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星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


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第1章 第1話:近すぎて言えない


 放課後の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。


 六限終了のチャイムが鳴った途端、張りつめていた空気がほどけて、あちこちで椅子を引く音が重なる。窓際の席には西日の薄い金色が差し込み、黒板の端に残った数式をぼんやり照らしていた。誰かの笑い声、机を閉じる音、携帯端末の通知音。帰宅前の教室には、その日一日の終わりにしかない、気の抜けた熱が満ちている。


 朝倉澪は、教科書を鞄へしまう手を止めずに、斜め前の席へそっと視線を向けた。


 神谷朔は、今日も人に囲まれていた。


「神谷くん、今日の小テストの最後の問題って、どう考えたの?」

「最後のやつ? あれ普通に引っかけだろ」

「え、うそ、わたし完全に真面目に解いたんだけど」

「それはそれでえらいけど、先生そこまで優しくないって」


 そう言って笑う朔の周りで、女子が二人、同時に吹き出す。すぐ隣では男子まで混ざって、次の定期試験の話をしていた。


 誰に対しても同じように気さくで、でも適当には見えない。ふざけているようで、相手の話はちゃんと聞いている。そういうところが、ずるいと思う。


 澪は視線を落とした。


 見慣れているはずだった。


 小学校の頃から、朔はずっとこんなふうに人の中心にいた。面倒見がよくて、明るくて、困っている人を放っておけない。だから自然と人が集まる。女の子が彼を好きになるのも、たぶん珍しいことじゃない。


 わかっている。わかっているのに、胸の奥に細い針みたいなものが刺さる。


「澪、また見てる」


 横から声がして、はっとした。


 振り向くと、相田夏希が半分呆れたような顔でこちらを見ていた。短い前髪の隙間から覗く目は、妙に鋭い。


「見てない」

「いや、見てた」

「見てないって」

「うんうん。じゃあ今、神谷のこと考えてなかった?」

「考えてない」


 そう返すと、夏希はふっと笑った。


「その否定の速さがいちばん怪しいんだけど」


 澪は小さく息をつく。夏希にはたぶん、とっくに知られている。いつからなのかはわからない。けれど、中学の頃にはもう完全に見抜かれていた気がする。


「今日もログインするんでしょ」

「するよ。イベント前だし」

「神谷も?」

「……するんじゃないかな」


 言いながら、また視線がそちらへ向いてしまう。


 朔は今度は男子に肩を叩かれ、何か言い返して笑っていた。その横顔に、特別なものなんて何もないはずなのに、澪の目にはどうしても少しだけ眩しく映る。


 好きになったのは、いつからだったのだろう。


 そんなこと、もう思い出せないくらい前から、朔は澪の隣にいた。気づいた時にはもう、好きになっていたのだと思う。朝起きて、学校に行って、帰って、夜にVRへログインする。そのどの時間にも朔がいることが、あまりにも当たり前すぎた。


 だからこそ、怖い。


 失うなんて考えたことがなかったぶん、もし壊れたらどうすればいいのかわからない。


「朝倉」


 不意に名前を呼ばれて、澪の肩が小さく揺れた。


 目の前に立っていたのは、噂の本人だった。


「わっ」

「何その反応。俺そんな驚かれることした?」

「してないけど……急に来るから」


 朔は机の横に軽く手をついて、覗き込むように澪を見る。近い。昔からそうだ。距離感がおかしいと言っても、本人は本気でわかっていない顔をする。


「帰るだろ?」

「うん」

「じゃ、一緒に行こ。今日、母さん帰り遅いって言っててさ、飯どうしようか悩んでる」

「それ、私に相談すること?」

「するだろ。おまえんち、なんか作るかもしれないし」

「作るかもしれないけど、知らないよ。まだ連絡来てないし」

「じゃあ聞いといて」

「なんで」

「最悪、澪んちに助けを求めるため」

「図々しいなあ……」


 口ではそう言いながら、少しだけ笑ってしまう。


 こういう何でもない会話をしている時が、一番危ない。好きだと忘れそうになる。幼馴染のままでいられることに、安心してしまいそうになる。


「お、朝倉さん、神谷くんと帰るんだ?」


 背後から明るい声が飛んできた。


 振り向くと、クラスメイトの女子が二人、にこにことこちらを見ていた。悪意のない、軽い調子の声だった。


「相変わらず仲いいよねー」

「ほんとそれ。もはやセットじゃん」


 朔が笑いながら肩をすくめる。


「昔からだしな」

「その“昔から”が強いんだって」

「そうそう、幼馴染ってやつ?」


 二人は面白がるように笑って、そのまま別の話題へ移っていった。


 残された澪は、胸の奥に小さな苦さが沈むのを感じた。


 幼馴染。


 その言葉は、正しい。正しすぎて、何も言い返せない。


 近くて、自然で、特別に見えない関係。


 誰から見ても安心な位置にいるかわりに、恋愛の入り込む隙間が最初から用意されていないみたいで、時々息が詰まる。


「何、変な顔して」

「してない」

「してるって」

「してないよ」


 むっとして返すと、朔は少し笑って「はいはい」と流した。


 その気軽さに救われることもある。けれど今日は、ほんの少しだけ刺さる。


 二人で教室を出ると、廊下には夕方の光が長く伸びていた。窓の外では運動部のかけ声が遠く響いていて、ガラス越しの空は薄いオレンジに染まり始めている。


 階段へ向かう途中、前から篠宮凛花が歩いてきた。


 視線が自然と集まる子だった。すらりとした立ち姿も、乱れのない制服の着こなしも、意志の強そうな目も、全部がきれいに整っている。いわゆる美人、という言葉がそのまま似合う。


「神谷くん」


 凛花は立ち止まり、まっすぐ朔を見た。


「今日のイベント、参加するんでしょ?」

「するする。フレアも出る?」

「出るわよ。前衛足りないと締まらないし」

「助かる。凛花いると派手になるからな」

「褒めてる?」

「褒めてる褒めてる」


 凛花は小さく笑ってから、澪へも目を向けた。


「朝倉さんも参加するんだよね。ノア」

「うん」

「あなたの支援、かなり好き。無駄がなくてきれいだから」


 思いがけない言葉に、澪は少し目を瞬かせた。


「……ありがとう」

「本音よ」


 言い切る声音がまっすぐで、澪は少しだけたじろぐ。


 凛花はこういう人だ。欲しいものも、思ったことも、躊躇なく口に出せる。少なくとも澪にはそう見える。自分にはないものを、自然に持っている人。


「じゃ、あとで」

「ああ、またあとで」

「朝倉さんも」


 凛花が去っていくと、廊下に一瞬だけ静けさが戻った。


 その背中を見送りながら、朔が何気なく言う。


「篠宮ってすごいよな」

「……そうだね」

「強いし、目立つし、ちゃんと自分の意見言えるし。VRでも映えるし」


 その言葉に、悪意なんてひとつもない。


 ただ事実を並べているだけ。わかっている。わかっているのに、心臓のあたりがじわりと冷たくなる。


「澪?」

「え」

「どうした」

「何でもない」


 とっさにそう答えると、朔は少し眉を寄せた。


「無理すんなよ。疲れてるなら今日のイベント、遅れてもいいし」

「大丈夫。行くよ」

「そっか。ならいいけど」


 また、そうやって優しくする。


 誰にでも優しいくせに、こういう時だけほんの少しだけ声が近い。大丈夫かどうか確かめるみたいに、ちゃんと見てくる。


 そんなふうにされたら、期待してしまいそうになるのに。


 昇降口を出ると、夕方の風が肌に触れた。昼間の熱が少しだけ残っていて、でも日陰にはもう夜の気配が混じっている。校門までの道を並んで歩きながら、朔がスマートグラスを指先で持ち上げた。


「集合、七時半だっけ」

「うん。ギルド広場」

「了解。ノア、今日も来るなら助かるわ」

「そんなに?」

「そんなに。おまえいると事故率減るし」

「それは朔が突っ込みすぎるからでしょ」

「否定はしない」

「しないんだ」

「だって前出るの楽しいし」


 そう言って笑う横顔に、澪もつられて少し笑った。


 楽しい。安心する。昔からずっとそうだった。


 なのに、その安心が今は少しだけ怖い。


 分かれ道に着くと、朔が足を止めた。


「じゃ、また夜な」

「うん」

「寝落ちすんなよ」

「しないって」

「前科あるだろ」

「あれは一回だけ」

「一回あれば十分前科なんだよ」


 軽口を交わして、朔が手を振る。


 澪も振り返して、その背中を見送った。


 見慣れた背中だった。小さい頃から何度も見てきた。走っていく背中も、振り返る背中も、夕焼けの中を歩いていく背中も。


 ずっと隣にいた。


 たぶん、これからも隣にいるのだと、どこかで勝手に思っていた。


 でも、本当にそうなのだろうか。


 教室で笑っていた女子たち。まっすぐ朔を呼び止めた凛花。VRの中で朔に近づく女の子たち。朔は昔から人気があったけれど、最近はそれが前よりもっとはっきり見えるようになっている気がする。


 自分だけが、何も変えられずにいる。


 幼馴染という場所に立ったまま、一歩も動けずにいる。


 澪はスマート端末を取り出して、母からのメッセージを確認した。夕飯は簡単に済ませておいて、という短い文章の下に、忙しそうな絵文字がひとつついている。


 それを見て小さく息をつき、それから空を見上げた。


 薄青の空は、もう少しで群青に変わるところだった。


 夜になればログインする。朝倉澪ではなく、ノアとして。


 現実の自分より少しだけまっすぐで、少しだけ臆病じゃない顔で、朔の前に立てる。


 それでも結局、相手は同じ朔なのに。


 好きだと一度も言えないまま、今日もまた隣に立とうとしている。


 澪はスマート端末を握りしめ、小さく目を伏せた。


 幼馴染でいられることは、きっと幸せだ。


 でも最近、その言葉だけでは足りないと思ってしまう。


 それが何より、苦しかった。

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