第2章 第6話:隣を取る小さな勇気
次にログインした夜、ノアは中央広場へ立った瞬間から、少しだけ胸の鼓動が速いことに気づいていた。
夜のアステリオは今日もきれいだった。白い塔群の窓明かりが空へ向かって細く伸び、石畳には噴水の水光が揺れている。行き交うプレイヤーの数はそこそこ多いのに、昼ほど騒がしくない。深夜へ向かう前の、ほどよく落ち着いた時間帯の空気だ。
広場中央にはすでに何人か集まっていた。
ピピが転送柱のまわりを落ち着きなく歩き回り、フレアはその少し後ろで腕を組んでいる。セレスはギルド用の補助アイテム一覧を開いて確認中だった。そしてアークは、少し離れた露店の前で何かを見ていたらしい。ノアのログインに気づくと、すぐに顔を上げた。
「ノア」
名前を呼ばれる。
「こんばんは」
ノアはできるだけ落ち着いた声で返す。
「こんばんは。来たか」
アークが自然に近づいてくる。
「今日、周回入れる?」
「入れるよ」
「助かる。新しく開いた中層のクエ、罠多いらしくてさ」
「じゃあ、余計に私が必要」
少しだけ意識して、そう言ってみる。
アークは一瞬だけ目を瞬かせ、それから笑った。
「そういうこと言うようになったよな」
「何」
「いや。前よりちょっと強気」
「悪い?」
「全然。むしろいい」
その返事が、思った以上にまっすぐで、ノアの胸の奥をじわりと熱くした。
だめだ、と思う。
たったこれだけで嬉しくなっている。
でも、嬉しいものは嬉しい。
「全員揃った?」
フレアがこちらへ視線を向ける。
「揃ったなら行くわよ。今日は中層《玻璃樹の庭》、初回確認込みの周回。前衛二、支援二、遊撃一でいい?」
「異議なしです!」
ピピが元気よく手を上げる。
「私も大丈夫です」
セレスが頷く。
フレアはそれから、編成用ウィンドウを開いた。
いつもならこのあたりで自然と役割が流れる。アークが前線の中心、フレアが火力補佐、セレスが回復、ピピが攪乱、ノアが後方支援。基本形は変わらない。
けれど、今日は少しだけ違った。
ノアは一瞬、息を止める。
ここだ、と自分へ言い聞かせる。
見ているだけじゃだめだと、もう知っている。
ただ待っているだけでは、自然に誰かの隣を取られてしまうことも。
「今日」
ノアは自分でも驚くほど、先に声を出していた。
「私、アークの横につく」
一拍、空気が止まった。
ピピが「え」と短く声を漏らし、セレスがわずかに目を丸くする。フレアだけは眉ひとつ動かさなかったが、視線はたしかにこちらへ向いていた。
アークが最初に反応した。
「横?」
「うん」
ノアは視線を逸らさないようにする。
「今日のマップ、近中距離支援のほうが動きやすいと思う。前に出すぎる人がいるなら、なおさら」
最後の一言は、半分冗談で、半分本気だった。
アークが少し笑う。
「前に出すぎる人って俺?」
「他に誰がいるの」
「ひどいな」
「事実でしょ」
「否定はしづらい」
そのやり取りに、ピピが露骨に頬を膨らませる。
「えー……」
「何よ」
フレアが淡々と聞く。
「いえ、別にぃ……」
全然別にではなさそうな声だった。
セレスは少しだけ考えるような間を置いてから、柔らかく言った。
「たしかに、《玻璃樹の庭》は前線に近いほうが支援通しやすいかもしれませんね」
「だろ?」
アークが乗る。
「ノアが横なら安心感あるし」
その言葉に、ノアの指先がほんの少しだけ熱を持つ。
安心感。
またそうやって、簡単に心を揺らすことを言う。
「じゃあ決まりね」
フレアがまとめる。
「アーク前衛主軸、ノア近支援。私が火力補佐。セレス中後衛、ピピ遊撃。問題ある?」
「なーいです」
ピピは不満げながらも頷いた。
「大丈夫です」
セレスも続く。
編成が確定し、五人は転送門へ向かう。
青白い光の輪が足元へ広がり、視界がやわらかく歪む。
次の瞬間、ノアたちは新エリア《玻璃樹の庭》へ立っていた。
名前の通り、そこはガラスの樹木に覆われた庭園だった。透明な幹、薄青の葉、風が吹くたびに小さな音を立てる枝先。地面は白い石と水路で区切られていて、ところどころに鏡面みたいな床が埋め込まれている。夜の光を受けて、庭全体がひどく静かにきらめいていた。
「うわ……」
ピピが感嘆の声を漏らす。
「綺麗ですね」
セレスも目を細める。
「見た目に反して罠だらけなんでしょうけど」
フレアが冷静に言った。
「たぶんそう」
ノアは簡易マップを開く。
「鏡床が多い。視界反転と位置誤認、あと誘導罠もありそう」
「じゃあ余計に近くにいてくれると助かる」
アークが横で言う。
横。
さっき自分で取った位置なのに、その言葉にされると改めて意識してしまう。
「じゃ、行くか」
アークが一歩前へ出る。
ノアもほとんど同じタイミングで踏み出した。
肩が触れるほどではない。でも、明らかに“前線の並び”として認識される距離だ。
最初の敵は、樹の影から現れた薄青い獣型エネミーだった。
三体。速度はそこそこ。だが鏡床のせいで軌道が読みにくい。
「右、一体速い」
ノアが即座に言う。
「見えた」
アークが剣を抜く。
「左は私」
フレアが横へ流れた。
「中央引きます!」
ピピが走り出す。
「回復待機します」
セレスの声が後ろで重なる。
戦闘は早かった。
ノアはいつもより前寄りで術式を展開する。拘束、鈍化、視界補正。アークの足運びがひと目でわかる位置にいるから、支援の差し込みも自然に早くなる。アークの剣が中央を引き裂いた瞬間、ノアは右の獣型へ妨害を重ね、その隙をフレアが逃さず落とした。最後にピピが跳ねるように飛び込み、残った一体の動線をずらす。
「ナイス」
アークが短く言う。
「そっちも」
ノアも返す。
その一連の流れが、驚くほど気持ちよかった。
今までも連携はしてきた。
けれど今夜は違う。
ただ後ろから支えるのではなく、最初から“横につく”と決めて、その位置で支援を通している。
ほんの少しだけの違いなのに、見える景色まで変わる。
「ノア先輩、今日ちょっと前ですね」
ピピが敵を片づけながら言う。
「そういう構成」
「構成っていうより、意思ですよね」
「細かい」
「図星だからじゃないですか?」
図星だった。
ノアは返事をせず、次の索敵へ意識を戻した。
庭園の奥へ進むにつれ、罠は増えていった。鏡床に映る偽の通路。踏み込むと前後感覚が逆転するエリア。ガラス樹の幹から飛ぶ小型の光弾。後衛から支援するだけでは対応が遅れる局面が確かに多い。
「左、反転床。真ん中は偽」
ノアが言う。
「じゃあ右抜ける」
アークが即座に判断する。
「その先段差ある」
「了解」
言葉の数が少ない。
少ないのに足りる。
その心地よさに、ノアの胸が少しだけあたたかくなる。
「やっぱり」
アークが小さく笑った。
「今日のノア、かなり助かる」
「今日は、って何」
「いつも助かってるけど、今日は特に」
「……そう」
「近いとわかりやすいな」
その一言に、ノアはついアークの横顔を見てしまう。
近い。
またその言葉だ。
でも今日は、その響きが怖いだけじゃない。
自分で取った位置からもらう言葉だからだろうか。
嬉しさのほうが、ほんの少しだけ強かった。
「先輩、今ちょっと嬉しそうでした」
後ろからピピがまた余計なことを言う。
「見てないで前見て」
ノアは即答した。
「見てました」
「見なくていい」
「無理です、見えちゃうんで」
フレアが小さくため息をついた。
「ほんと、あなたは変なところだけ目ざといのよね」
セレスは何も言わなかった。
ただ、少し後ろから穏やかに全体を見ている。
その静けさが、今日のノアには少しだけありがたかった。
第二層へ続く橋の手前で、中型の守護個体が現れた。透明な甲殻をまとった四脚型で、光を反射して輪郭が揺れる厄介なタイプだ。
「硬そう」
アークが剣を構える。
「核、左肩の内側」
ノアが即座に見抜く。
「でも正面からだと見えない。少し斜めに流して」
「了解」
アークがわずかに進路を変える。
ノアはその横へ沿うように移動し、補助術を重ねた。視界補正、装甲解析、鈍化。獣が前脚を振り上げた瞬間、その挙動を半拍だけ遅らせる。
「今」
ノアが言う。
アークが踏み込む。
剣が甲殻を滑り、左肩の内側へ正確に届いた。
甲高い破砕音。
核が割れ、守護個体の動きが大きく鈍る。
そこへフレアが火力を通し、ピピが側面から追撃し、最後はセレスの補助光を受けたアークが止めを刺した。
「終わり」
フレアが刃を払う。
「ナイスです!」
ピピが飛び跳ねる。
「ノアさんの見切り、すごく早かったですね」
セレスが素直に言った。
「ありがとう」
ノアは短く返す。
「でも、アークが合わせてくれたから」
「いや、今のはノアが横にいたからだろ」
アークが当然みたいに言う。
「後ろからだと、あそこまで一瞬でわかんなかったと思う」
その言葉が、胸のいちばん深いところへ静かに落ちた。
横にいたから。
その位置に、自分で行ったから。
だから見えたものがあり、できたことがある。
見ているだけでは届かなかったものに、少しだけ手が触れた気がした。
「ノア」
アークがさらに続ける。
「今日、横についてくれてよかった」
「……」
「ちょっと嬉しいかも」
ノアは息を詰める。
少し前にも、似たような言葉をもらった。
でも今のこれは、それよりもずっと深く響いた。
自分から選んで、横に行った。
その結果として返ってきた言葉だからだ。
「……そういうの」
どうにか声を出す。
「軽く言わないで」
アークが少し目を丸くする。
「軽く言ってるつもりないけど」
「なら余計に困る」
「困るのかよ」
「困る」
言い切ると、アークは少しだけ笑った。
「でも、嫌ではない?」
ノアは視線を逸らす。
「嫌なら、最初から横に行かない」
「そっか」
それだけで、アークの声がやわらかくなる。
ピピが後ろで露骨に「うわあ」と小さく漏らした。
フレアは呆れたように「静かにしなさい」と言い、セレスは苦笑を噛み殺したような気配を見せる。
その全部が少し恥ずかしくて、でも嫌ではなかった。
周回を終えてログアウトしたあと、澪は自室のベッドへ腰を下ろしたまま、しばらく何もできなかった。
胸の奥が、まだ少し熱い。
戦闘の余韻だけではない。
アークの「横についてくれてよかった」と、「ちょっと嬉しいかも」が何度も頭の中で反芻される。
嬉しい。
ちゃんと嬉しい。
ノアとしてではあるけれど、
自分から取った位置で、
そこにいてよかったと言われた。
それは確かな成功体験だった。
けれど、その嬉しさの裏側で、やっぱり別の痛みもあった。
その言葉をもらったのはノアだ。
朝倉澪ではない。
現実の自分は、まだ朔の前であんなふうに自然に隣を取れない。
まだ好きとも言えない。
ただ、ノアとしてなら少しだけ勇気を出せただけだ。
それでも。
澪はそっと両手を握る。
今日、自分から隣を取った。
待っていただけじゃない。
譲りたくないと思ったからこそ、自分で前へ出た。
それはきっと、小さいけれど確かな変化だった。
誰かに取られたくない。
自分が隣にいたい。
その気持ちをごまかさずに行動へ変えた、最初の夜だった。




