第9章 第12話:君の隣で、もう隠れない
放課後の教室には、いつものざわめきが満ちていた。
椅子を引く音。
鞄を閉める音。
部活へ急ぐ声。
寄り道の相談。
窓の外から聞こえる、校庭の掛け声。
何でもない一日の終わり。
けれど澪にとって、その何でもなさが少しだけ特別だった。
昨日、澪はクラスメイトに聞かれた。
神谷くんと朝倉さんって、付き合ってるの?
そして、自分の言葉で答えた。
ちゃんと、付き合っています。
その言葉を言った瞬間、世界が大きく変わるような気がしていた。
でも実際には、授業はいつも通り続き、昼休みが来て、放課後になった。
教室は今日も同じようにざわついている。
世界は壊れなかった。
ただ、少しだけ見えるものが変わった。
澪の鞄の外側には、青い星のチャームが揺れている。
朔の鞄の外側には、銀の月が揺れている。
もう内側には隠していない。
でも、見せびらかしているわけでもない。
大事なものを、自分の意思で外へ出している。
その感覚が、今日の澪の胸を静かに支えていた。
「澪」
名前を呼ばれて顔を上げる。
朔が机の前に立っていた。
鞄を肩にかけ、その外側で月のチャームが小さく光っている。
昨日と同じ。
でも、昨日より少し自然に見える。
「帰ろう」
朔が言った。
澪は鞄を持って立ち上がる。
星のチャームが揺れる。
「うん」
「帰ろう」
教室の中で、何人かがちらりとこちらを見た。
でも、それだけだった。
昨日のような大きな緊張はない。
夏希が後ろから軽く手を振る。
「行ってきな」
「うん」
「また明日」
「また明日」
澪が返すと、夏希は少しだけ目を細めた。
「いい顔してる」
「……そう?」
「うん」
「まだ緊張してるけど」
「それも込みで」
夏希は笑った。
「行ってらっしゃい」
ひなは教室の端で、澪と朔を見ていた。
目が合うと、少しだけ頬を膨らませる。
「朝倉先輩、神谷先輩」
「うん?」
「星と月、今日も確認しました」
「確認?」
「はい」
ひなは少しだけ笑った。
「ちゃんと似合ってます」
その声は、昨日よりも少しだけ自然だった。
澪の胸が温かくなる。
「ありがとう」
「お礼は受け取ります」
ひなはいつものように答えた。
でも、その目には少し涙の名残みたいなやわらかさがあった。
凛花は窓際で鞄を持っていた。
澪と視線が合う。
凛花は何も言わなかった。
ただ、まっすぐに頷いた。
ちゃんと立っている。
そう言われた気がした。
由良はその少し後ろで、穏やかに微笑んでいる。
口元だけが動いた。
よかったね。
声にはならなかったけれど、澪には確かに届いた。
胸の奥がいっぱいになる。
でも、苦しくはなかった。
凛花の悔しさ。
由良のやさしさ。
ひなの涙。
夏希の支え。
その全部を、罰ではなく、感謝として抱く。
そう決めたから。
澪は小さく頭を下げ、朔と並んで教室を出た。
廊下には放課後の光が差していた。
窓から入る夕方の陽射しが、床を長く照らしている。二人の影が並んで伸びる。
少し前なら、その影が近いだけで胸が騒いだ。
今も騒ぐ。
けれど、その騒がしさは嫌ではなかった。
昇降口で靴を履き替え、校門へ向かう。
校庭からは部活の声。
校舎の窓には、夕日が反射している。
制服の生徒たちが何組も前を歩いていた。
その中を、澪と朔は並んで歩く。
手はまだ繋がない。
学校の中では、まだ少し照れくさい。
でも、隣を歩くことはもう隠さない。
校門を出る時、澪は一度だけ振り返った。
何度も通った校舎。
泣きそうになった廊下。
正体を明かす前に怖くて足が止まった場所。
凛花と向き合った階段。
由良と話した花壇。
ひなに背中を押された教室。
全部、ここにある。
「澪?」
朔が呼ぶ。
「ううん」
澪は首を振る。
「何か、いろいろ思い出してた」
「そっか」
「うん」
「嫌なこと?」
「痛かったこともある」
「うん」
「でも、嫌なだけじゃない」
澪は校舎をもう一度見た。
「ここで、たくさん怖かった」
「うん」
「でも、ここで言えたこともたくさんある」
「うん」
「好きって言えた」
「うん」
「付き合っていますって言えた」
「うん」
「星を外に出せた」
「うん」
「だから」
澪は小さく笑った。
「少しだけ、ありがとうって思った」
朔は静かに頷いた。
「俺も」
「朔も?」
「うん」
「学校に?」
「学校にも」
朔は少しだけ照れたように目を逸らす。
「澪が、ここで言ってくれたことに」
胸が温かくなる。
「……そういうこと言う」
「言いたくなった」
「便利」
「便利」
二人で笑う。
校門を出て、住宅街へ入る。
人通りが少しずつ減っていく。
夕方の風が制服の袖を揺らした。
朔がそっと手を差し出す。
「今は?」
何度も重ねてきた確認。
でも、今日のそれは、少しだけいつもよりやわらかかった。
澪はその手を見る。
それから、星のチャームに触れた。
外側で揺れる青い星。
隣には、銀の月。
澪は自分から手を伸ばした。
「うん」
「繋ぎたい」
指が触れる。
自然に絡む。
朔の手は、あたたかかった。
その温度を感じた瞬間、澪は深く息を吐いた。
「落ち着く」
思わず言う。
朔が少しだけ横を見る。
「手?」
「うん」
「俺も」
「本当?」
「本当」
朔は繋いだ手を少しだけ握り返した。
何度も繋いだ手。
でも、最初とは違う。
初めて繋いだ時は、胸がいっぱいで、ただ熱かった。
今も熱い。
でも、その中に安心がある。
好きだから緊張する。
好きだから照れる。
でも、好きだから落ち着く。
そういう感覚を、澪は少しずつ知ってきた。
「朔」
「何?」
「私、もう隠れるためにはノアにならない」
その言葉は、ふいに出た。
でも、ずっと胸の中にあった言葉だった。
朔は黙って聞いている。
「前は」
澪はゆっくり続ける。
「澪では言えないことを、ノアなら言えた」
「うん」
「澪では近づけない距離に、ノアならいられた」
「うん」
「だから、ノアに隠れてた」
「うん」
「でも、もうそういうふうには使いたくない」
言葉にすると、胸の奥が少し震える。
「ノアを、逃げ場所だけにしたくない」
「うん」
「ノアでいる私も、本当に私だったから」
「うん」
「隠れるためじゃなくて、ちゃんと私としてノアでいたい」
朔の手が、やさしく握り返してくる。
「うん」
彼は言った。
「でも、ノアでいる澪も好きだよ」
胸が強く鳴った。
その言葉は、星の部屋で聞いた声と同じだった。
君は、どちらでも君だった。
ノアでも。
澪でも。
朔は、どちらも見てくれた。
どちらも受け止めてくれた。
「うん」
澪は頷く。
「私も、ノアでいる私を好きでいたい」
言えた。
その瞬間、胸の奥で青い星が静かに光った気がした。
ノアを許すだけではなく、好きでいたい。
そう思えたことが、自分でも少し信じられなかった。
朔はやわらかく笑う。
「じゃあ、隣で見てる」
その言葉に、澪は首を振った。
「ううん」
「え?」
「隣で、一緒に歩いて」
朔の目が少しだけ揺れた。
澪は繋いだ手に少し力を込める。
「見てるだけじゃなくて」
「うん」
「一緒に」
「うん」
「現実でも、アステリオでも」
「うん」
「朔としても、アークとしても」
「うん」
「私の隣で、一緒に歩いて」
朔はしばらく何も言わなかった。
夕方の道に、二人の足音だけが小さく響く。
やがて、朔は静かに頷いた。
「歩く」
「うん」
「隣で」
「うん」
「一緒に」
「うん」
「澪としても、ノアとしても」
「うん」
「俺も、朔として、アークとして」
「うん」
「一緒に歩く」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
これが、欲しかった答えだったのかもしれない。
守られるだけではなく。
見守られるだけでもなく。
一緒に歩く。
それが、恋人になるということなのだと、澪は今なら少しわかる気がした。
帰り道は、ゆっくりだった。
いつもの道なのに、少しだけ違って見える。
曲がり角。
横断歩道。
並木道。
幼い頃から何度も一緒に歩いた道。
そこに、今は彼氏と彼女としての距離が加わっている。
「覚えてる?」
澪がふと聞いた。
「何を?」
「この道、昔よく走って帰ってた」
「ああ」
「朔が先に走って、私が怒って追いかけるやつ」
「澪、負けず嫌いだったから」
「朔がわざと挑発するから」
「したかも」
「した」
澪は少し笑う。
「その頃は」
朔が言う。
「こうなるとは思ってなかった」
「私も」
「ずっと一緒にいるのは普通だと思ってた」
「うん」
「普通すぎて、大事だって気づくのが遅かった」
「……うん」
澪は繋いだ手を見る。
「私は、気づいてたけど言えなかった」
「うん」
「でも、今言えてる」
「うん」
「遅かったかな」
「遅くはない」
朔はすぐに言った。
「本当?」
「うん」
「遠回りはしたけど」
「うん」
「遅すぎたとは思わない」
「……」
「今、一緒に歩いてるから」
その言葉に、澪は胸が熱くなった。
遠回りした。
隠れた。
傷つけた。
泣いた。
怖かった。
でも、今ここにいる。
手を繋いで。
星と月を外側に揺らして。
同じ道を歩いている。
それなら、きっと遅すぎたわけではない。
「朔」
「何?」
「ありがとう」
「何回目?」
「何回でも」
「じゃあ、俺も」
「何を?」
「ありがとう」
朔は少しだけ照れたように言う。
「好きって言ってくれて」
「うん」
「ノアだって明かしてくれて」
「うん」
「逃げそうになっても戻ってきてくれて」
「うん」
「今、隣にいてくれて」
澪は何も返せなくなる。
言葉の一つひとつが、胸に落ちていく。
「私も」
ようやく声を出す。
「朔が知ろうとしてくれて、嬉しかった」
「うん」
「怒っても、離れなかった」
「うん」
「怖いって言ってくれた」
「うん」
「隣に立ってくれた」
「うん」
「待ってくれた」
「うん」
「でも、必要な時は止めてくれた」
「うん」
「全部、ありがとう」
朔は小さく息を吐いた。
「受け取る」
「うん」
「私も、受け取る」
二人で笑った。
家の前に着くと、夕方の空は薄紫に変わっていた。
一番星が、小さく光り始めている。
澪は空を見上げた。
星冠祭の星とは違う、現実の空に浮かぶ星。
でも、今の澪にはどちらも繋がって見えた。
アステリオの星。
鞄の青い星。
現実の空の星。
その全部が、今の自分の中で同じ場所にある。
「今日」
澪は言った。
「ログインする?」
「少しだけ」
「私も」
「星冠祭、もう一回見る?」
「うん」
「ノアとして」
「うん」
「アークと」
朔は頷いた。
「じゃあ、あとで」
「うん」
「アステリオで」
「うん」
手を離す。
少し寂しい。
でも、また会えることがわかっている。
現実でも、アステリオでも。
「またあとで」
朔が言う。
「うん」
「またあとで」
澪は家に入った。
自室へ戻り、鞄を机に置く。
青い星が外側で揺れる。
窓の外は、少しずつ夜になっていた。
澪は制服を着替え、少しだけ休んでから、フルダイブ装置の前に座った。
目を閉じる。
現実の部屋が遠のき、星の光が開く。
次に目を開けた時、ノアはアステリオの中央広場に立っていた。
星冠祭は、まだ続いていた。
空には大きな星冠。
噴水には星屑の光。
広場にはプレイヤーたちの笑い声が満ちている。
その中に、アークがいた。
『ノア』
呼ばれる。
その声に、胸があたたかくなる。
「アーク」
二人は自然に歩み寄った。
ノアの視界の端には、称号表示がある。
《星を隠さぬ双影》
まだ少し照れくさい。
でも、もう目を逸らさなかった。
広場の端へ並んで歩く。
現実の帰り道とは違う。
でも、隣にいる感覚は同じだった。
『今日、どうだった?』
アークが聞く。
「現実?」
『うん』
「言えた」
『ちゃんと付き合っていますって?』
「うん」
「昨日だけど、今日もその続きだった」
『そっか』
「星も、外側のまま」
『月も』
「うん」
「少しずつ、慣れてきた」
『俺も』
「でもまだ照れる」
『それは、たぶんずっと少しある』
「ずっと?」
『あると思う』
アークは少しだけ笑った。
『澪の彼氏って言うの、まだ照れる』
「……私も、朔の彼女って言うの、まだ照れる」
『じゃあ、お互い様だな』
「うん」
「お互い様」
中央広場の噴水前で、二人は立ち止まった。
星冠祭の光が、二人の足元に広がる。
昨日、ここで称号を受け取った。
誓いを交わした。
ノアは空を見上げる。
「アーク」
『何』
「私、ノアでいられてよかった」
言った瞬間、胸が少し震えた。
でも、もう取り消したくなかった。
「ずっと、ノアを責めてた」
『うん』
「でも今は」
ノアは胸に手を当てる。
「ノアでアークに会えてよかったって思う」
アークは静かにこちらを見る。
「澪として朔を好きになったことも」
『うん』
「ノアとしてアークの隣にいたことも」
『うん』
「どっちも、今に繋がってる」
『うん』
「だから」
ノアは少しだけ笑った。
「ノアでいられてよかった」
アークの表情が、ゆっくりやわらいだ。
『俺も』
「うん」
『アークとして、ノアに会えてよかった』
「うん」
『朔として、澪の隣にいられてよかった』
「うん」
『どっちも、今に繋がってる』
「うん」
「同じだね」
『同じだな』
二人はしばらく、星冠祭の光を見ていた。
セレスたちの姿は今日はなかった。
たぶん、それぞれの時間を過ごしているのだろう。
でも、彼女たちの言葉も、笑顔も、確かに胸に残っている。
ノアはそっと手を差し出した。
アークは迷わず取ってくれる。
アステリオの中で繋ぐ手。
現実とは違う感覚。
けれど、今はどちらも同じくらい本物だった。
「もう、隠れない」
ノアは静かに言った。
『うん』
「でも、隠れそうになることはあるかもしれない」
『あると思う』
「そういう時は?」
『一緒に戻る』
「うん」
「私も、アークが怖くなったら一緒に戻る」
『うん』
「逃げるための嘘はつかない」
『うん』
「怖いことは、怖いって言う」
『うん』
「まだ話せないことは、まだ話せないって言う」
『うん』
「でも、隣に立つ」
『うん』
『一緒に』
ノアは頷いた。
それが、自分たちの答えだった。
完璧な恋ではない。
怖さも、迷いも、照れも、きっとこれからもある。
でも、そのたびに言葉にして、手を伸ばして、一緒に戻る。
それなら、歩いていける。
ログアウト前、アークが言った。
『また明日』
「うん」
「現実で」
『うん』
『いつもの場所で』
「うん」
「星、つけていく」
『月も』
「うん」
ノアは笑った。
「また明日」
『また明日』
光が閉じる。
現実へ戻ると、部屋は静かだった。
窓の外には夜の空。
机の上には鞄。
外側で、青い星が小さく揺れている。
澪はその星に触れた。
もう内側へ戻したいとは思わなかった。
怖さが消えたわけではない。
でも、外にあるこの星が、今の自分にとって自然に見えた。
翌朝。
澪はいつもより少し早く家を出た。
空はよく晴れていた。
朝の光が住宅街の屋根を照らしている。通学路には、いつもの音が流れていた。
遠くの車。
鳥の声。
自転車のベル。
誰かの玄関が閉まる音。
鞄の外側で、青い星が揺れる。
曲がり角を曲がると、朔がいた。
いつもの電柱のそば。
制服姿。
鞄の外側には、銀の月。
朔が顔を上げる。
「おはよ」
「おはよう」
何度も交わしてきた挨拶。
でも、今日のそれは少しだけ新しい。
二人は並んで歩き出した。
朝の通学路。
星と月が揺れる。
手は、まだ繋いでいない。
でも、少し歩いたところで、澪は自分から手を伸ばした。
朔が驚いたようにこちらを見る。
「澪?」
「……今なら」
「うん」
「繋ぎたい」
朔の表情がやわらかくなる。
「うん」
手が繋がる。
朝の光の中で、青い星と銀の月が同じ歩幅で揺れた。
通学路には、他の生徒もいる。
誰かに見られるかもしれない。
たぶん、見られている。
心臓は少し鳴る。
でも、澪は手を離さなかった。
「朔」
「何?」
「私、もう大丈夫って言い切れるわけじゃない」
「うん」
「これからも怖くなると思う」
「うん」
「でも」
澪は繋いだ手に力を込める。
「隣で、一緒に歩けるなら」
「うん」
「大丈夫にしていけると思う」
朔は静かに頷いた。
「俺も」
「うん」
「怖くても、一緒に歩けるなら」
「うん」
「大丈夫にしていける」
同じ言葉を、二人で確かめる。
澪は前を向いた。
学校へ続く道が、朝の光の中に伸びている。
幼馴染として何度も歩いた道。
ノアとして遠回りした先に、ようやく戻ってきた道。
そしてこれから、恋人として歩いていく道。
青い星が揺れる。
銀の月が揺れる。
繋いだ手があたたかい。
澪は小さく笑った。
もう、隠れない。
その言葉は、強がりではなかった。
完璧な宣言でもなかった。
怖くなっても、迷っても、また戻ってくるための約束だった。
隣にいる人と一緒に。
朝の光の中、澪と朔は同じ歩幅で歩いていく。
星と月を外側に揺らしながら。
手を繋いだまま、これからも続いていく道へ。




