第9章 第10話:星を外側につける朝
朝、目が覚めた瞬間から、澪は心臓の音を意識していた。
部屋はまだ少し薄暗い。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、机の上を細く照らしている。その光の中に、小さな青い星が置かれていた。
昨日の夜、外しておいたチャーム。
ずっと鞄の内側にあった星。
朔と初デートで買った、お揃いの片方。
ノアとアークの時間、澪と朔の関係、その全部を小さく閉じ込めたような青い星。
今日、それを外側につける。
決めた。
昨日、アステリオで星冠祭を見て、アークと一緒に称号を受け取った。
星を隠さぬ双影。
あの名前を受け取った時、澪は思った。
もう、隠れるためだけにこの星を持っているわけではない。
怖い。
それは変わらない。
学校で見られるかもしれない。
夏希はすぐ気づくだろう。
ひなも見る。
凛花も、由良も。
クラスの誰かが何か言うかもしれない。
それでも、今日は外へ出したかった。
澪はベッドから起き上がり、机の前に座った。
青い星を指先でつまむ。
小さなチャームなのに、今朝は少し重く感じる。
重いのは、怖さのせいだけではない。
ここまでの時間が、この星に乗っているからだ。
初デートの日。
内側につけた日。
ひなに気づかれた日。
噂になって苦しかった日。
凛花に背中を押された日。
由良とひなに、幸せを罰にしないでと言われた日。
星冠祭で、ノアも澪も自分だと答えた夜。
全部が、この小さな星に繋がっている。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
けれどすぐに、少し違うと思った。
大丈夫ではない。
怖い。
緊張している。
だから、言い直す。
「怖いけど、つける」
その言葉のほうが、今の自分にはしっくりきた。
澪は鞄を手に取った。
いつもは内側のファスナーにつけていた星を、外側の金具へ近づける。
指先が少し震えた。
カチリ、と小さな音がした。
青い星が、鞄の外側で揺れた。
朝の光を受けて、淡くきらめく。
それを見た瞬間、澪の胸が大きく鳴った。
見える。
外から見える場所にある。
たったそれだけのことなのに、息をするのを忘れそうになる。
「……つけた」
小さく呟く。
その声が、自分でも少し震えていた。
でも、外さなかった。
澪は制服に着替え、髪を整えた。
鏡の前に立つ。
制服姿の朝倉澪。
その横に置かれた鞄には、青い星。
ノアとしてではなく。
澪として、外へ持っていく星。
怖い。
でも、少しだけ誇らしい。
スマート端末が震えた。
朔からのメッセージだった。
『月、外につけた』
短い一文。
それだけで、胸が温かくなる。
澪は自分の鞄を見て、返信を打った。
『私も』
『星、外につけた』
送信すると、すぐ既読がついた。
『一緒だな』
その文字を見て、澪は少し笑った。
『うん』
『一緒』
端末を鞄に入れ、玄関へ向かう。
靴を履く時、鞄の外側で星が小さく揺れた。
その音はしない。
でも、澪には確かに聞こえた気がした。
外へ出ると、朝の空気は澄んでいた。
住宅街には、いつもの朝の音がある。
遠くの車の音。
鳥の声。
どこかの家の扉が開く音。
通学路へ向かう生徒たちの足音。
全部いつも通りなのに、今日は少しだけ世界が違って見えた。
角を曲がる前に、澪は一度足を止めた。
この先に朔がいる。
月のチャームを外側につけた朔が。
彼氏として、隣に立ってくれる人が。
澪は深呼吸して、角を曲がった。
朔はいつもの場所に立っていた。
制服姿で、鞄を肩にかけている。
そして、その鞄の外側に、銀の月が揺れていた。
朝の光を受けて、月のチャームが静かに光る。
澪の足が、少し止まる。
朔も澪に気づいた。
すぐに視線が、澪の鞄へ落ちる。
青い星を見た瞬間、朔の表情が少しだけ変わった。
驚きではない。
嬉しさと、少しの緊張。
そして、同じ場所に立てたことへの安堵。
「おはよう」
澪が言った。
「おはよ」
朔も返す。
二人はしばらく、互いの鞄を見ていた。
青い星。
銀の月。
外側で、確かに揺れている。
「つけたね」
澪が言う。
「つけた」
朔が答える。
「澪も」
「うん」
「つけた」
言った瞬間、胸が熱くなった。
朔は少しだけ近づく。
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
「朔も?」
「かなり」
朔は正直に言った。
「でも、嬉しい」
澪は頷いた。
「私も」
「怖いけど、嬉しい」
二人は並んで歩き出した。
朝の通学路。
手は繋がない。
けれど、鞄の外側で星と月が揺れている。
それだけで、今までよりずっと外へ出ている気がした。
すれ違う人が全員こちらを見ているような気がする。
実際には、誰も気にしていないかもしれない。
でも、澪の中では星が大きく揺れている。
「見られてる気がする」
澪が小さく言う。
「俺も」
「でも、たぶんそんなに見られてない」
「たぶん」
「でも、気になる」
「わかる」
二人で小さく笑う。
怖さを笑えるくらいには、前へ進めているのかもしれない。
横断歩道で立ち止まった時、朔が澪の鞄を見た。
「似合ってる」
「星?」
「うん」
「鞄に?」
「澪に」
その一言で、澪の顔が熱くなった。
「朝から」
「言いたくなった」
「便利」
「便利」
いつものやり取りに、少しだけ緊張がほどける。
信号が青になり、二人は歩き出した。
学校が近づくにつれて、澪の胸はまた少し忙しくなる。
校門。
昇降口。
教室。
そこへ行けば、確実に誰かが気づく。
怖い。
でも、外したいとは思わなかった。
校門をくぐる前、朔が小さく言った。
「澪」
「何?」
「今日は、隣にいる」
「うん」
「でも、澪が自分で立つのも待つ」
澪は顔を上げた。
朔はまっすぐ前を見ていた。
「守るだけじゃなくて」
「うん」
「澪が言いたい時は、待つ」
「うん」
「言えない時は、一緒に言う」
胸が温かくなる。
「ありがとう」
「うん」
「私も、朔の隣にいる」
朔の耳が少しだけ赤くなった。
「……うん」
「照れた?」
「少し」
「仕返し」
「今日も?」
「今日も」
二人で小さく笑いながら、校門をくぐった。
教室へ入ると、いつものざわめきが広がっていた。
朝の挨拶。
机を引く音。
宿題の話。
誰かの笑い声。
澪は鞄を持つ手に少し力を入れる。
星が外側にある。
隠れていない。
見える。
席へ向かう途中、最初に気づいたのは、やはり夏希だった。
「朝倉」
声が飛んできた。
澪はゆっくり振り向く。
夏希の視線は、澪の鞄に向いていた。
青い星を見て、目を少し細める。
そして、にやりと笑った。
「やっと見えるところに出したね」
その言葉に、胸が強く鳴った。
でも、澪は逃げなかった。
「うん」
「今日は、外につけてきた」
夏希の表情が少しだけやわらかくなる。
「神谷も?」
「うん」
「月?」
「うん」
「見せつけるじゃん」
「見せつけてるわけじゃ」
「半分くらいは見せてるでしょ」
「……少し」
認めると、夏希は嬉しそうに笑った。
「いいじゃん」
「怖いけど」
「怖いままつけたんでしょ」
「うん」
「じゃあ、かなりいい」
その言葉に、澪は少しだけ泣きそうになる。
「ありがとう」
「はいはい、受け取る」
夏希は軽く手を振った。
そこへ、ひなが駆け寄ってきた。
「朝倉先輩!」
いつもの明るい声。
けれど、澪の鞄を見た瞬間、ひなはぴたりと止まった。
青い星を、じっと見る。
数秒。
ひなは何も言わなかった。
澪の胸が少し痛む。
ひなはゆっくり顔を上げた。
目が少し潤んでいるように見えた。
でも、彼女はちゃんと笑った。
「外につけたんですね」
「うん」
「見えるところに」
「うん」
「ちゃんと、見ました」
その言葉に、胸が熱くなった。
「ひな」
「悔しいです」
ひなは正直に言った。
「ちょっとだけ、きゅってしました」
「うん」
「でも」
ひなは涙をこらえるように笑う。
「すごく似合ってます」
澪は息を詰めた。
「……ありがとう」
「お礼は受け取ります」
ひなはいつものように言った。
でも、声は少し震えていた。
「神谷先輩の月も見てきます」
「え」
「確認です」
「確認?」
「ちゃんと対になってるかどうか」
ひなはそう言って、朔の席のほうへ向かっていった。
数秒後、朔が何か言われて固まっているのが見えた。
夏希が隣で笑っている。
澪も、少しだけ笑えた。
その時、教室の入口近くに凛花がいることに気づいた。
凛花は澪の鞄を見ていた。
青い星。
外側についた小さなチャーム。
目が合う。
澪は少しだけ緊張した。
凛花は、静かに歩いてきた。
その足取りはいつも通りまっすぐだった。
「朝倉さん」
「うん」
「つけたのね」
「うん」
「外に」
「うん」
短い確認。
澪は鞄を少しだけ持ち直した。
「怖かった?」
凛花が聞く。
「怖かった」
「今も?」
「今も」
「でも、つけた」
「うん」
凛花は数秒、青い星を見つめた。
その表情には、少しの痛みがあった。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「似合ってる」
静かな一言だった。
胸が、ぎゅっと熱くなる。
「ありがとう」
「受け取って」
「うん」
「ちゃんと、見たから」
その言葉に、澪は小さく頷いた。
「うん」
「見てくれて、ありがとう」
凛花は軽く頷き、席へ戻っていった。
その背中は、やはりまっすぐだった。
由良は少し遅れて教室へ入ってきた。
彼女もすぐに気づいた。
澪の鞄の星を見て、朔の鞄の月を見て、それから澪へ穏やかに微笑む。
「朝倉さん」
「うん」
「出したんだね」
「うん」
「外に」
「うん」
「怖かった?」
「怖かった」
「でも、少し嬉しい?」
澪は少しだけ驚いた。
それから、素直に頷く。
「うん」
「嬉しい」
由良はやさしく笑った。
「なら、よかった」
「うん」
「幸せを、ちゃんと持ててる顔してる」
その言葉に、目の奥が熱くなる。
「白瀬さん」
「うん」
「ありがとう」
「受け取るね」
由良はそう言って、澪の星をもう一度見た。
「きれいだね」
「うん」
「私も、そう思う」
その言葉を、自分の口で言えた。
澪はそのことが、少し嬉しかった。
朝の教室は、少しずつ澪と朔のチャームに気づき始めていた。
「あれ、朝倉のやつ何?」
「神谷のも似てない?」
「星と月?」
「お揃い?」
小さな声が聞こえる。
視線も感じる。
胸はやっぱりざわつく。
でも、昨日までとは違っていた。
聞こえる。
見られている。
怖い。
でも、隠したいとは思わなかった。
朔が席からこちらを見た。
目が合う。
彼の鞄の外側には、銀の月が揺れている。
朔は、ほんの少しだけ頷いた。
大丈夫。
隣にいる。
そう言われた気がした。
澪も、小さく頷き返した。
ホームルームが始まり、授業が進んでいく。
その間も、星のチャームが視界の端で小さく揺れるたび、澪の胸は少しずつ落ち着いていった。
外に出したからといって、世界が壊れるわけではなかった。
もちろん、少しざわつく。
気づかれる。
見られる。
でも、それだけで全部が終わるわけではない。
凛花が言った通りだった。
見られて終わりじゃない。
見られて、それでも立つところから始まることもある。
昼休み、朔と廊下で少しだけ会った。
人通りがある場所だったから、手は繋がなかった。
でも、二人は自然に並んだ。
朔の鞄の月。
澪の鞄の星。
外側で、同じ高さに揺れている。
「どう?」
朔が聞く。
「まだ怖い」
「うん」
「でも、外さなくてよかった」
「俺も」
「朔も?」
「うん」
「月、似合ってる」
澪が言うと、朔が少しだけ目を逸らした。
「それ、言われると照れる」
「私も言われた」
「誰に?」
「朔に。朝」
「ああ」
「だから仕返し」
「仕返し多いな」
「最近、覚えた」
「誰のせいだろうな」
「朔のせい」
「そうか」
二人で小さく笑う。
その笑いが、廊下の空気に自然に溶けた。
放課後が近づく頃には、教室の中の視線にも少しだけ慣れていた。
完全に平気ではない。
でも、朝より呼吸はしやすい。
終礼が終わり、周囲が帰り支度を始める。
澪も鞄を持った。
青い星が揺れる。
その時、近くの女子がちらりとこちらを見た。
「朝倉さん、それ可愛いね」
思いがけない声だった。
澪は少しだけ固まる。
「……ありがとう」
「神谷くんのと対?」
心臓が跳ねる。
教室の空気が、ほんの少しだけこちらへ向いた気がした。
澪はすぐには答えられなかった。
でも、逃げるように否定もしなかった。
「……うん」
小さく頷く。
「対になってる」
言えた。
短い言葉。
でも、自分で言えた。
相手の女子は、軽く笑った。
「いいね」
「似合ってる」
それだけ言って、自分の席へ戻っていく。
大きなことは何も起きなかった。
からかわれることもなかった。
ただ、可愛いと言われた。
似合ってると言われた。
澪はその場で、少しだけ息を吐いた。
隣の席から夏希が小さく言う。
「言えたじゃん」
「……うん」
「対になってるって」
「うん」
「よくできました」
「子ども扱い」
「今日は許して」
「……少しだけ」
夏希が笑う。
少し離れた場所で、朔がこちらを見ていた。
たぶん、今のやり取りを聞いていた。
目が合うと、朔は少しだけ嬉しそうに笑った。
澪の胸が温かくなる。
怖いままでも、言えることがある。
外に出せるものがある。
見られて、それでも立っていられる瞬間がある。
放課後、朔が澪の席へやってきた。
「帰ろう」
いつもの言葉。
でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
「うん」
澪は頷く。
「帰ろう」
教室を出る時、星と月がそれぞれの鞄で揺れた。
廊下を歩く。
昇降口で靴を履き替える。
校門へ向かう。
周囲には生徒がいる。
視線を感じる瞬間もある。
でも、澪は下を向かなかった。
校門を出て、住宅街へ入る。
人通りが少し減ったところで、朔が手を差し出した。
「今は?」
いつもの確認。
澪はその手を見て、少しだけ笑った。
「うん」
手を取る。
指が自然に絡む。
鞄の外側で、星が揺れる。
隣で、月も揺れている。
「今日は」
朔が言う。
「頑張ったな」
「うん」
「かなり」
「うん」
「朔も」
「俺も?」
「月、外につけた」
「ああ」
「一緒に出してくれた」
「約束したから」
「うん」
「ありがとう」
朔は少しだけ目を伏せた。
「俺も、ありがとう」
「何が?」
「澪が星を外に出してくれたこと」
「うん」
「一緒に出せたこと」
「うん」
「嬉しかった」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
「私も」
「うん」
「怖かったけど、嬉しかった」
夕方の光が、二人の足元を長く伸ばしていた。
昨日まで内側にあった星。
今日、外へ出た星。
それはまだ小さく揺れているだけだ。
でも、澪にとっては大きな一歩だった。
「朔」
「何?」
「星、外につけてよかった」
「うん」
「まだ怖いけど」
「うん」
「外につけたこと、後悔してない」
朔はやわらかく笑った。
「なら、よかった」
「うん」
「月も似合ってるよ」
「また?」
「何回でも」
「仕返し」
「そう」
二人で笑う。
家の前に着く頃には、空は薄い夕方色になっていた。
手を離す前に、澪は鞄の星を見た。
外側で揺れている青い光。
もう、内側だけのものではない。
でも、外へ出したからといって、軽くなったわけでもない。
むしろ、大事さは増した気がする。
「また明日」
朔が言う。
「うん」
「また明日」
朔が少し歩き出してから、振り返った。
「澪」
「何?」
「明日も、つけてくる?」
澪は星に触れる。
答えは、迷わなかった。
「うん」
「つけてくる」
朔は嬉しそうに頷いた。
「俺も」
「うん」
家に入り、自室へ戻ると、澪は鞄を机の上に置いた。
外側の青い星が、部屋の光を受けて揺れている。
朝は、あんなに怖かった。
今も、怖さが消えたわけではない。
でも、それ以上に、今日は外に出せたことが嬉しかった。
澪はスマート端末を開いた。
朔からメッセージが届いている。
『今日、星が見えてて嬉しかった』
澪は少し笑って、返信を打つ。
『私も』
『月が見えてて嬉しかった』
送信してから、青い星にそっと触れた。
もう、隠すためだけの星ではない。
誰かに見せるためだけの星でもない。
自分が大事にしてきた時間を、自分の意思で外へ出した証。
澪は星を見つめながら、静かに息を吐いた。
外の光に触れた青い星は、思っていたよりずっと綺麗だった。




