第1章 第2話:夜の名前で、少しだけ近く
夕食を簡単に済ませて自室へ戻ると、窓の外はすっかり夜になっていた。
薄いカーテンの向こうに見える住宅街の灯りは、どれも似たような色をしているのに、不思議とひとつずつ違って見える。誰かが帰宅して、誰かが食器を洗って、誰かがもうログインを始めている。そんな夜だった。
澪は制服のリボンを外し、机の横に置いたフルダイブ端末へ視線を向けた。
今では珍しくもない装置だ。学校の課題共有も、自治体の手続きも、買い物も、交流も、その多くが仮想空間と連動している。娯楽として始まったはずのVRMMOも、もうただのゲームではない。友達と会う場所であり、噂が広まる場所であり、誰かとの距離が現実よりも近くなることさえある。
それを、澪はよく知っていた。
ベッドに腰を下ろして、端末を装着する。視界の端で起動ランプが静かに明滅し、規則的な電子音が鼓動みたいに耳へ触れた。
深く息を吸って、ゆっくり目を閉じる。
朝倉澪の輪郭が薄れていく。
沈み込むような感覚のあと、意識がひらく。
視界いっぱいに広がったのは、群青色の空と、星屑のような光を浮かべる巨大都市だった。白銀の塔が幾重にも立ち並び、その間を透明な転送路が走っている。足元の石畳には淡い魔法陣のような模様が刻まれ、人の往来にあわせて薄く光が流れていた。
ログイン地点である中央広場は、今夜も賑わっている。
武器屋の看板がホログラムでまたたき、空中掲示板にはイベント告知が次々と流れていく。人の姿をしたアバターだけでなく、獣人型や機械装甲型、精霊種モデルまで混ざり合って、広場全体が色と音で満ちていた。
澪――ノアは、自分の手を軽く開いた。
細い指先。白銀がかった袖。現実の制服とはまるで違う、濃紺と白を基調にした軽装ローブ。腰には補助術式の刻まれた魔導書、背には短杖。髪が揺れる感覚も、石畳を踏む足裏の反発も、驚くほど自然だった。
この姿になると、少しだけ呼吸がしやすい。
現実の自分を嫌っているわけではない。ただ、ノアでいる時のほうが、胸の奥の言葉が喉元まで浮かびやすい。朝倉澪なら飲み込んでしまうことも、ノアなら少しだけ、口にしてみようと思える。
広場中央に視線を向けると、すぐに見慣れた背中が見つかった。
黒と金の軽装甲冑。片手剣を腰に下げた長身のアバターが、数人に囲まれて笑っている。
アークだ。
現実の朔より少しだけ輪郭の整った顔立ちで、立ち姿もどこか絵になっている。けれど、人懐こい仕草や笑い方はそのままだった。
どこにいても見つけられるな、とノアは思う。
見つけたくなくても、きっと見つけてしまう。
「ノア!」
先に気づいたのは向こうだった。
アークが手を上げる。周りにいたプレイヤーたちへ何か軽く言ってから、こちらへ歩いてきた。その歩幅の大きさまで、少しだけ朔を思い出させる。
「来たか」
「うん。遅れてないよね」
「全然。むしろ早いほう」
アークはそう言って、広場端の時計表示を見上げた。集合時刻まで、まだ十分ほどある。
「装備調整、もう済ませた?」
「一応。補助構成を少しだけイベント用に変えた」
「助かる。今回ギミック多そうなんだよな。たぶん俺、途中で一回踏む」
「自信満々に言わないで」
「いや、だって初見だし」
「そういう問題じゃないと思う」
思わず返すと、アークが可笑しそうに笑った。
「そうやって普通にツッコんでくるの、ノアくらいなんだけど」
「みんな遠慮してるだけじゃない」
「いや、ノアは遠慮なさすぎ」
「してるよ、これでも」
「ほんとに?」
少し首を傾げて見られて、ノアはほんのわずかに言葉を詰まらせた。
そういう顔をされると困る。
澪の時もそうだ。朔は時々、何でもないような顔で相手の内側を見ようとしてくる。たいていは無意識だ。だからたちが悪い。
「……少なくとも、誰かさんよりはしてる」
「誰かさんって俺?」
「他に誰がいるの」
「ひどいなあ」
そう言いながらも嬉しそうなのが、少しだけ悔しい。
ふたりで広場の端へ移動し、イベント掲示板を確認する。今夜の大型合同イベント《星喰いの庭》は、複数パーティ参加型のレイド形式で、前半が探索、後半がボス討伐に分かれているらしい。視界共有ギミック、一定時間ごとの位置交換、支援術の制御阻害。面倒な単語がいくつも並んでいた。
「嫌な予感しかしない」
「おまえのその顔、だいたい当たるんだよな」
「嬉しくない」
「でも頼りにはしてる」
さらっと言われて、ノアは視線を掲示板へ戻した。
こういう言葉は、現実よりVRのほうが余計に近く聞こえる。
顔が見えにくいぶん、声や間の温度がやけにはっきり伝わるのだ。視線を合わせなくても、言葉だけで心の輪郭をなぞられるみたいで落ち着かない。
「アーク先輩ー!」
明るい声が広場に跳ねた。
次の瞬間、小柄なアバターが人混みを縫うように駆け寄ってくる。黄色と白の軽装をひらひらさせ、短剣を腰に二本提げた少女型アバター。ピピだ。
「見てください、今日の新装備! かわいくないですか?」
「お、いいじゃん。機動値上がってる?」
「上がってます! 見た目だけじゃないです!」
「それは偉い」
「何ですかその言い方ー!」
頬を膨らませる仕草まで賑やかで、アークが笑う。
ピピはそのまま自然に彼のすぐ横へ並び、くるりとその場で一回転してみせた。たしかに新装備は似合っている。軽快で、元気な本人の雰囲気にも合っていた。
「ノア先輩も見てください! かわいいですよね?」
「うん。よく似合ってる」
「ですよね!」
ぱっと笑ってから、ピピはアークを見上げた。
「今日はちゃんとわたしの活躍、見ててくださいね」
「見てる見てる」
「ほんとですか? また他の人のフォローで忙しいとか言って流しません?」
「信用ないなあ」
「だってアーク先輩、みんなにやさしいから」
無邪気に放たれた言葉に、ノアの指先がわずかに冷える。
たぶん悪意はない。ただの事実として言っているだけだ。だから余計に否定しにくい。
「こんばんは、アークさん、ノアさん」
今度は柔らかな声が重なった。
白と薄金の神官服に身を包んだアバターが、少し控えめな足取りでこちらへ歩いてくる。セレスだった。薄いベールのような装飾が夜の光を受けて揺れ、蜂蜜色の目が穏やかに細められる。
「セレスも来たか」
「はい。少し早めに回復構成を確認しておきたくて」
「助かる。今回はヒーラー大変そうだし」
「でも、アークさんが前に出すぎなければたぶん平気です」
「ほら見ろ」
「なんでノアが勝ち誇るんだよ」
セレスが小さく笑う。
「ふたり、本当に仲がいいですね」
「そう見える?」
「見えますよ。自然で」
その言葉に、ノアは返事を一拍遅らせた。
自然。
その響きは安心するのに、少し寂しい。
自然すぎる関係は、ときどき特別の反対側にある。
「フレアはまだかな」
アークがフレンドリストを確認しながら呟く。ちょうどその直後、広場の一角に赤いエフェクトが走った。転送光の中から現れたアバターが、周囲の視線を一度にさらっていく。
フレアだった。
赤銅色の長髪に、黒と赤を基調にした戦闘装束。細剣を腰に提げ、踵の音まで絵になっている。ログイン演出すら計算されているような存在感に、近くにいたプレイヤーたちが小さくざわめいた。
「遅れてないわよね」
「ぴったり」
「ならいいわ」
フレアはそう言ってアークの前で足を止める。その視線はまっすぐで、ためらいがない。
「今日の前線、崩れたら困るから。ちゃんとついてきて」
「それ俺に言ってる?」
「他に誰がいるの」
ノアは一歩引いた位置から、そのやり取りを見ていた。
絵になる、と思う。
思いたくなくても、思ってしまう。
アークの明るさと、フレアの華やかさ。並んだ時の輪郭がはっきりしていて、どちらも人目を引く。周囲で立ち止まる人が多いのも、そのせいだろう。
「うわ、見て。アークとフレア並んでる」
「やっぱあのふたり強いよね」
「今日の配信切り抜き、絶対そこの戦闘シーン入るでしょ」
通りすがりのプレイヤーたちの声が、雑踏に紛れながら耳に入ってくる。
ノアは顔色ひとつ変えずにイベント掲示板を見ているふりをした。けれど、胸の内側では何かがゆっくり沈んでいくのがわかった。
現実でもそうだ。
朔は目立つ。凛花も目立つ。ふたりが並ぶと、誰もが納得する景色になる。
そこへ自分が入る余地は、たぶん最初から綺麗には用意されていない。
「ノア?」
アークの声が近くで落ちる。
気づくと、彼が少しだけ身を屈めてこちらを見ていた。
「何」
「いや、さっきから静かだなって」
「掲示板見てた」
「嘘。今、聞いてなかっただろ」
「聞いてたよ」
「じゃあ今の説明、言ってみて」
「探索フェーズで位置交換ギミック、後半で視界阻害。支援制限あり」
「……聞いてたわ」
フレアが小さく肩をすくめる。
「ノアってほんと抜け目ないわね」
「そういう役回りだから」
「助かるけど」
言い方は淡々としているのに、その目はちゃんとこちらを見ていた。敵意ではなく、評価として。
凛花――フレアは、やっぱり正面から来る人だ、とノアは思う。認める時も、競う時も、曖昧にしない。少しだけまぶしい。
「じゃ、パーティ仮編成だけ先に組むか」
アークの一言で、五人は広場脇の待機サークルへ移動した。半透明のウィンドウが次々と開き、クラス構成や所持スキル、イベント専用補正が一覧で並んでいく。
アークが前衛主軸。フレアが高火力。セレスがメイン回復。ピピが攪乱と機動補助。ノアが全体支援と情報制御。
悪くない、どころかかなり強い編成だ。
「これなら安定しそう」
「ノアがそう言うなら安心」
アークが何の迷いもなく言う。
ノアは思わずそちらを見る。
「そんなに?」
「そんなに。おまえ、そういう判断ほぼ外さないだろ」
言われた瞬間、胸の奥がほんの少し熱くなった。
信頼されるのは嬉しい。嬉しいはずなのに、その温度はすぐ別の感情と混ざる。
信頼と、好意は違う。
わかっている。何度も言い聞かせてきた。
それでも、期待してしまう自分がいる。
「アークさんって」
セレスが静かに口を開いた。
「ノアさんのこと、本当に頼りにしてるんですね」
「してるよ。めちゃくちゃ」
「へえ」
フレアが意味ありげに笑う。ピピはあまり面白くなさそうに口を尖らせた。
「でも頼りにするのと、ちゃんと見てるのって別ですよね」
「ピピ?」
「だって、強いとか上手いとか、そういうのじゃなくて」
そこでピピはノアをちらっと見て、言葉を止めた。
子どもっぽいくらい素直な顔に、少しだけむくれた色が乗る。けれど、それ以上は言わなかった。
アークは気づいているのかいないのか、困ったように笑うだけだ。
「なんか今日、みんな俺に厳しくない?」
「普段が甘やかされすぎなのよ」
「フレアまで言う?」
「言うわ」
五人の周囲で、イベント開始前のカウントダウン表示が立ち上がる。広場の上空に巨大な数字が浮かび、参加プレイヤーたちのざわめきが一段階大きくなった。
夜風を模した環境エフェクトが、ローブの裾を揺らす。
ノアはそっと空を見上げた。
星のない群青の上に、人工の光だけが無数に瞬いている。綺麗で、少しだけ冷たい夜だと思う。
この世界では、現実より素直になれる人がいる。
現実では届かない距離も、VRなら縮まることがある。
けれど、それは自分だけの特権じゃない。
アークの周りには、こんなふうに自然に集まってくる人がいる。明るく、まっすぐで、やさしくて、綺麗で、かわいくて、それぞれ違う形で彼の隣に立てる人たちが。
その中で、自分はどんな顔をしていればいいのだろう。
ノアとしてなら少しはましだと思っていたのに、いざ並べられてみると、心の奥の臆病さは朝倉澪のまま残っている気がした。
「ノア」
アークが静かに呼ぶ。
「始まるぞ」
その声だけで、意識が引き戻される。
「うん」
「後ろ、任せていい?」
「任せて。そっちはちゃんと前見てて」
「了解」
それだけのやり取りで、不思議と息が整う。
信頼される場所がある。必要とされる役割がある。少なくとも戦いの中では、自分は迷わなくていい。
巨大な転送陣が広場中央に展開し、参加者たちの足元に光が広がった。カウントがゼロへ近づいていく。フレアが剣の柄へ手をかけ、セレスが杖を構え、ピピが弾むように一歩前へ出る。
ノアは魔導書を開いた。
ページの縁を青白い術式がなぞり、指先の動きに合わせて細かな光が浮かび上がる。
その瞬間、アークがふっとこちらへ振り向いた。
「ノア」
「何」
「今日も頼りにしてる」
言うだけ言って、彼は前を向く。
あまりにも自然で、まるで呼吸みたいな言葉だった。
なのにノアの胸の奥では、その一言がやけに深く沈んでいく。
期待したくないのに、してしまう。
嬉しくなりたくないのに、なってしまう。
転送の光が視界を白く塗りつぶしていく中で、ノアはぎゅっと杖を握りしめた。
夜の名前を借りてもなお、好きだという感情だけは、少しも薄くなってくれなかった。




