第2章 第5話:譲れない気持ちの形
周回が終わって広場へ戻るころには、夜もかなり深くなっていた。
アステリオの中央広場は、昼間の賑やかさを少しだけ削ぎ落としたような静けさをまとっている。噴水の水音は昼よりはっきり聞こえ、白い塔の上層だけが淡く光っていた。行き交うプレイヤーの数も減り、露店の看板の明かりが石畳へ長く滲んでいる。
ノアは噴水横の転送柱にもたれかかりながら、クールタイムの残りを確認していた。
通話の中では、ピピが今日のドロップ数に文句を言い、フレアが「文句言う前に手数を見直しなさい」と冷静に返し、セレスがやわらかく場をまとめている。アークはその間に入ったり笑ったりしていて、空気は穏やかだった。
何もおかしくない。
むしろ、ギルドとしては理想的なくらい平和だ。
でもノアの胸の奥では、まだ少しざわつきが残っていた。
セレスとアークの深夜素材集め。
自然な誘い方。
断りづらくもなく、押しつけがましくもなく、でもちゃんと距離を縮める流れ。
ああいうのが、いちばん怖い。
『じゃあ、私はここで一回抜けますね』
セレスが言った。
『触媒の整理したいので』
『お疲れー』
ピピが返す。
『今日はありがと』
アークも続けた。
『いえ。こちらこそ』
セレスの声は柔らかい。
『アークさんが来てくれたおかげで、かなり助かりました』
ノアは魔導書の表紙をなぞる指先へ、少しだけ力が入るのを感じた。
来てくれたおかげ。
その言葉が、妙に近い。
『あ』
セレスがふと思い出したように言う。
『もし明日の深夜も時間合えば、同じルートもう一度だけお願いしてもいいですか?』
一瞬、通話の空気が薄く揺れた気がした。
ノアの視界の端で、アークの名前表示が小さく明滅する。
たぶん何気なく返事をしようとしている。
『いいよ』
やっぱり、すぐにアークが答えた。
『明日ならたぶん空いてる』
『ほんとですか』
セレスの声がわずかに明るくなる。
『じゃあ、またお願いしても?』
『うん、大丈夫』
『ありがとうございます。助かります』
その会話はとても自然だった。
不自然なところなんて、ひとつもない。
だからこそ、ノアの胸の奥は静かに痛んだ。
お願いしてもいいですか。
ありがとうございます。
また明日。
そんなふうに、やさしいまま距離を詰められるのが、たぶん一番厄介だ。
凛花みたいに真っ直ぐ「好き」をぶつけてくるわけでもない。
ひなみたいにあけすけに「一緒がいい」と言うわけでもない。
でも、そうやって何気ない顔で次の約束を取っていく。
自分にはできないやり方だった。
『じゃあ、私は落ちますね』
セレスが言う。
『おやすみなさい』
『お疲れさま』
アーク。
『お疲れさまでした』
ノアもどうにか声を出した。
『おやすみなさーい!』
ピピ。
『またね』
フレア。
セレスのアイコンが通話欄から消える。
その瞬間、ノアは小さく息を吐いた。
気づかないうちに息を詰めていたらしい。
『ノア先輩、ほんと今日変ですよ』
ピピが唐突に言った。
『え』
『いや、絶対今ほっとしましたよね?』
『してない』
『しました』
『してないって』
『した顔してます』
『どんな顔』
『なんかこう……静かにむっとしてる感じです』
フレアが小さく笑った。
『意外と表情読むの上手いのよね、ピピ』
『でしょ!』
まったく嬉しくない、とノアは思う。
『ピピ』
アークが少し困ったように言う。
『そういうの、あんまり――』
『え、だって気になるじゃないですか』
ピピは不満そうに続ける。
『今日ずっと変ですし。セレスさんと先輩の話になったとたん、ノア先輩ちょっと怖かったですもん』
ノアは思わず黙り込んだ。
怖かった。
そう見えていたのかもしれない。
感情を抑えていたつもりだった。
でも、本当は抑えきれていなかったのだろう。
『ピピさん』
フレアが少し低い声を出す。
『そのへんにして』
『えー』
『空気読んで』
『はーい……』
気まずい沈黙が一瞬だけ落ちる。
ノアは石畳へ視線を落とした。
淡い灯りを反射する床面が揺れて見えるのは、噴水の水音のせいだけではない気がした。
どうして、こんなにも嫌だったのだろう。
いや、答えは知っている。
知っているのに、口にしたことがなかっただけだ。
譲りたくないと思ったからだ。
セレスにだけではない。
誰に対しても。
隣にいられる時間を。
アークが心をゆるめる先を。
“また明日”と自然に言い合える位置を。
全部、譲りたくないと思ってしまった。
『ノア』
個別回線が開き、アークの声が近くなる。
『少し話せる?』
ノアは一瞬ためらってから、小さく頷いた。
『……うん』
共通通話はフレアがうまく引き取ってくれた。
ピピを別の話題へ逸らしながら、少しだけ距離を作ってくれる。その気遣いに、今は感謝しかなかった。
ノアは広場の端、水路沿いの細い通路へ移動する。
アークも少し遅れてついてきた。
夜のアステリオは綺麗だ。
白い石壁に青い光が流れ、運河の水面には塔の灯りが揺れている。遠くの音は丸くなり、二人の足音だけがやけにはっきり響いた。
『ピピの言い方はちょっとあれだけど』
アークが先に口を開く。
『今日、ほんとに何かあった?』
ノアはすぐに答えられなかった。
ある。
でもそれをどう言えばいいのかわからない。
疲れていたわけじゃない。
機嫌が悪かったわけでもない。
ただ、あなたが誰かと自然に次の約束をしているのが、思っていた以上に嫌だった。
そんなこと、どう説明すればいいのだろう。
『何でもない』
結局、いつもの逃げ道みたいな言葉が出る。
『そういう顔してない』
アークは即座に返した。
『……今日はやけに見抜くね』
『今日はじゃなくて、わりといつも見てる』
その返しが、不意打ちみたいに胸へ刺さる。
見てる。
そう言われるだけで、期待しそうになる自分がいる。
『ノア』
また名前を呼ばれる。
『俺、何かした?』
その声には、困惑と心配が半分ずつ混ざっていた。
たぶん本気でわからないのだろう。
悪いことをしたつもりなんてないはずだし、実際、責めるような明確な理由だってない。
セレスと周回したのも自然な流れだった。
約束したのも、素材集めの続きとして当然だった。
だからこそ苦しい。
誰も悪くないのに、自分だけが勝手に嫌だと思っている。
『……別に、何も』
『嘘』
『嘘じゃない』
『嘘だろ』
アークの声は強くない。
でも、いつもより少しだけ踏み込んでいる。
『ノア、今日セレスの話になってからずっと変だ』
その瞬間、心臓がひとつ大きく打った。
わかっている。
気づかれている。
それが恥ずかしくて、でもどこかで少し嬉しい自分もいて、どうしようもなく面倒くさい。
『……近いんだよ』
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
『え』
『セレス』
アークが黙る。
ノアは視線を運河の水面へ落としたまま続けた。
『ああいうふうに、何でもないみたいに次の約束取るの』
声が少しずつ低くなる。
『自然で、やさしくて、断りにくくなくて、でもちゃんと近い』
『……』
『ああいうの、ちょっと、こわい』
言ってしまった、と思った。
ここまで出せば、もうだいぶ本音に近い。
でも、それでもまだ“好きだから嫌なんだ”という核心だけは飲み込んでいる。
アークはしばらく何も言わなかった。
その沈黙がやけに長く感じる。
『ノアって』
やがて、少し不思議そうな声で言う。
『そういうこと気にするんだ』
『気にするよ』
思ったより早く答えが出た。
『……私だって』
その先は飲み込む。
私だって、誰かを譲りたくないと思う。
私だって、隣を取られたくないと思う。
私だって、ただ見守るだけではいられない。
そこまで言ってしまえたら、どれだけ楽だろう。
でもまだ無理だった。
アークは短く息を吐いた。
『そっか』
『何』
『いや、なんか』
少しだけ笑う気配がする。
『ノアにもそういうのあるんだなって』
『……あるよ』
『うん』
そのうなずきは、からかうでもなく、軽んじるでもなかった。
ただ、ちゃんと受け取った音だった。
それだけで、少しだけ胸の奥がゆるむ。
でも同時に、まだ足りないとも思う。
気づいてほしい。
でも、気づかれたくない。
そんな矛盾の真ん中で、自分だけがずっと揺れている。
『アーク』
ノアはためらいながら呼んだ。
『何』
『……誰にでも、そういうふうに約束するの』
聞きたくなかったはずなのに、聞いてしまった。
アークは少しだけ間を置いた。
『誰にでもって?』
『また今度、とか』
『いや、さすがに誰にでもはしない』
『……そっか』
『必要ならするけど、今日のは普通に素材足りなかったからだし』
そこまで言ってから、アークは少しだけ声をやわらげた。
『でも、ノアが嫌なら考える』
ノアは思わず顔を上げた。
『嫌っていうか』
『うん』
『……嫌、なのかも』
自分でも驚くほど、小さな声だった。
認めた瞬間、胸の奥が熱くなる。
恥ずかしい。
でも同時に、少しだけ楽になる。
嫌だった。
はっきり、そう思っていたのだ。
アークはしばらく黙ったあと、静かに言った。
『わかった』
『え』
『ちゃんと覚えとく』
『そんな重く受け取らなくていい』
『いや、でも軽く流すのも違うだろ』
その真面目さがずるい。
こんなふうに丁寧に受け止められたら、また期待してしまう。
『……ありがとう』
ノアはどうにかそれだけ言う。
『うん』
短い返事。
でも、その一音が妙にやさしかった。
そのあと、二人は共通通話へ戻った。
フレアは何も聞かずに話を切り替え、ピピは少しだけ探るような顔をしながらも深追いしない。もう一周だけ軽く回して、その夜の集まりは自然に解散になった。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドの端に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
部屋の灯りは少し暗くしてある。
窓の外には住宅街の明かりが小さく滲み、どこかで風が鳴っていた。
「……私、最悪だ」
小さく呟いてみる。
でも、声に出してもそこまで否定しきれなかった。
嫌だった。
セレスが朔と親しくするのが。
自然に“また明日”を取るのが。
やさしい距離の詰め方で、静かに隣へ入っていくのが。
それはたぶん、嫉妬だ。
ずっと“見守るだけでもいい”と思い込もうとしてきたのに。
相手の幸せを願う優しい片想いでいたかったのに。
本当の自分は、そんなにきれいじゃなかった。
譲りたくない。
取られたくない。
私がほしい。
そんな気持ちが、自分の中にある。
澪は両手で顔を覆った。
恥ずかしい。
みっともない。
でも、それ以上に、ようやく輪郭が見えた気がしていた。
これはもう、“やさしい片想い”ではない。
ちゃんと欲しがっている恋だ。
誰かに渡したくないと思ってしまうくらい、
本気の恋だった。




