第2章 第4話:やさしい距離の詰め方
その日の夜、ノアはいつもより少し遅れてログインした。
アステリオの中央広場は、平日らしい落ち着いた賑わいに包まれていた。大型イベントの翌週ほどの熱気はない。けれど、誰かと軽く集まって周回したり、露店の前で雑談したり、深夜前のやわらかな空気が街全体に満ちている。
石畳には淡い光の模様が流れ、白い塔の窓が遠くに点々と瞬いていた。噴水のそばでは演奏エモートを使うプレイヤーがいて、ゆるやかな旋律が水音に溶けている。
ノアはローブの裾を軽く払ってから、ギルド通話へ接続した。
『こんばんは』
そう言うと、すぐにセレスのやわらかな声が返ってくる。
『こんばんは、ノアさん』
『あ、ノア先輩だ』
ピピも続いた。
『遅かったわね』
フレアはいつも通りの簡潔さだった。
だが、アークの声は聞こえない。
ノアは小さく視線を動かして、フレンド一覧を開く。アークはオンラインにはなっている。けれど共通通話には接続していないらしかった。
『アークは?』
気づけば、先にそう聞いていた。
言ったあとで、自分でも少しだけ早すぎたと思う。
でも引っ込められない。
『あー』
ピピが少しだけ曖昧な声を出す。
『さっきセレスさんと個別で何か話してました』
『ピピさん、言い方が変です』
セレスが苦笑混じりにたしなめる。
『変じゃないですー』
『何か、って素材集めの相談よ』
フレアが淡々と補足した。
『昨日、深夜帯の中層で回復触媒のドロップ渋かったでしょ。セレスがアーク誘ってた』
『あ……』
ノアは短く返した。
素材集め。
深夜帯。
二人。
それだけで胸の奥が少しだけ冷える。
おかしいことではない。セレスは回復職だし、素材や触媒を揃えるために前衛へ声をかけるのは自然だ。アークも頼られれば断りにくいし、実際相性だって悪くない。
わかっている。
頭ではちゃんと、わかっている。
『ノアさんも行きます?』
セレスが何気なく尋ねた。
『今から合流するならちょうど――』
『いや』
とっさに、少しだけ早い声が出た。
『……その、まだ場所決まってるなら、私は後からでも』
『気を遣わなくていいのに』
セレスは本当にそう思っている声だった。
『人数いたほうが安定しますし』
『でも、先に約束してたんでしょ』
『約束ってほどじゃ』
『そういうの、あなたが一番自然に言うのよね』
フレアが小さく笑うように言った。
ノアは答えられなかった。
セレスは押しつけない。
遠慮がちにも見える。
でもその実、こうして自然に距離を詰めるのがうまい。
嫌な言い方をすれば、入り込み方がとても静かだ。
気づいた時には、すでにその場にいる。
『じゃあ、私たちは軽く別の周回してるわ』
フレアが話をまとめる。
『アークたちが戻ったらまた考えましょう』
『はーい』
ピピが返事をする。
『ノア先輩も一緒に行きますよね?』
『……うん』
『よかった』
それから二十分ほど、ノアたちは低難度の素材周回をした。
小型の敵を倒し、採取ポイントを回り、たまにピピが余計なスイッチを触ってフレアに呆れられる。いつもならそれなりに楽しい時間のはずなのに、今夜のノアはどうにも集中しきれなかった。
戦闘はできる。
術式も乱れない。
役割は果たせている。
でも、通話の向こうで時々点灯するアークの個別ログが、どうしても意識に引っかかる。
今、何を話しているんだろう。
どんな空気なんだろう。
セレスは、どんな声で笑っているんだろう。
そんなことを考える自分が嫌で、余計に落ち着かなくなる。
『ノアさん』
戦闘の合間、セレスがやわらかく声をかけてきた。
『少し反応遅いですけど、大丈夫ですか?』
『え』
『いつもより術式の切り替え、一拍だけ遅れました』
『……ごめん』
『謝るほどじゃないです。疲れてるなら、今日は無理しなくても』
『大丈夫』
すぐに言い返す。
けれど自分でも、その声が少し硬いとわかった。
セレスは少しだけ黙って、それから静かに言った。
『無理してる人って、だいたい大丈夫って言いますよね』
その言葉が胸に刺さる。
やさしい。
ほんとうに、やさしい人だと思う。
だから困る。
こういうふうに、やわらかいまま相手の懐へ入ってくる人は、正面から来る凛花よりずっと防ぎにくい。
『戻った』
唐突に、低い声が通話へ入ってきた。
アークだった。
それだけで、ノアの呼吸がわずかに変わる。
自分でもわかるくらい、意識がそちらへ引き寄せられる。
『おかえりなさい』
セレスが先に応じる。
『素材、どうでした?』
『思ったより集まった』
アークの声はいつも通りだった。
『セレスの欲しかった触媒も三つ出たし』
『十分ですね』
『えー、ずるい!』
ピピがすかさず割り込む。
『わたしたち今すごい地味な周回してたのに!』
『おまえらのほうが数は稼げてるだろ』
『質が違うんですー』
会話は軽く流れていく。
どこにもおかしなところはない。
でもノアは、アークの声の温度がいつもより少しだけ落ち着いて聞こえる気がしてしまった。
深夜素材集め。
少人数。
セレスのやわらかな声。
きっと、静かで心地よい時間だったのだろう。
『ノア?』
アークに呼ばれて、はっとする。
『何』
『次、どうする?』
『……え』
『聞いてなかっただろ』
『聞いてた』
『絶対聞いてない』
少し笑う声だった。
『フレアが次の周回どうするかって話してた』
ノアはわずかに視線を落とした。
聞いていなかった。
さっきまで、アークとセレスが一緒にいた時間のことばかり考えていた。
『ごめん』
『いや、いいけど』
アークは軽く流した。
『疲れてる?』
『違う』
『じゃあ何』
その何気ない問いが、ひどく難しい。
違う。
疲れているわけじゃない。
ただ、胸の奥が少しざわついているだけだ。
しかも、その理由を自分でももう認め始めている。
『ちょっと考え事』
どうにかそう返す。
『ふうん』
アークはそれ以上は深く聞かなかった。
けれど、セレスがふと穏やかな声で言う。
『アークさん、次の周回、もしよければまた後で少しだけお付き合いお願いしてもいいですか?』
ノアの指先が一瞬だけ止まる。
また今度、ではなく、今日の“後で”。
それは思っていたよりずっと近い距離の言葉だった。
『いいよ』
アークは自然に答えた。
『まだ時間あるし』
『ありがとうございます』
セレスの声音は、控えめなのにどこか近い。
それを聞いた瞬間、胸の内側で何かが小さく軋んだ。
凛花みたいに真正面から奪いに来るわけじゃない。
ひなみたいにわかりやすく「好き」を投げるわけでもない。
でも、だからこそ怖い。
セレスは“自然にそこにいる”。
気づけば一緒にいる時間を作っていて、気づけば話しやすい空気を持っていて、気づけばアークの隣を取っている。
ノアは魔導書の表紙を指先でなぞった。
冷静でいようとするほど、逆に感情の輪郭がはっきりしていく。
『ノア先輩?』
ピピが少し心配そうに呼ぶ。
『ほんとに大丈夫ですか?』
『うん』
『でも今日はなんか』
『平気だって』
少しだけ強い声が出た。
自分でも驚くくらいに。
一瞬、通話が静かになる。
ピピが口をつぐみ、セレスも何も言わない。
フレアだけが、たぶん向こうで小さく目を細めた気配がした。
『……ごめん』
ノアはすぐに言い直す。
『怒ってるわけじゃない』
『ならいいですけど』
ピピは露骨に少しだけしょんぼりした声になった。
『今日はやっぱり変です』
変。
そうかもしれない。
いや、変なのではなく、たぶんようやく自分の感情に名前がつき始めているだけだ。
取りたくない。
譲りたくない。
静かに隣を取られるのが、こんなにも嫌なのだと。
そのあと、一度だけ通話が少し途切れた。
各自補給を挟むために、広場へ戻ることになったのだ。
ノアは人通りの少ない噴水裏へ移動し、石段へ腰を下ろした。水面に映る光がゆらゆら揺れて、白い飛沫が細かく夜気へ散っている。
通話へはまだ繋がっていたが、誰もすぐには喋らない。
その静けさの中で、ノアはようやく自分の胸の奥を見つめた。
嫌だと思った。
セレスがアークと二人でいるのが。
やさしい距離の詰め方で、自然に近づいていくのが。
そして、それにアークが素直に心を開いているのが。
そんなふうに思う自分は、もっと静かに恋をしているつもりだった。
相手の幸せを願って、ただ見守るだけでもいいと思い込んでいた。
でも違った。
取られたくない。
ちゃんと、そう思ってしまった。
『ノア』
個別回線が開き、アークの声が近く落ちた。
『何』
『さっきから、ほんとに大丈夫?』
『……大丈夫』
『その言い方、全然大丈夫じゃない時のやつ』
まただ、とノアは思う。
どうしてこういう時だけ、妙に鋭いのだろう。
『何かあった?』
アークが続ける。
『セレスとの周回、嫌だった?』
心臓が跳ねた。
図星だ。
でもそんなこと、認められるわけがない。
『そういうんじゃない』
『じゃあ、何』
『……』
『ノア』
呼ばれる。
やさしい声で。
その声を聞くと、全部こぼしてしまいそうになる。
嫌だったと。
自分が思っているよりずっと、あなたの隣を譲りたくなかったのだと。
でも、そこまではまだ言えない。
『ただ』
ノアは視線を噴水の水面へ落としたまま言う。
『気づいたら隣にいる人って、ちょっと怖いなって思っただけ』
『え』
『何でもない』
『いや、何でもなくはないだろ』
アークの声に戸惑いが混じる。
当然だ。説明が足りない。足りなすぎる。
それでも今のノアには、それ以上きれいに言語化する余裕がなかった。
『ノアさん』
今度は共通通話へ、セレスの声が戻ってきた。
『戻りました。次、もしまだ大丈夫なら』
『行く』
ノアは少し早口で言った。
『私も行く』
自分でも驚くくらい、反射的な返答だった。
通話の向こうで、ピピが「あ」と小さく声を漏らす。
フレアは何も言わない。
セレスだけが、ほんの少し間を置いてから柔らかく返した。
『はい。もちろん』
その優しさが、今はひどく効く。
気を遣っているわけでも、勝ち誇っているわけでもない。
ただ自然に受け入れる。
それが、たぶんセレスの強さなのだ。
アークが個別回線のまま、小さく息を吐く。
『……来るなら助かる』
ノアはその言葉に、どうしようもなく救われる自分を感じた。
情けない、と思う。
少し前まで嫌だとざわついていたのに、こんな一言ですぐに気持ちが揺らぐ。
でも、それでも確かだった。
嫌だと思った。
取られたくないと思った。
そして同時に、自分から隣へ行きたいとも思った。
それはたぶん、もうただの“見守る恋”ではない。
ノアはゆっくり立ち上がる。
噴水の飛沫がローブの裾へ細かくかかり、冷たい光を弾いた。
やさしい距離の詰め方は、きっと一番厄介だ。
大きな音を立てずに近づいて、拒む理由さえ与えないまま、いつの間にか心のそばへ立っている。
セレスはそういう人だ。
だからこそ、怖い。
でもその怖さにようやく気づいた今、ノアはもう前みたいにただ立ち尽くしているだけではいられなかった。




