第1章 第5話:このままじゃ、本当に
最終エリアへ足を踏み入れた瞬間、視界の奥行きが変わった。
それまでの《星喰いの庭》が横へ広がる空間だったのに対して、門の先にあったのは、縦へ吸い込まれるような景色だった。巨大な黒い蕾が、夜の中心に落ちた影みたいにそびえ立っている。地面は白ではなく、磨かれた黒曜石のような光沢を帯び、ところどころに銀の筋が走っていた。空にはもう光の粒すらほとんどなく、代わりに頭上の高い場所で、円環状の術式がゆっくり回転している。
静かすぎる、と思った。
大人数イベントの最終局面だというのに、ここへ入った途端、雑踏の気配が遠のく。ほかのプレイヤーがいないわけではない。実際、左右の通路や段差の上には複数パーティの姿が見えた。けれど音が吸われるみたいに薄くて、この場所だけ世界から切り離されたような感覚があった。
「うわ……」
ピピが小さく息を呑む。
「いよいよ、って感じですね」
セレスも周囲を見上げた。
「最終戦前に雰囲気だけで削ってくるの、嫌いじゃないわ」
フレアが細剣の柄へ軽く触れる。
「俺はもうちょっと優しいほうが好きだけどな」
アークが苦笑する。
ノアは返事をせず、正面の巨大な蕾を見つめた。
その表面には、黒い蔦みたいな紋様が脈打つように浮かんでいる。時折、薄く裂け目が開いて、その奥から赤紫の光が漏れた。まだ完全には開いていない。つまり、ここでも何か前段階のギミックがあるということだ。
視界端に表示されたイベントログを確認すると、やはりそうだった。
――《最終解放条件:四基の星杭を起動し、中央核の封印を解除せよ》
「やっぱり一発じゃ行かせてくれない」
ノアが呟く。
「四基って、分散型か」
アークがすぐ反応した。
「うん。東西南北に一本ずつ。たぶん全部に同時干渉が必要」
「同時、かあ」
ピピが露骨に嫌そうな声を出す。
「人数足りる?」
セレスが不安げに訊く。
「五人だとギリギリね」
フレアがマップを開きながら言う。
「でも、他パーティと連動するタイプかも」
その言葉通り、少し離れた場所で複数パーティが星杭へ向かって動き始めていた。全体イベントの最終盤らしく、ここでは完全な個別攻略ではなく、エリア内にいる参加者同士がゆるく同期する仕様になっているらしい。
「なら、うちが一基押さえて、流れを見つつ最短で補助かな」
アークが言う。
「北が空いてる」
ノアは即座に答えた。
「今なら一番近いし、他の動きも見やすい」
「了解。じゃ、北取る」
決まるのは早かった。
五人は黒曜石の床を駆け、北側の星杭へ向かう。近づくにつれ、その構造がはっきり見えてくる。地面から生えた巨大な槍のような柱で、表面に銀の術式が幾重にも刻まれている。柱の根元には起動用の魔法陣があり、一定時間、誰かが制御を維持しなければならない形式らしい。
「敵来るよ」
ノアが先に察知する。
次の瞬間、星杭の周囲の影が盛り上がり、四体の守護個体が現れた。これまでの影獣と違って輪郭が固い。黒い甲殻に覆われた獣型で、動きも鋭い。
「アーク、正面二体」
「持つ!」
「フレア、右」
「任せて」
「ピピ、左回り」
「はいっ!」
「セレスは杭側、ノアと一緒に制御補助」
「了解です!」
役割が決まれば早い。
アークが剣で正面を引きつける。フレアが右から切り裂き、ピピが左の敵を引っ掻き回す。セレスが防護障壁を展開し、ノアは星杭の解析窓を開いた。
複雑な術式が幾層にも重なっていて、そのまま触れば暴発しかねない。制御権限の取得、位相同期、外部干渉の切り分け。補助職向けの面倒な作業ばかりだ。
「どう?」
セレスが問う。
「やれる。でも三十秒は欲しい」
「作ります」
やわらかな返答と同時に、セレスの杖から白金の光が流れた。ノアの周囲に薄い膜が張られ、細かな妨害効果が弾かれる。
ありがたい、と素直に思う。
こういう時、セレスの静かな支えは本当に強い。前には出すぎないのに、気づくと一番必要な場所へぴたりと手を届かせている。
「ノア! 右後方、雑魚一!」
アークの声。
「見えてる!」
術式を走らせ、雑魚の足を止める。その隙をピピが駆け抜け、軽やかにとどめを刺した。
「ナイスです!」
「そっちも!」
星杭の術式が一層、二層と解けていく。
忙しい。考える暇がない。そのはずなのに、視界の端にはどうしてもアークの姿が入ってしまう。
前線で剣を振るうたび、目を引く。フレアと並べばなおさらだ。攻撃の軌跡まで綺麗で、誰かが見れば、きっとそこが主役の絵になる。
自分は違う。
後ろから流れを整え、崩れないように支える役だ。
必要なのはわかる。大事なのもわかる。わかっているのに、恋の中でその立ち位置のままでは、たぶん永遠に届かないことも、もうわかってしまっていた。
「北、起動いける!」
ノアが声を上げる。
「やるよ」
アークがすぐに返す。
彼が星杭の根元へ滑り込み、起動陣に剣を突き立てるようにして接続を開始する。ノアはその補助として術式を重ね、セレスが外周を固める。柱表面の銀の紋様が一気に明るくなり、上空へ一本の光が伸びた。
――《北基起動確認》
「ひとつ!」
ピピが嬉しそうに声を上げる。
「でもまだ半分どころか四分の一ね」
フレアは息を乱さずに言った。
その通りだった。東と西でもほぼ同時に光が上がっているが、南だけまだ点灯していない。参加パーティの配置が偏ったのか、最後の一基で足止めを食っているらしい。
「南、重そう」
ノアがマップを見て言う。
「向かう?」
アークが即座に問う。
「うん。たぶん補助が足りてない」
「じゃ、行く」
迷いなく移動が始まる。
黒い床を蹴り、南側の回廊へ走る。途中ですれ違うパーティも、どこか切迫した空気を帯びていた。最終局面特有の熱が、静かな空間の底でじわじわ膨らんでいる。
南基へ近づくと、その理由はすぐにわかった。
星杭の周囲に、巨大な妨害霧が展開している。視界阻害と術式攪乱が重なり、前衛主体のパーティでは制御が追いついていない。何組かが突入と後退を繰り返していて、完全に流れが悪くなっていた。
「ノア、いける?」
アークが訊く。
「霧の中に中枢がある。切れれば一気に開く」
「場所は」
「たぶん中心より少し左」
「曖昧だな」
「視界が荒れてるから。でも行ける」
アークは一瞬もためらわなかった。
「なら信じる」
その一言だけで、胸の奥がまた痛む。
信じる。頼りにする。任せる。
それは澪がずっと欲しかった言葉のひとつだ。けれど今欲しいのは、それだけでは足りない。
「フレア、俺と前開ける。ピピは右から攪乱。セレス、ノア保護。ノアは中枢」
「了解!」
「任せて」
「はい」
「うん」
霧の中へ踏み込むと、感覚が一気に鈍る。
視界が白黒に潰れ、音の方向も曖昧になる。ノアは呼吸を整え、魔導書へ指を走らせた。解析補助、位相補正、誤認識の排除。青白い文字列が浮かび上がり、霧の奥に埋もれた輪郭が少しずつ見えてくる。
左。さらに奥。低い位置。
「そこ!」
ノアが示した方向へ、アークとフレアが同時に走る。剣と細剣の軌跡が交差し、霧の核を裂いた瞬間、視界が一気に晴れた。
「開いた!」
ピピが叫ぶ。
「そのまま押し切って!」
ノアが術式を重ねる。
「了解!」
南基周辺の他パーティも一斉に動き出す。数秒前まで停滞していた流れが、嘘みたいに繋がった。星杭の紋様が明るく脈打ち、遅れていた最後の光がようやく上空へ突き上がる。
――《四基起動完了》
――《中央核封印解除》
地面全体が低く鳴動した。
正面の巨大な蕾が、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。黒い花弁が何枚も外側へ反り返り、その内側に赤紫の核が姿を現した。空間の明度そのものが落ち、冷たい圧がエリア全体へ広がる。
来る。
誰も言葉にしなくても、それがわかった。
「最終ボス、出るね」
フレアが口元をわずかに上げる。
「ようやく本番か」
アークが剣を握り直した。
「や、ようやくって言うには、もう十分しんどいですけど……」
ピピが半泣きみたいな声を出す。
「ここまで来たら、やるしかないです」
セレスが静かに杖を構えた。
ノアは、開ききった蕾の中心を見つめた。
核の周囲に、影が集まっていく。巨大な人影のようでもあり、獣のようでもあり、まだ輪郭は定まらない。けれどその存在感だけで、これまでとは別格だとわかる。
最終戦が始まる。
なのに胸の内側では、戦闘の緊張とは別のものが膨らんでいた。
ここまでずっと、アークの隣には誰かがいた。フレアの華やかさも、セレスのやわらかさも、ピピのまっすぐさも、全部ちゃんと彼の周りで形になっていた。自分もその中にいるはずなのに、自分だけがどうしても一歩引いた場所にいる気がしてならない。
役目ならある。居場所もある。
でも本当は、それじゃ足りない。
「ノア?」
気づけば、アークが少し近くでこちらを見ていた。
「ぼーっとしてる」
「してない」
「してる。珍しいな」
「……少し考え事」
「今?」
「今だから」
思ったより低い声が出た。
アークは一瞬だけ目を丸くする。けれどすぐに、困ったような、でもやわらかい顔で笑った。
「終わったら聞く」
「聞かなくていい」
「いや、気になるだろ」
「気にしなくていいって」
「ノアがそう言う時、だいたい気にしたほうがいいやつなんだよな」
そうやって、また簡単に踏み込んでくる。
知っているような口をきいて、こちらだけを揺らしていく。本人はきっと、そんなつもりじゃない。ただ自然に言っているだけだ。
それがいちばん苦しい。
「ノアさん」
セレスがそっと声をかける。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
「少しだけ、無理してる顔してます」
「そんな顔、アバターでわかる?」
「わかりますよ。なんとなく」
やわらかな言葉が胸に触れる。
フレアは少し離れた位置でこちらを見ていたが、何も言わない。ただ、その視線だけは妙にまっすぐだった。
ピピは露骨に不安そうにアークとノアを見比べている。
誰にも知られたくないのに、少しずつ見えてしまっているのかもしれない。自分の揺れが。余裕のなさが。隠しているつもりの感情が。
巨大な影が、ついに核の前へ姿を結び始める。
空気が震えた。
システムの警告音が高く鳴り、最終戦開始を告げるカウントダウンが視界中央に浮かぶ。
十。
九。
八。
ノアは杖を握り直した。
七。
六。
自分はまだ何も言っていない。何も始めていない。
五。
四。
でも、こんなふうに見ているだけでは、たぶん本当に何も変わらない。
三。
二。
胸の奥で、はっきりとした言葉になりかけた感情が揺れる。
一。
零になる直前、ノアは静かに息を吸った。
そして、巨大な影が咆哮を上げるより先に、心の中でひとつだけ認める。
このままじゃ、本当に誰かに取られる。




