第1章 第4話:誰かの特別になれなくても
第三層へ続く門をくぐった瞬間、空気が変わった。
それまでの《星喰いの庭》は、静かで幻想的ではあっても、まだどこか整えられた美しさの中にあった。けれど門の先に広がっていたのは、その均衡が崩れはじめたあとの景色だった。
白かった樹々は灰をかぶったみたいに色を失い、地面には黒いひびが幾筋も走っている。空中を漂っていた光の粒は数を減らし、その代わり、遠くの空には裂け目のような暗い筋が浮かんでいた。風が吹くたび、どこかで硝子の砕けるような乾いた音が響く。
「雰囲気変わったな」
アークが周囲を見渡しながら言う。
「終盤って感じですね……」
セレスが小さく息をのんだ。
「こういうの、だいたい嫌なギミック来るやつです」
ピピが少しだけ声を落とす。
「来るわね」
フレアは迷いなく細剣を構えた。
ノアは足元に広がる紋様を見下ろした。
黒いひびの間に、細い銀色の線が脈みたいに走っている。一定周期で明滅し、地形そのものが呼吸しているように見えた。
「たぶんこの層、床連動型の干渉がある」
「踏んだ場所で何か変わる?」
アークがすぐに返す。
「それもある。たぶん、誰がどこに立つかで敵の行動パターンも変わる」
「面倒」
フレアが短く言い切った。
「でも嫌いじゃないでしょ」
「嫌いではないわね」
そんなやり取りの間にも、前方の空間がゆっくり歪み始めていた。黒い霧のようなものが渦を巻き、その中から細長い影がいくつも這い出してくる。人型に近いが、関節の位置がどこかおかしく、輪郭が定まっていない。影獣よりも一段階上位の中型エネミーだろう。
「来るよ」
ノアが杖を構える。
「了解。前、持つ」
アークが一歩前へ出る。
「右二体、私が削る」
フレアがほぼ同時に走り出した。
「ピピは左から回り込みます!」
「後ろ、見ますね」
セレスの声が柔らかく重なる。
戦闘が始まると、余計な思考は少しだけ薄れる。
アークの剣が最初の一体を引きつけ、フレアの火力がその横を削る。ピピが足元へトラップを撒き、敵の動線をずらす。セレスの回復と防護術が遅れなく重なり、ノアはその隙間へ妨害術式を差し込む。
綺麗だ、とノアは思った。
戦っている時の五人は、たしかに綺麗だった。誰かひとりの強さではなく、役割が繋がってひとつの流れになる。そこに自分もいる。少なくともその事実だけは、疑わなくていい。
「ノア、前列に鈍化入れられる?」
「もう入れる。三、二、一――今」
「助かる!」
アークが剣を振り抜く。硬い手応えの音が響き、影の一体が大きく揺らいだ。そこへフレアが正面から斬り込み、赤いエフェクトが鋭く走る。
「そこ!」
「わかってる!」
息の合った連携だった。
そういう場面を目にするたび、胸の奥で小さな痛みが揺れる。
うまくいっている。みんな強い。戦況は理想に近い。だからこそ、誰の動きがどれだけ映えているかも、嫌でも見えてしまう。
特にアークとフレアは目を引いた。
前に出るタイミング、踏み込みの鋭さ、攻撃の見栄え。どちらも人に見せることを意識しているわけではないのに、結果としていちばん絵になる。観客がいれば拍手が起こりそうなくらい、完成された前線だった。
「やっぱり、あのふたりすごいな……」
少し離れた別パーティの誰かが、通りすがりにそんな声を漏らすのが聞こえた。
気にしないふりは、もうずっと得意だった。
ノアは術式の発動ログへ視線を落とし、淡々と次の制御を重ねる。今さら何を言われたところで、傷つく資格もない。自分はまだ何も伝えていないし、何も始めていない。
そう思っているのに、胸の奥だけは律儀に痛みを覚えてしまう。
中型群を片づけ、少し開けた空間へ出ると、中央に第三の《星核の欠片》が浮かんでいた。
白銀の結晶はこれまでの二つよりも大きく、その周囲を黒い蔦のようなものが絡みついている。蔦は床面のひびとつながっていて、一定間隔で脈打っていた。
「これ、ただ取るだけじゃない」
ノアはすぐに分析窓を開く。
「そうみたいね」
フレアも周囲を見回した。
「三点制御型。たぶん蔦の核を同時に断たないと、欠片に触れない」
「場所は?」
アークが訊く。
「正面、右奥、左後方」
「じゃあ私、右奥」
「ピピ、左行けます!」
「なら正面は俺」
「ノアは?」
「制御側。タイミング合わせる」
「了解」
アークが短く頷く。
迷いがない。
その即答の速さに助けられることも多い。けれど、信頼されるたびに、言葉にならないものが胸の中で積もっていく。
役割として必要とされるのと、一人の誰かとして選ばれるのは、違う。
そんな当たり前のことを、どうして何度も思い知らなければならないのだろう。
「カウント出す。三、二、一――今!」
ノアの声にあわせて、三方向で同時に光が走る。
アークの剣が正面の核を断ち、フレアの細剣が右奥を貫き、ピピが左後方へ短剣を投げ込む。蔦が一斉に震え、黒い脈動が止まった。
「いける!」
セレスが補助術を重ねる。
「ノア!」
アークが振り向く。
その一瞬で言いたいことがわかる。
ノアは即座に魔導書を開き、欠片の周囲に残っていた偽装障壁を上書きした。青白い術式が薄膜のように広がり、白銀の結晶を縛っていた最後の封印がほどける。
「解除完了!」
「ナイス!」
アークが欠片へ手を伸ばす。光が弾け、第三の《星核の欠片》がインベントリへ格納された直後、地面全体が大きく揺れた。
「っ、まだ終わりじゃない!」
ノアが声を上げる。
床のひびが一斉に明滅し、その中心から巨大な影がせり上がってきた。花弁のようにも、牙のようにも見える黒い装甲。その奥で単眼だけが不気味に光る。ミニボス級の迎撃個体だ。
「ほんと素直に終わらないな!」
「イベントなんてそんなものでしょ!」
フレアが笑うように言って、前へ出る。
巨体のわりに速かった。
黒い腕のようなものが地面を薙ぎ払い、前線に圧をかける。アークが剣で受け止めるが、衝撃で体勢がわずかに崩れた。
「アーク!」
ノアが防護術を飛ばす。
「助かる!」
そこへフレアが横から入り込み、鋭い斬撃を二連続で叩き込んだ。火花のようなエフェクトが散り、敵の単眼がわずかに揺れる。
「セレス、前列厚め! ピピ、左から攪乱!」
「はい!」
「了解です!」
連携は途切れない。むしろ圧が強くなった分、全員の集中が研ぎ澄まされていくのがわかった。
アークが押さえる。フレアが削る。セレスが支える。ピピが乱す。ノアが繋ぐ。
その形自体は綺麗だった。
でも綺麗であればあるほど、その中の自分の立ち位置も、はっきり見えてしまう。
前へ出て誰かの目を奪う役じゃない。まっすぐに好意を見せて、隣を取りにいける役でもない。自分はいつも、少し引いた場所から全体を整えるほうが向いている。
それは強みだ。わかっている。
けれど恋の中でまで、その立ち位置のままでいいわけじゃないことも、最近ようやくわかり始めていた。
「ノア、右後方に雑魚追加!」
「見えてる!」
即座に術式を飛ばす。拘束、鈍化、視界補助。青い光が幾筋も重なり、ピピがそこへ飛び込んで敵を引き剥がす。
「ありがとうございます!」
「無茶しないで!」
「それ、アーク先輩にも言ってください!」
言われなくても言いたい、と思った直後、巨大個体が大きく身をねじった。狙いは前線ではなく、その後ろ――ノア。
「っ!」
黒い棘のようなものが一直線に伸びてくる。
防げる。そう判断して術式を組もうとした瞬間、それより早く、アークが割り込んできた。
金属がぶつかる鋭い音。
彼の剣が棘を弾き、その反動で身体が半歩ぶれる。そこへフレアが間髪入れず追撃を入れ、敵の注意を正面へ引き戻した。
「後ろ狙うとか、趣味悪いわね!」
「助かった、フレア!」
「礼はあと!」
ノアは一瞬遅れて息を吐いた。
まただ、と思う。
守られてしまう。助けられてしまう。そうされるたび嬉しいのに、その嬉しさがすぐ別の苦しさに変わる。
特別であってほしい、と思ってしまうから。
自分だけに向けられたものだと、どこかで期待してしまうから。
「ノア! 集中!」
アークの声が飛ぶ。
「……うん!」
頬を打たれたみたいに意識が戻る。
今は考えるな、と自分に言い聞かせ、魔導書へ意識を落とした。敵の行動ログを読む。次の溜め。左肩の装甲展開。広範囲衝撃波の予兆。
「次、範囲来る! 全員、外周!」
声を飛ばすと同時に、ノアは防壁を展開した。半透明の青い壁が五人の間を繋ぐように走る。その一秒後、黒い衝撃が地面を這い、白と灰の庭園を大きく揺らした。
視界が明滅する。
その隙を逃さず、アークが踏み込んだ。
「今だ!」
フレアが合わせる。
ピピが跳ぶ。
セレスの光が重なる。
ノアは最後の妨害術式を叩き込んだ。
単眼が砕け、巨体が大きく軋んで崩れる。黒い粒子となって溶けるように消えていくのを見届けてから、ようやく全員の肩から力が抜けた。
「終わっ、た……!」
ピピがその場にしゃがみこむ。
「思ったより重かったですね……」
セレスが苦笑する。
「でも悪くなかったわ」
フレアは細剣を払って鞘に戻した。
「だな。ノア、最後の読み助かった」
アークが振り向いて笑う。
その笑顔が、困るほどまっすぐだった。
「……役目だから」
「それでも助かったのは事実」
「フレアもピピもセレスも、みんなでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ、そういうこと」
言い切ると、アークは一瞬だけ目を丸くして、それから少し笑った。
「たまにノア、妙に頑固だよな」
「たまにじゃなくて、いつもかもしれない」
「知ってる」
知ってる、と軽く言われただけで胸が揺れる。
そういうところだと思う。知っているような顔をして、期待しそうになる言葉を簡単に寄越す。本人は何気ないままなのに、受け取る側だけが勝手に深く沈んでいく。
ミニボス撃破によって、中央領域への転送路が解放されたらしい。崩れた地面の奥で、黒い花弁のような門が静かに開いていく。向こう側には、最初に遠くから見えた巨大な蕾の影が、今度ははっきりと輪郭を持って浮かんでいた。
最終エリアは近い。
けれど、その前に短い待機時間が与えられているらしく、五人は門の手前で一度立ち止まった。補助アイテムの再確認、クールタイムの調整、軽い水分補給のエモート。そんなわずかな間ですら、周囲のプレイヤーたちの会話は止まらない。
「さっきのアーク、また後衛守ってたな」
「フレアとの前線連携もすごかった」
「わかる、あれ見応えあった」
聞こえる声は、やっぱりだいたい同じだった。
アークとフレア。華のある前線。見映えのいい連携。納得できる評価だ。何ひとつ間違っていない。
間違っていないから、余計に苦しい。
ノアは視線を落としたまま、ゆっくり指を握る。
自分だって役に立っている。必要とされてもいる。たぶん、信頼もされている。
それでも、誰かの特別になれる気がしない。
ただ隣にい続けることと、選ばれることは違う。支えられることと、欲しがられることも違う。
そんなこと、本当はずっと前から知っていたのかもしれない。
「ノアさん」
柔らかな声に顔を上げると、セレスがそっと小瓶を差し出していた。見た目だけの回復演出アイテムだ。薄い青色の液体が月光みたいに揺れている。
「少しだけ、休んでください」
「……ありがとう」
「無理してるように見えます」
図星だった。
けれどそれを認めるほど素直にもなれなくて、ノアは曖昧に笑うだけに留めた。
「平気。まだやれる」
「そういう意味じゃなくて」
セレスは穏やかなまま言う。
「頑張りすぎる人って、自分で思ってるより疲れてることが多いので」
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
やさしい人は苦手だ。こういうふうに、踏み込むでもなく、でもちゃんと触れてくるから。
「ノア」
今度はアークに呼ばれる。
振り向くと、彼は少しだけ首を傾げてこちらを見ていた。
「もう少しで最後だ。しんどかったら無理すんなよ」
「……平気だって」
「ならいい。おまえ、平気って言う時ほんとに平気なことと、全然平気じゃないことあるから」
「何それ」
「長い付き合いでわかる」
そう言って笑う顔が、まるで当たり前みたいで。
その当たり前が、どうしようもなく愛しくて、どうしようもなく残酷だった。
長い付き合い。知っていること。わかっていること。
それは確かに、他の誰にも簡単には奪えないものだ。
でも、それだけでは足りないともう知ってしまった。
誰かの特別になりたい。
幼馴染としてでも、頼れる仲間としてでもなく、その先の名前で呼ばれる場所に行きたい。
そんな願いを抱いたまま、今まで通りの顔で隣に立つのは、思っていたよりずっと苦しい。
門の奥から、最終エリア解放を告げる鐘のような音が響いた。
ノアは青い小瓶を飲み干し、深く息を吸う。
甘いような冷たいような味のあと、視界がわずかに澄んだ。
それでも胸の中のもやは消えないままだったけれど、今はまだ押し込めておけばいい。
魔導書を抱え直し、ノアはゆっくり前を向いた。
少なくとも今だけは、迷わず役に立てる。
その事実だけを確かめるように、一歩を踏み出した。




