの意味がわからないから余計に苦しい。
「別に」
「別にじゃないって」
朔は苦笑する。
「最近、そればっかだな」
「何が」
「別に、って」
澪は返事をしなかった。
朔が少し迷ってから、机の端へ指を置く。
「俺さ」
「うん」
「ノアと話してる時みたいに、澪とも普通に話したいんだけど」
息が詰まる。
やめてほしい、と思った。
その比較が一番つらいのに。
でも、朔にはそのつもりがないこともわかっている。
「それ、やめて」
小さく言う。
「何が」
「ノアと比べるの」
「比べてるつもりじゃ」
「でも、そう聞こえる」
朔が口を閉じる。
教室の窓から差し込む夕方の光が、机の端を明るくしていた。誰かの笑い声が遠くでして、部活へ向かう足音が廊下を駆けていく。世界はいつも通りなのに、ここだけ空気が少し張っている。
「……ごめん」
朔がまた言った。
「そのつもりじゃなかった」
「うん」
「でも、ノアと話してる時の澪みたいな感じ、ちょっと羨ましい」
その言葉に、澪はゆっくり顔を上げた。
羨ましい。
そんなふうに言われると思わなかった。
ノアになった自分を、朔がそう見ているなんて。
「何それ」
やっとそれだけ言う。
「何か、そっちは自然に笑ってる気がする」
朔の声は静かだった。
「俺の前だと、最近ずっと無理してるだろ」
図星だった。
あまりに図星で、否定できない。
ノアとしては近づける。
でも朝倉澪としては、むしろ距離がぎこちなくなる。
そのズレを、朔も何となく感じている。
「……どうしたらいいか、わかんないの」
気づけば、澪は本音に近いものをこぼしていた。
「え」
「ごめん、今の忘れて」
「忘れない」
即答だった。
「澪」
その呼び方が、少しやわらかい。
「わかんなくてもいいから、全部一人で決めるなよ」
胸の奥が痛いほど熱くなる。
そういうところだ。
そんなふうに言われたら、また期待してしまう。
でもその期待の先が何なのか、まだ何もわからないままなのも事実だった。
「……ありがと」
結局それしか言えない。
朔は少しだけ安心したように笑って、でもその目の奥にはまだ何か考えている色が残っていた。
帰り道、澪はひとりで歩きながら空を見上げた。
夕方の青はもう薄くほどけて、向こう側から夜が降りてきている。
ノアなら言える。
でも澪は言えない。
そのねじれが、今の自分を苦しめている。
それでも、今日ひとつだけわかったことがある。
ノアとして近づけることは、たしかに嬉しい。
でもそれだけでは足りない。
朝倉澪として、朔の前でちゃんと立てるようにならなければ、いつか本当に取り残される。
風が少しだけ強く吹いて、制服のスカートの裾が揺れた。
澪は鞄の紐を握り直す。
現実の名前で呼ばれると、まだうまく息ができない。
それでも、その苦しさから逃げ続けるわけにはいかないのだと、ようやく少しずつ思い始めていた。




