第2章 第3話:現実では言えないこと
翌朝、目が覚めた瞬間から、胸の奥に妙な静けさがあった。
昨日の夜、《ルーメン回廊》でアークと並んで歩いた時間は、たしかに嬉しかった。自分から一歩踏み出して、その結果として少しだけ距離が縮まった感覚もあった。寝る前までは、その小さな前進だけを大事に抱えていようと思っていたはずだった。
なのに朝になって現実へ戻ると、その温度が別の形で胸へ残っている。
嬉しさの、裏側だ。
制服のリボンを結びながら、澪は洗面台の鏡に映る自分を見た。顔色はそこまで悪くない。寝不足にも見えない。けれど、鏡の中の自分は少しだけよそよそしく見えた。
ノアなら言えた。
ノアとしてなら、アークに「二人で行く?」と声をかけられた。
嬉しいとも、よかったとも、少しずつなら返せた。
でも朝倉澪として、神谷朔へ同じことができるかと問われたら、答えはすぐに出る。
できない。
澪は小さく息を吐いて、通学鞄を肩へかけた。
家を出ると、空はすでに明るく、春の朝らしい薄い青が広がっていた。風はやわらかいのに、肌へ触れる空気だけが少し冷たい。住宅街の角を曲がった先で、見慣れた背中が立ち止まっているのが見えた。
朔だ。
心臓が、ほんの少しだけ速くなる。
向こうも気づいたのか、すぐに振り向いた。目が合う。
「おはよ」
朔が言う。
その声は、昨日の夜に聞いたアークのものと同じはずなのに、今は少しだけ遠く感じた。
「……おはよう」
澪は返す。
それだけで、ふたりの間に短い沈黙が落ちる。
歩き出すタイミングまで少しだけずれる。
昔なら何でもなかったはずの沈黙だ。むしろ気まずいと思う隙すらないくらい、自然に並べていた。何を話すでもなく、何も話さなくても平気だった。
でも今は、その“何も話さなくても平気”だったはずの時間が、逆に落ち着かない。
「今日、早いな」
朔が先に口を開く。
「うん。ちょっと」
「俺も」
「そうなんだ」
会話は続くのに、うまく繋がらない。
言葉のひとつひとつが、前より少しだけ慎重になる。
それが自分だけではなく、朔のほうにもある気がして、余計に息苦しい。
「昨日」
朔が言う。
「ログインしてたよな」
「……うん」
「途中からルーメン行ってた?」
「行ってた」
「そっか」
たったそれだけの会話なのに、胸の奥がざわつく。
当たり前だ。
一緒にいたのだから。
途中から皆で合流したし、隠すようなことでもない。
なのに、現実でその話題を出されると、急に足元が不安定になる。
「昨日のノア」
朔が少しだけ笑った。
「なんか、前より近かった」
澪はとっさに顔を上げられなかった。
その一言は、昨夜アークから言われたものとほとんど同じだった。
でも、ノアとして聞くのと、澪として聞くのとでは、全然違う。
「……そう見えた?」
「見えた」
朔の返事は短い。
「何かあった?」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「そんな顔してないよ」
「してる」
言い切られて、澪は少しだけ唇を引き結ぶ。
そうやって、すぐ見抜く。
ノアに対しても、澪に対しても。
見ているようでいて、でも決定的なことはまだ知らない、その半端な距離感がひどく残酷だった。
「澪」
朔がまた名前を呼ぶ。
「昨日、ノアと話してた時、ちょっと思ったんだけど」
「……何」
「澪も、ああいうふうに話せたらいいのに」
足が止まりかけた。
ああいうふうに。
言われた瞬間、胸の奥で何かがひどく強く波打った。
それは責める言葉ではない。
たぶん本当に何気なく、ただ思ったことを口にしただけだ。
でも澪にとっては、あまりに鋭すぎた。
「それ、どういう意味」
声が少しだけ硬くなる。
「いや、そのまま」
朔は戸惑ったように眉を寄せる。
「昨日のノア、前より自然だったし」
「私は自然じゃないってこと?」
「そういう言い方してないだろ」
「でも今、そういうことじゃん」
「違うって。俺はただ――」
言いかけて、朔は少しだけ言葉を失う。
澪はその隙に視線を逸らした。
だめだと思う。
今の自分は、まともに受け止められていない。
朔はたぶん悪気なく言っている。
でもその“悪気なく言える”ことが、今の澪には何より苦しい。
ノアには自然に話せる。
朝倉澪には話せない。
その違いを、一番痛い形で突きつけられた気がした。
「ごめん」
澪は先に言った。
「今、その話したくない」
「澪」
「ほんとに」
それ以上言われる前に、少し早足で前へ出る。
隣に並ぶ距離が、今日はもう保てなかった。
校門へ着くころには、会話はほとんどなくなっていた。
朔は何か考え込むような顔をしていて、澪はそんな横顔を見る余裕すらなかった。
教室へ入ると、空気が少し変わる。
友達の声、端末の通知音、席替えの話題、提出物の確認。現実はいつだって待ってくれない。だからこそ救われる部分もある。自分の感情だけに沈んでいられない場所だから。
「おはよ、澪」
夏希が自分の席から手を上げる。
「……おはよう」
「顔死んでる」
「開口一番それ?」
「だってほんとに」
夏希は澪が鞄を置くのを見ながら、少しだけ目を細めた。
「神谷と何かあったでしょ」
「……ちょっと」
「やっぱりね」
「何でわかるの」
「神谷、今めっちゃこっち見たから」
反射的に振り向きそうになるのを、澪はどうにか堪えた。
見なくてもわかる。たぶん朔は気にしている。朝のあれで、余計に。
「昼、話聞く?」
夏希が小さく訊く。
「……うん」
「りょーかい」
その軽さに、少しだけ救われる。
午前中の授業は、ひどく長く感じた。
黒板の文字は追える。教師の声も聞こえている。ノートだってちゃんと取れている。けれど、その全部が薄い膜を一枚挟んだみたいに遠かった。
ときどき、ふっと思い出してしまう。
昨夜の回廊で、アークが言った。
――今日、来てよかった。
――ノアといると、やっぱやりやすいな。
あの時は嬉しかった。
ちゃんと嬉しかったのに。
今朝、朔に「ああいうふうに話せたらいいのに」と言われた途端、その嬉しさごと胸を刺してきた。
ノアでなら近づける。
でも朝倉澪は置いていかれる。
昼休みになると、澪は夏希に引っ張られるようにして校舎裏のベンチへ連れていかれた。
人通りは少なく、春の陽射しがコンクリートへ白く反射している。
「で?」
夏希が購買のパンを片手に言う。
「朝なに言われたの」
「……ノアの話」
「うわ、ややこしい」
「うん。ややこしい」
澪は自販機の缶ココアを両手で包み込む。
「昨日、VRでちょっとだけ……前より自然に話せたの」
「へえ」
「で、朔が、それ見て」
「うん」
「澪もああいうふうに話せたらいいのに、って」
夏希が一瞬だけ黙った。
「きつ」
「でしょ」
「いや、神谷的には悪気ないんだろうけど」
「ないと思う」
「でも刺さるね、それ」
「うん」
缶越しに伝わる温度が、少しだけ心地いい。
澪はその温かさにすがるみたいに指先へ力を込めた。
「ノアなら言えることがあるの」
「うん」
「でも澪では言えない」
「うん」
「それで近づけてる気がして、嬉しかったはずなのに」
澪は少しだけ息を詰める。
「今朝になったら、それがすごく苦しくなった」
夏希はすぐには何も言わなかった。
その沈黙がありがたい。
「ノアとしてなら、朔に近づける」
澪はゆっくり言葉を置いていく。
「でも、それって朝倉澪の恋が進んでるわけじゃないんだよね」
「……」
「なんか、自分で自分を置いていくみたいで」
夏希が小さく息を吐いた。
「便利な仮面ってさ」
低い声で言う。
「最初は守ってくれるんだけど、たまに本音だけ置いていくんだよね」
その言葉が、まっすぐ胸へ入った。
守ってくれる。
でも置いていく。
まさにその通りだった。
ノアは澪を救ってくれる。少なくとも、何も言えない現実の自分よりはずっと。
でも、そのノアで近づけば近づくほど、朝倉澪としての自分が何も言えないまま置き去りになる。
「どうすればいいと思う?」
思わず聞いていた。
夏希はパンの包装を折りたたみながら肩をすくめる。
「両方やるしかないんじゃない」
「両方」
「ノアとして近づくのも、朝倉澪として向き合うのも」
簡単に言う。
でも簡単じゃない。
「無理だよ」
「うん、今は無理かもね」
「即肯定……」
「でも、だからって片方だけだとそのままじゃん」
夏希は真っ直ぐ澪を見る。
「ノアだけ進んで、朝倉澪が置いてかれるのも嫌でしょ」
「嫌」
「じゃあ、苦しくてもどっちも捨てないしかない」
その言葉に、澪は小さく目を伏せた。
捨てない。
逃げない。
でもそれは、想像していたよりずっとしんどい。
午後の授業を終えたあと、澪は教室でプリントを整理していた。
帰るタイミングを少しずらせば、朔と二人きりになる確率も下がる。そう思ってわざとゆっくりしていたのに、気づけば机の横に立たれていた。
「澪」
低い声。
見上げると、朔が少しだけ気まずそうに立っている。
「……何」
「朝、ごめん」
その言葉に、澪は一瞬だけ目を瞬いた。
「別に」
「別にじゃない」
朔は珍しく言い切る。
「言い方、たぶん悪かった」
「……」
「比べたかったわけじゃないんだ」
比べたかったわけじゃない。
その気持ちは本当だろうと思う。
朔はそういう残酷さを、悪意でやる人じゃない。
「わかってる」
澪は小さく返す。
「でも、今の私にはちょっときつかった」
正直に言うと、朔の表情が少しだけ曇った。
「そっか」
「うん」
「……ごめん」
二度目の謝罪だった。
その素直さに、胸が少し痛む。
ちゃんと謝ってくれる。
ちゃんと気づこうとしてくれる。
だからこそ、なおさらこの距離が苦しい。
「昨日のノア、楽しそうだったから」
朔がぽつりと言う。
「それ見て、いいなと思っただけなんだよ」
「いいな?」
「うん。澪も、ああいうふうに笑えたらいいのにって」
まただ。
やさしいのに、刺さる。
でも今度は、朝ほど強く反発しなかった。
朔が本当にそう思って言っているのだと、わかったからだ。
わかったからこそ、余計に苦しい。
「……ノアには、少しだけ言いやすいだけ」
澪は視線を落としたまま言う。
「現実より、こっちのほうが」
「こっち?」
「いや、何でもない」
慌てて言葉を切る。
危なかった。口が滑りかけた。
朔はわずかに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「無理に笑えとは言わない」
少し置いてから、朔が言う。
「でも、澪が一人でしんどくなってるのは嫌だ」
「……」
「ちゃんと、頼ってほしい」
その言葉は、澪がいちばん弱い種類のやさしさだった。
頼ってほしい。
そんなふうに言われたら、簡単に期待してしまう。
でもその一方で、そのやさしさが幼馴染としてのものなのか、それ以上なのか、まだ何もわからない。
「……ありがと」
澪はそれだけ返した。
それ以上は、やっぱり言えない。
言ったら崩れるものがある。
でも言わないままでは、ずっと苦しい。
その板挟みから、まだ抜け出せない。
家へ帰る途中、夕方の空は淡い紫へ傾いていた。
電柱の影が長く伸び、風に運ばれた夕飯の匂いが住宅街に混ざっている。
澪は歩きながら、ぼんやり思う。
朔は悪くない。
ノアも悪くない。
悪いものなんて、きっと何もない。
ただ、現実とVRで、同じ相手への距離の詰め方が違いすぎるだけだ。
ノアとしてなら、少しだけ近づける。
朝倉澪としては、まだ何も言えない。
そのズレが、今の自分をいちばん苦しめている。
夜になれば、またログインできるだろうか。
ノアとしてなら、また少しは自然に話せるだろうか。
そしてもしそうできたとして、そのあと現実の自分はどうなっていくのだろう。
考えれば考えるほど、答えは遠かった。
それでも、昨日の回廊で自分から一歩踏み出したことは、間違いではなかったと思いたい。
たとえその先に、もっと厄介な苦しさが待っているのだとしても。
澪は夕暮れの向こうへ視線をやり、小さく息を吐いた。
現実では言えないことが、夜の名前では言えてしまう。
そのことに救われながら、そのことに傷ついている。
恋をしているのは、ノアじゃない。
朝倉澪だ。
その当たり前の事実だけが、今日はいっそう重く胸に残っていた。




