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星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


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第9章 第7話:名前を問う星の部屋


 星の記録は、静かに流れ続けていた。


 ノアとアークだけが入れる、小さな円形舞台。

 外側は星の幕に包まれていて、中央広場のざわめきは遠い波のようにしか届かない。

 足元には淡い光が満ち、二人の周囲を、過去の記録がゆっくり巡っている。


 最初に映ったのは、まだ正体を明かす前のノアだった。


 夜のフィールドで、アークの背中を追っている。

 距離は近い。

 連携も悪くない。

 ノアの術式はアークの動きに合わせて正確に置かれ、アークの剣はノアの支援を信じて迷わず前へ出ている。


 けれど、今のノアにはわかる。


 あの頃の自分は、ずっと怖かった。


 アークの隣にいたい。

 でも、澪としては隣に立てない。

 ノアなら言えることが、澪には言えない。

 近づけば近づくほど、名前の奥を見られるのが怖くなる。


 映像の中のノアは、アークに向かって短く指示を出していた。

 声は落ち着いている。

 動きも迷っていない。


 けれど、その奥にあった苦しさを、今のノアは知っている。


 胸が痛い。


 でも、目を逸らさなかった。


 隣で、アークの手がノアの手を握っている。

 強すぎず、でも確かにそこにある力。


『大丈夫?』


 個別回線ではなく、すぐ隣から聞こえる声だった。


 ノアは小さく頷く。


「大丈夫」

 それから、すぐに言い直す。

「痛いけど、大丈夫」


 アークは静かに頷いた。


『俺も』

「うん」

『痛いけど、見られる』

「うん」


 二人は、そのまま記録を見続けた。


 次の映像は、星骸の渡り廊だった。


 白い回廊。

 欄干の向こうに流れる星霧。

 月明かりの下、アークがノアへ言った場面。


『知りたいのは、名前じゃなくて、その奥だ』


 記録の中の声が、星の空間に響いた。


 ノアの胸がぎゅっと縮む。


 あの時は、息ができなくなるほど怖かった。

 アークの言葉が優しいほど、逃げ場を失ったように感じた。

 名前ではなく、その奥。

 そこには朝倉澪がいて、ずっと隠していた自分がいた。


 映像の中のノアは、少し俯いている。

 返事をしようとして、できずにいる。

 アークはその沈黙を急かさず、ただ見ている。


 あの瞬間の自分を、今見るのは苦しい。


 でも、同時に思う。


 アークは、確かに見ようとしてくれていた。

 ノアの向こう側にいる誰かを、暴くためではなく、知るために。


「……怖かった」

 ノアは呟いた。


『うん』

 アークは答える。

『俺、かなり踏み込んだ』

「うん」

『悪かった』

「ううん」

 ノアは首を振る。

「怖かったけど、嬉しくもあった」

『……うん』

「知りたいって言われるのが、怖かった」

『うん』

「でも、誰にも見せられなかった場所を見ようとしてくれたのは、嬉しかった」

 言葉にすると、あの時の痛みが少しだけ形を変えた。


 ただ苦しかった記録ではない。

 怖さと、嬉しさが混ざっていた。

 それを、今ならわかる。


 映像は、また別の場面へ移る。


 水鏡庭。

 星環試練。

 五人での戦闘。

 ノアとアークが互いの動きを読み合い、言葉少なに敵を倒していく。


 その記録は、美しかった。

 悔しいほどに。


 ノアが隠していた時間でもあった。

 でも、連携そのものは本物だった。

 アークを支えたいと思った気持ちも、本物だった。

 アークの隣で戦いたいと思ったことも、本物だった。


 嘘だけではなかった。


 その事実が、胸に痛くて、あたたかい。


「私」

 ノアは言う。

「ずっと、あの頃のノアを責めてた」

『うん』

「嘘をついてたって」

『うん』

「隠れてたって」

『うん』

「でも、全部が嘘だったわけじゃないんだね」

 アークの手に、少しだけ力がこもる。


『うん』

『全部が嘘だったわけじゃない』

 その声は、とても静かだった。


『俺が好きになった時間も、そこにある』

 ノアは息を止めた。


 星の光が、二人の周りをゆっくり回る。

 記録の中のノアとアークが、敵の攻撃を同時にかわし、同じタイミングで反撃へ移る。


 あの頃の自分たちは、まだ何も言えていなかった。

 でも、同じ方向を見ていた瞬間は確かにあった。


 その記録が、今、目の前にある。


「アーク」

『うん』

「見られてよかった」

『うん』

「痛いけど」

『うん』

「でも、見られてよかった」

『俺も』

 アークは短く答えた。


 映像がさらに進む。


 正体を明かした夜。

 澪として、ノアとして、アークと向き合った記録。

 告白した記録。

 恋人になってから、ノアとアークとしてもう一度始めようと話した記録。

 星環試練の最奥で、声だけを頼りに信じ合った記録。


 怖い記録。

 嬉しい記録。

 痛い記録。

 あたたかい記録。


 全部が、星のように連なっていく。


 やがて、光の流れがゆっくり収束した。


《ペア星冠記録:生成完了》

《対象:ノア/アーク》

《特別同期記録を確認》

《名称照合を開始します》


「名称照合……?」


 ノアが呟いた瞬間、足元の光が強くなった。


 アークがノアの手を握り直す。


『ノア?』

「何か、始まる」


 次の瞬間、星の幕が大きく揺れた。


 視界が白く染まる。

 足元の感覚が遠のく。

 繋いでいたアークの手が、星の光の中でほどけていく。


「アーク!」


『ノア!』


 叫ぶ声が重なる。


 けれど、その声もすぐに遠ざかった。


 ノアは、星の光に飲み込まれた。


 次に目を開けた時、ノアは一人だった。


 そこは、見たことのない部屋だった。


 壁も床も天井もない。

 ただ、星だけがある。

 上下の感覚が曖昧で、足元には透明な水面のようなものが広がっていた。踏むたびに波紋が広がり、その波紋の中に小さな映像が浮かんでは消えていく。


 部屋というより、星の海の中心に立っているようだった。


「アーク?」


 呼ぶ。


 返事はない。


「アーク!」


 もう一度呼ぶ。

 声は星の中へ吸い込まれていく。


 個別回線も繋がらない。

 パーティウィンドウも開かない。

 ステータス表示は薄く霞み、システムメニューの一部しか反応しない。


 イベント演出だ。

 そう頭ではわかる。


 でも、一人であることが急に胸を締めつけた。


 さっきまで繋いでいた手がない。

 隣にアークがいない。


 ノアは自分の手を見た。

 アバターの手。

 澪の手ではない。


 その時、空間に声が響いた。


《あなたは、誰ですか》


 機械音ではなかった。

 男でも女でもない。

 星そのものが言葉になったような声。


 ノアは息を止めた。


 目の前に、光の文字が浮かぶ。


《あなたは、ノアですか》

《それとも、澪ですか》


 胸が大きく鳴った。


 ノアは一歩後ずさる。


「……何」


 足元の水面に、映像が浮かぶ。


 制服姿の澪。

 教室の端から、朔を見ている。

 言葉をかけたいのに、かけられない。

 幼馴染として隣にいたのに、本当の気持ちはずっと言えない。


 次の波紋には、ノアが映る。

 アステリオでアークの隣に立つノア。

 堂々と術式を展開し、短い言葉で指示を出し、アークと同じ敵を見る。


 澪とノア。


 同じ自分なのに、まるで別々の人間みたいに映っている。


《あなたは、どちらですか》


 星の声が問う。


「私は……」


 言葉が詰まる。


 ノアだ。

 今、この場所に立っているのはノアだ。

 アステリオで使ってきた名前。

 アークと戦い、セレスたちと笑い、星冠祭の記録を見ていた名前。


 でも、それだけではない。


 朝倉澪だ。

 現実で朔を好きになった。

 幼馴染として隣にいた。

 怖くて、逃げて、泣いて、それでも好きだと言った。


 どちらかと問われると、答えられない。


 足元の水面が揺れる。


 次々に映像が浮かび上がる。


 澪が一人で布団にくるまって、朔への気持ちに苦しんでいる夜。

 ノアがアークと夜のフィールドを走る記録。

 澪が夏希に背中を押される場面。

 ノアがセレスたちとダンジョンへ挑む場面。

 澪が凛花と向き合う場面。

 ノアが星環試練でアークを信じる場面。


 映像は交互に流れる。

 澪。

 ノア。

 澪。

 ノア。


 そのたびに胸が揺れる。


 どちらが本当なのか。

 どちらを選べばいいのか。


 以前の自分なら、ノアは嘘だと答えたかもしれない。

 澪だけが本当で、ノアは隠れるための名前だったと。


 でも、今はもうそうは言えない。


 ノアとして笑った時間は、本物だった。

 ノアとしてアークを支えたいと思った気持ちも、本物だった。

 ノアとして怖がり、泣き、進んできた時間も、自分のものだった。


 けれど、澪を消すこともできない。


 朔を好きになったのは澪だ。

 現実で怖さを抱えて、教室で隣に立つことを選んだのも澪だ。

 星のチャームを内側に持ち、外に出す勇気を探しているのも澪だ。


「どっちかじゃないと、だめなの?」


 ノアは小さく呟いた。


 星の声は静かに響く。


《名前は、あなたを示すもの》

《あなたは、どちらの名で立ちますか》


「どちらの名で……」


 その問いに、胸の奥が苦しくなる。


 ノアとして立つなら、澪を置いていくことになるのか。

 澪として立つなら、ノアを捨てることになるのか。


 違う。

 違うはずだ。


 でも、はっきり言えない。


 足元に、さらに大きな映像が浮かぶ。


 正体を明かした夜の記録だった。


 ノアがアークへ向き合っている。

 震える声で、現実の自分のことを話そうとしている。

 怖くて、逃げたくて、それでも言う。


 その映像の中で、ノアの輪郭が揺れる。


 同時に、制服姿の澪の姿が重なった。

 二つの自分が、ずれて重なり、また離れる。


 ノアは胸に手を当てた。


「私は、ずっと二つに分かれてた」


 言葉がこぼれた。


「澪では言えないことを、ノアなら言えた」

「澪では立てない場所に、ノアなら立てた」

「でも、ノアでいるほど、澪が苦しくなった」

「アークに近づくほど、朔から遠ざかってる気がした」


 星の部屋は、静かに聞いていた。


 ノアの声だけが響く。


「どっちも私だったのに」

「私は、ずっとどちらかを選ばなきゃいけないと思ってた」

「澪が本当で、ノアは嘘」

「ノアでいられる時だけ強くて、澪は弱い」

「そんなふうに分けてた」


 足元の映像が、また揺れる。


 ノアがアークの隣で笑っている。

 澪が朔の隣で照れている。

 ノアが戦場で術式を展開している。

 澪が教室で「付き合っています」と言う未来のような幻が、一瞬だけ映って消える。


 胸が痛い。

 でも、そこにある光から目を逸らしたくない。


《あなたは、ノアですか》

《それとも、澪ですか》


 星の声が、もう一度問う。


 ノアは唇を噛んだ。


 答えたい。

 でも、まだ言葉が足りない。


 自分一人では、どうしても最後の一歩が踏み出せない。


 アーク。

 朔。


 心の中で呼ぶ。


 すると、遠くで小さな光が揺れた。


 星の海の向こうから、かすかに声が届く。


『ノア』


 ノアは顔を上げた。


 聞こえた。

 今、確かに。


「アーク?」


 返事は途切れ途切れだった。

 遠い。

 でも、確かに届いている。


『ノア、聞こえるか』


「聞こえる」

 ノアは声を震わせた。

「アーク、どこ?」


『見えない』

 アークの声がノイズ混じりに響く。

『でも、声は届いてる』


 胸の奥に、温度が戻ってくる。


 姿は見えない。

 手も繋げない。

 でも、声がある。


 星環試練の最奥と同じだ。


 見えなくても、そこにいる。


「アーク」

『うん』

「私、聞かれてる」

『何を』

「私はノアか、澪かって」

 少しの沈黙。


 それから、アークの声が静かに届いた。


『そうか』


 その声は、驚きよりも、どこか納得したようだった。


「答えられない」

 ノアは正直に言った。

「どっちも私なのに、どっちかを選べって言われると、わからなくなる」

『うん』

「ノアだった時間も本物」

『うん』

「澪として泣いた時間も本物」

『うん』

「でも、どう言えばいいかわからない」

 星の部屋に、ノアの声が震えて落ちる。


「私、まだ自分を許しきれてないのかな」

『……ノア』

「ノアでいたことを、全部大事にしたいって思い始めたのに」

『うん』

「澪としての私も、捨てたくないのに」

『うん』

「どっちかって聞かれると、まだ怖い」

 アークの声は、少しだけ近くなった気がした。


『俺の声、聞こえる?』

「聞こえる」

『じゃあ、聞いて』

「うん」

『君は、ノアだった』

 胸が鳴る。


『俺の隣で戦ってくれたノアだった』

「うん」

『俺を何度も助けてくれた』

「うん」

『夜のフィールドで笑って、星骸の渡り廊で泣きそうになって、星環試練で俺を信じてくれた』

「うん」

『その全部が、ノアだった』

 ノアの目の奥が熱くなる。


 アークの声は続く。


『でも、君は澪だった』

「……うん」

『現実で俺の隣にいた』

「うん」

『ずっと好きでいてくれた』

「うん」

『怖くても、好きだと言ってくれた』

「うん」

『教室で、俺の隣に立とうとしてくれた』

「うん」

『星のチャームを持って、外に出したいって思ってる』

 その言葉に、涙がこぼれそうになる。


『どちらでも、君だった』

 アークの声が、星の部屋に静かに響いた。


『俺が好きになったのは、どちらか片方じゃない』

「……」

『ノアだけでもない』

「うん」

『澪だけでもない』

「うん」

『隠れてた時間も、泣いた時間も、信じてくれた時間も、全部繋がって今の君になってる』

「うん」

『だから、どちらかを選ばなくていい』

 胸の奥で、ずっと固く結ばれていた何かが震えた。


 ノアは足元の水面を見る。


 そこには、澪とノアが映っている。

 向かい合っているようで、重なり合っているようで。

 どちらも不完全で、どちらも本物だった。


 星の声が、三度問う。


《あなたは、ノアですか》

《それとも、澪ですか》


 ノアはゆっくり息を吸った。


 今なら、少しだけわかる気がした。


 どちらかを選ぶ問いではない。

 自分が、自分をどう呼ぶかの問いだ。


 ノアは、星の部屋の中心に立った。

 震える手を胸に当てる。


「私は」


 声がまだ少し震える。


 でも、逃げない。


「私は、朝倉澪」


 足元の水面に、制服姿の澪が映る。

 泣いて、笑って、朔を好きになった自分。


「アステリオでは、ノア」


 その隣に、白い装備のノアが映る。

 戦って、隠れて、でも確かにアークの隣にいた自分。


「どっちも、私」


 言えた。


 その瞬間、星の部屋が大きく輝いた。


 足元の澪とノアの映像が、ゆっくり重なっていく。

 どちらかが消えるのではない。

 どちらかに塗り潰されるのでもない。


 二つの光が重なって、ひとつの輪郭になる。


 胸の奥が、熱く満たされる。


 ノアは目を閉じた。


「私は、もう隠れるためだけにノアではいない」

「でも、ノアでいた私を消さない」

「澪として泣いた私も、ノアとして戦った私も」

「全部、私」


 星の声が、静かに響いた。


《名称照合、完了》

《自己同一記録、確認》

《星冠記録を更新します》


 空間が光に包まれる。


 遠くから、アークの声が聞こえた。


『ノア!』


「アーク!」


 ノアは手を伸ばした。


 光の向こうに、黒い影が見える。

 アークの姿。


 もう少し。

 もう少しで届く。


 星の部屋が崩れていく。

 水面が光になり、壁のない空間が無数の星へほどけていく。


 その最後に、ノアは確かに自分の名前を聞いた。


『澪』


 そしてすぐに、もう一つ。


『ノア』


 二つの名前が、同じ声で呼ばれた。


 ノアは涙をこぼしそうになりながら、光の中へ手を伸ばした。

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