第9章 第11話:ちゃんと、付き合っています
星を外側につけた翌日、澪は昨日より少しだけ落ち着いて教室に入った。
もちろん、まったく平気になったわけではない。
鞄の外側では、青い星のチャームが揺れている。
机の横に鞄を掛けるたび、光を受けて小さくきらめく。そのたびに、見られているのではないかと胸が少し鳴った。
でも、昨日とは違う。
昨日、外へ出した。
夏希が見てくれた。
ひなが泣きそうになりながら褒めてくれた。
凛花が目を逸らさずに「似合ってる」と言ってくれた。
由良が「きれいだね」と笑ってくれた。
そして朔の鞄には、銀の月が揺れていた。
怖かった。
でも、壊れなかった。
見られて終わりではなかった。
見られて、それでも立っていられた。
その感覚が、今朝の澪の足元を少しだけ支えていた。
「おはよ、朝倉」
席に着いた瞬間、夏希が後ろから声をかけてくる。
「おはよう」
「今日も星、外側」
「うん」
「継続できたじゃん」
「まだ二日目」
「二日目は大事」
夏希は澪の鞄をちらりと見て、少しだけ笑った。
「似合ってる」
「昨日も言われた」
「何回でも言う」
「照れる」
「慣れな」
「無理」
「まあ、そこは朝倉らしい」
そんなやり取りをしていると、胸の緊張が少しだけほどけていく。
教室の前方では、朔が自分の席に鞄を置いていた。
銀の月のチャームが、外側で小さく揺れている。
目が合う。
朔はほんの少しだけ口元を緩めた。
澪も小さく頷く。
それだけで、昨日の星冠祭の光が胸の奥に戻ってくるようだった。
星を隠さぬ双影。
アステリオで受け取った称号。
まだ完全にその名前の通りになれたわけではない。
でも、そうありたいと願った。
その誓いが、今日も鞄の外側で揺れている。
ホームルームが始まり、授業が進む。
昨日に比べれば、視線は少し落ち着いた気がした。
ただ、完全になくなったわけではない。
星と月のチャームは、やはり目立つ。
お揃いだと気づいている生徒も増えている。
誰かが小声で話しているのが聞こえるたび、澪の胸は少しだけ鳴った。
「やっぱり、神谷と朝倉ってそうなのかな」
「お揃いっぽいよね」
「付き合ってるの?」
「でも、幼馴染だし」
悪意ではない。
好奇心。
少しの驚き。
昨日までにも何度かあった空気。
でも今日は、それを完全には避けられないとわかっていた。
星を外側につけた。
それは、見られることを受け入れる一歩だった。
なら、言葉を向けられる日も来る。
そう思ってはいた。
けれど、その瞬間が本当に来ると、やっぱり心臓は大きく跳ねた。
昼休みのあと、澪が教科書をしまっていると、近くの席の女子が少し迷うように声をかけてきた。
「朝倉さん」
澪は顔を上げる。
「何?」
相手は少しだけ気まずそうに笑った。
悪気はなさそうだった。
ただ、ずっと気になっていたことを聞くか迷っている顔。
「あのさ」
「うん」
「聞いていいかわかんないんだけど」
その前置きで、澪の胸が強く鳴った。
夏希が後ろで、わずかに動きを止めたのがわかる。
朔も前方の席でこちらを見た気配がした。
教室のざわめきが、少しだけ遠くなる。
相手の女子は、澪の鞄の星をちらりと見て、それから朔の鞄の月を見た。
「神谷くんと朝倉さんって」
少しだけ間が空く。
「付き合ってるの?」
言葉が、教室の空気に落ちた。
大きな声ではなかった。
でも、近くにいた何人かには確実に聞こえていた。
周囲の空気が、ほんの少し止まる。
視線が集まるのがわかった。
心臓がうるさい。
指先が少し冷たくなる。
以前なら、固まっていた。
似てるだけ、と弱い言い訳をしていたかもしれない。
もしくは、朔を見るだけで、自分では答えられなかったかもしれない。
澪は一瞬、朔のほうを見た。
朔は立ち上がりかけていた。
答えようとしてくれているのがわかった。
守ってくれる。
一緒に言ってくれる。
昨日も、これまでも、朔はそうしてくれた。
でも。
今回は、自分で言いたかった。
澪は朔を見たまま、ほんの少しだけ首を振った。
大丈夫。
私が言う。
そう伝えるつもりで。
朔は動きを止めた。
少しだけ驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
待ってくれた。
澪は前を向く。
声をかけてきた女子を見る。
喉が少し震える。
でも、逃げない。
「うん」
まず、頷いた。
その一音だけで、胸が痛いほど鳴る。
でも、そこで終わらせなかった。
「ちゃんと、付き合っています」
言えた。
自分の声で。
自分の言葉で。
人前で。
教室が少しざわついた。
「え、やっぱり?」
「そうなんだ」
「おお……」
「幼馴染からってやつ?」
いくつかの声が聞こえる。
驚きと好奇心。
でも、強い悪意ではなかった。
それでも、澪の胸は大きく揺れていた。
言った。
付き合っています、と。
ちゃんと。
頬が熱い。
手のひらに汗がにじむ。
でも、後悔はなかった。
相手の女子は少し目を丸くして、それから笑った。
「そっか」
「うん」
「なんか、ごめん。急に聞いて」
「ううん」
「でも、似合ってる」
その言葉に、澪は息を止めた。
「二人、なんか前から空気近かったし」
「……そう?」
「うん」
「星と月も、いいね」
澪の胸が少しだけ緩む。
「ありがとう」
そう返すと、相手は軽く笑って席へ戻っていった。
教室のざわめきは、まだ完全には戻らない。
でも、空気は思ったよりもやわらかかった。
その時、朔が立ち上がった。
澪の胸がまた鳴る。
朔は澪の席の近くまで来て、周囲の視線を少し受けながら、静かに言った。
「俺も」
短い言葉。
でも、教室の空気がまた少し止まる。
朔は澪を見た。
そして、はっきり続けた。
「俺も、澪と付き合ってる」
澪の胸が熱くなった。
澪、と呼ばれた。
教室で。
皆の前で。
彼氏として。
隣に立つ人として。
朔の声は少しだけ緊張していた。
でも、逃げていなかった。
夏希が後ろから、わざとらしく手を叩くような仕草をした。
「はい、正式回答出ました」
その一言で、教室の空気がふっとほどけた。
「夏希」
澪が小さく呼ぶと、夏希はにやりと笑う。
「いや、変な空気のままにするよりいいでしょ」
「そうだけど」
「付き合ってます。以上。はい、午後の授業準備」
夏希が軽く言うと、何人かが笑った。
その笑いに、澪は救われた。
からかいすぎず、でも重くしすぎない。
夏希らしい整え方だった。
ひなが教室の端からこちらを見ていた。
目が合う。
ひなは少しだけ唇を結んでいた。
でも、すぐに笑った。
口の動きだけで、こう言った。
おめでとうございます。
胸がぎゅっとなった。
澪は小さく頷く。
凛花は窓際の席からこちらを見ていた。
その顔には、やはり少しの痛みがある。
けれど、目は逸らしていない。
澪と目が合うと、凛花は静かに頷いた。
ちゃんと言ったわね。
そう言われた気がした。
由良は穏やかに微笑んでいた。
祝福だけではない、いろいろな感情を含んだ笑み。
それでも、その目は優しかった。
澪はその全部を胸に受け取った。
罪悪感としてではなく。
罰としてではなく。
感謝として。
自分の恋を、自分で選ぶために。
午後の授業は、あまり頭に入らなかった。
付き合っています。
自分が言った言葉が、何度も胸の中で響く。
言えた。
怖かった。
今も少し怖い。
でも、言ってしまったら、思っていたよりも世界は普通に続いていた。
先生はいつも通り授業をしている。
生徒たちはノートを取り、眠そうにしている人もいる。
廊下では誰かが笑っている。
世界は壊れなかった。
澪が朔と付き合っていると認めても、朝倉澪は朝倉澪のまま、教室に座っている。
それが少し不思議で、少し嬉しかった。
放課後、終礼が終わると、教室はいつものようにざわついた。
でも今日は、そのざわめきの中に少しだけ違う視線が混じっている。
付き合っていると認めた直後の放課後。
朔がどうするか、澪がどうするか。
見られている気配がする。
澪は鞄を持つ。
青い星が揺れる。
心臓が鳴る。
でも、もう朝よりは落ち着いていた。
朔が席を立った。
澪のほうへ歩いてくる。
いつもの距離。
でも、今日は教室の空気が少しだけ違う。
朔は澪の机の前で止まった。
「澪」
名前を呼ばれる。
胸が温かくなる。
「帰ろう」
何度も聞いた言葉だった。
でも今日は、付き合っていますと言った後の、最初の「帰ろう」だった。
澪は鞄を持って立ち上がる。
「うん」
頷く。
「帰ろう」
周囲の視線が少しだけ動く。
けれど、昨日ほど怖くなかった。
夏希が後ろから軽く声をかける。
「行ってきな」
「うん」
「正式彼氏と」
「夏希」
「はいはい」
夏希は笑った。
でも、その目は優しかった。
ひなが少し離れたところで手を振る。
「朝倉先輩、神谷先輩、また明日です」
「うん。また明日」
朔も軽く頷く。
凛花は席で鞄を閉めながら、こちらを一度だけ見た。
由良は静かに微笑んでいた。
澪はその視線を、今度は逃げずに受け取った。
教室を出る。
廊下を歩く。
昇降口へ向かう。
隣には朔がいる。
鞄の外側には青い星。
隣の鞄には銀の月。
もう、隠れていない。
昇降口で靴を履き替えたあと、校門へ向かう途中で朔が小さく言った。
「言えたな」
「うん」
「自分で」
「うん」
「朔、答えようとしてくれたよね」
「うん」
「でも、待ってくれた」
「澪が言うって顔してたから」
「そんな顔してた?」
「してた」
「そっか」
澪は少しだけ笑う。
「怖かった」
「うん」
「でも、言いたかった」
「うん」
「朔だけに言わせたくなかった」
「うん」
「私も、ちゃんと付き合ってるって言いたかった」
朔は静かに頷いた。
「嬉しかった」
その一言で、澪の胸が熱くなる。
「ほんと?」
「うん」
「澪が、自分の言葉で言ってくれたのが」
「うん」
「かなり嬉しかった」
顔が熱くなる。
「……そういうの、まだ慣れない」
「俺も、言うの慣れてない」
「でも言う」
「言いたくなった」
「便利」
「便利」
二人で小さく笑う。
校門を出て、住宅街へ入る。
人通りが少し減ったところで、朔が手を差し出した。
「今は?」
いつもの確認。
でも、今日のその手は、いつもより少しだけ特別に見えた。
澪は手を伸ばす。
指が触れる。
自然に絡む。
「うん」
「今は、繋ぎたい」
朔の手に少し力がこもる。
「俺も」
二人は手を繋いで歩き出した。
夕方の住宅街。
遠くから部活帰りの生徒の声が聞こえる。
家々の窓には、少しずつ明かりが灯り始めている。
星と月のチャームが、それぞれの鞄で揺れる。
繋いだ手の間に、あたたかい沈黙がある。
「今日」
澪はぽつりと言った。
「世界、壊れなかった」
朔が少しだけ横を見る。
「壊れると思ってた?」
「少し」
「うん」
「付き合ってるって言ったら、何か大きく変わる気がしてた」
「うん」
「でも、普通に授業があって、放課後になった」
「うん」
「みんな少し驚いたけど」
「うん」
「それでも、終わらなかった」
朔は静かに頷いた。
「たぶん、そういうことなんだろうな」
「何が?」
「隠さないって」
朔は前を向いたまま言う。
「何かを言ったら全部変わるんじゃなくて」
「うん」
「言っても、ちゃんと続いていくって知ること」
その言葉に、澪は胸が静かに震えた。
言っても、続いていく。
ノアだと明かしても。
好きだと言っても。
付き合っていますと言っても。
星を外へ出しても。
怖いことを越えた先に、世界はちゃんと続いていた。
そしてその続きに、朔がいた。
「朔」
「何?」
「私、ちゃんと付き合っていますって言えた」
「うん」
「付き合ってるって、何かまだ不思議」
「うん」
「でも、嬉しい」
「俺も」
「朔が彼氏なの、まだ時々夢みたい」
「俺も、澪が彼女なの、まだ時々現実感ない」
「本当?」
「本当」
「でも」
澪は繋いだ手を見る。
「手があると、現実だなって思う」
朔は少しだけ耳を赤くした。
「それ、かなり来る」
「仕返し」
「最近、本当に強くなったな」
「少しだけ」
「かなり」
二人で笑った。
家の前に着くと、澪は少し名残惜しくなった。
今日一日、大きな一歩を踏み出した。
その最後に、このままもう少しだけ手を繋いでいたかった。
朔も、同じことを思ったのかもしれない。
手を離すまで、ほんの少し間があった。
「今日は」
朔が言う。
「うん」
「本当に、お疲れ」
「朔も」
「俺はあんまり」
「朔も言ってくれた」
「うん」
「俺も、澪と付き合ってるって」
「うん」
「あれ、嬉しかった」
朔の表情が少しやわらぐ。
「なら、よかった」
「うん」
「また明日」
「うん」
「また明日」
手を離す。
星と月が、小さく揺れる。
朔が帰っていく背中を見送り、澪は家へ入った。
自室に戻ると、鞄を机の上に置く。
青い星が外側で揺れている。
昨日よりも、今日のほうが少し自然に見えた。
澪はスマート端末を開いた。
朔からメッセージが届く。
『今日、言ってくれてありがとう』
『すごく嬉しかった』
澪は画面を見つめながら、頬が少し熱くなるのを感じた。
返信を打つ。
『私も、言えてよかった』
『待っててくれてありがとう』
少し考えて、もう一文を足す。
『ちゃんと、朔の彼女ですって言えた気がした』
送信した瞬間、恥ずかしさで端末を伏せそうになった。
でも、既読はすぐについた。
返事が来る。
『俺も、ちゃんと澪の彼氏だって言えた気がした』
胸がいっぱいになる。
澪は端末を胸に抱えた。
今日、自分の言葉で言えた。
ちゃんと、付き合っています。
その言葉は、まだ少し恥ずかしくて、胸が鳴る。
でも、もう怖さだけではない。
澪は鞄の青い星に触れた。
外側で揺れるその星は、昨日より少しだけ自分のものになった気がした。




