第9章 第5話:星冠祭前夜、ノアは迷う
星冠祭の前夜、澪はいつもより長く、フルダイブ装置の前に座っていた。
部屋の明かりは落としてある。
机の上のスマート端末だけが、淡く光っていた。
画面には、朔からのメッセージが残っている。
『今夜、少しだけログインできる?』
『星冠祭の前に、二人で話したい』
その一文を読んだ時、澪はすぐに返事をした。
『行く』
『私も話したい』
送信したあとも、胸の奥は落ち着かなかった。
明日、星冠祭が始まる。
アステリオで積み重ねてきた絆と歩みが、星の記憶として可視化される祭。
五人での記録は見たいと思った。
ノアとアークの記録も、怖いけれど見たいと思った。
けれど、その“見たい”の奥には、まだ別の不安がある。
ノアとしてアークの隣に立っていた時間。
その中には、澪として隠れていた時間も含まれている。
朔に正体を言えなかった頃。
アークの隣にいたくて、ノアという名前を盾にしていた頃。
好きだったのに、好きだと言えなくて、名前の奥を見せられなかった頃。
それも、星の記憶になるのだろうか。
綺麗な光として映し出されるのだろうか。
もしそうなら、自分はそれをそのまま受け取っていいのだろうか。
「……消したくない」
澪は小さく呟いた。
それは本当だ。
でも、消したくないと思うことと、綺麗な思い出にしていいと思うことは、同じではない気がした。
痛かったことまで、美しい記録として見てしまうのは、自分に都合が良すぎないだろうか。
隠していた自分を、後から正当化することにならないだろうか。
考えるほど、胸の奥が静かに重くなる。
澪は鞄を手に取った。
内側のファスナーには、青い星のチャームが揺れている。
まだ外には出せない星。
でも、外へ出したいと思い始めた星。
凛花は言った。
怖いまま立てばいい、と。
由良は言った。
幸せを罰みたいに持たないで、と。
ひなは言った。
悔しいけれど、応援している、と。
みんなが、それぞれの痛みを抱えたまま、澪の背中を押してくれた。
だから、逃げたくない。
でも、逃げないことと、過去の痛みを全部綺麗に塗り替えることは違う。
澪は星のチャームを指先で揺らした。
青い光が、部屋の暗がりの中で小さく瞬いた。
「……行こう」
フルダイブ装置へ手を伸ばす。
目を閉じる。
意識が沈む。
暗闇の向こうに、アステリオの夜が開いた。
ログイン地点は、中央広場ではなかった。
転送先に指定されていたのは、《星骸の渡り廊》。
白い回廊。
ひび割れた石畳。
欄干の向こうに流れる星霧。
遠くに浮かぶ崩れた塔の影。
大きな月が空にかかり、世界全体を青白く照らしている。
ここは、何度も大事な話をした場所だ。
名前の奥を知りたいと言われた場所。
ノアとアークとして、ここから始めようと約束した場所。
だから、星冠祭の前夜にここを選んだ朔の気持ちが、少しだけわかる気がした。
『ノア』
声が聞こえる。
回廊の先に、アークが立っていた。
黒い装備。
背中の剣。
月明かりを受けて、輪郭が淡く光っている。
「アーク」
ノアが呼ぶと、アークはゆっくり近づいてきた。
『来てくれてありがとう』
「うん」
『ここでよかった?』
「うん」
「ここがよかった」
そう言うと、アークは少しだけ表情をやわらげた。
二人は並んで歩き出した。
足元の石畳が、踏むたびに淡く光る。
星霧が欄干の下でゆっくり流れていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
沈黙は重い。
でも、嫌な重さではない。
言葉を探すための沈黙だった。
『明日』
先に口を開いたのはアークだった。
『星冠祭だな』
「うん」
『緊張してる?』
「してる」
『俺も』
「アークも?」
『する』
アークは少しだけ苦く笑った。
『記録を見るの、怖い』
「……うん」
「私も」
ノアは欄干の向こうを見た。
星霧の中に、小さな光がいくつも流れている。
記憶の欠片みたいに。
「私」
ノアはゆっくり言った。
「見たいって思ってる」
『うん』
「ノアとアークの記録」
『うん』
「五人の記録も」
『うん』
「でも」
言葉が少し詰まる。
アークは急かさなかった。
「隠していた時間まで」
ノアは続けた。
「綺麗な思い出にしていいのかなって、思う」
胸の奥にあった問いを、ようやく言葉にできた。
アークは少しだけ足を止める。
ノアも立ち止まった。
回廊の真ん中。
月明かりの下。
「私、アークの隣にいた」
『うん』
「一緒に戦った」
『うん』
「楽しかった時間もある」
『うん』
「アークが近くにいることが嬉しくて、ノアでいる時間に救われてた」
『うん』
「でも、その時間は」
喉が少し熱くなる。
「澪として言えなかった時間でもあった」
アークは静かに聞いている。
「朔に嘘をついてた」
『うん』
「隠してた」
『うん』
「苦しかったけど、アークの隣にいたかった」
『うん』
「それを、星冠祭で綺麗な記録として見たら」
ノアは手を握った。
「自分に都合よく、美化してるみたいで怖い」
言い終えると、胸が少し痛んだ。
ずっと引っかかっていた言葉だった。
消したくない。
でも、ただ綺麗にしてしまいたくもない。
その矛盾を、ノアは抱えていた。
アークはしばらく黙っていた。
考えているのがわかる沈黙だった。
『俺は』
やがて、アークが口を開いた。
『綺麗じゃないところも含めて、大事にしたい』
ノアは顔を上げる。
『ノアといた時間は、楽しかった』
「うん」
『一緒に戦うのも、話すのも、黙って歩くのも好きだった』
「うん」
『でも、後から澪の苦しさを知った』
「……うん」
『あの時間が、ただ楽しいだけじゃなかったって知った』
アークはノアを見る。
『だから、ただ綺麗だったとは言えない』
「うん」
『でも、汚かったとも思わない』
「……」
『苦しさがあったから、全部間違いになるわけじゃない』
その言葉に、胸が静かに震えた。
『ノアが隠してたことは、痛かった』
「うん」
『俺も傷ついた』
「うん」
『澪も苦しかった』
「うん」
『でも、それでもノアと過ごした時間は本物だった』
アークの声は、まっすぐだった。
『俺は、それを消したくない』
「……うん」
『都合よく綺麗にしたいんじゃない』
「うん」
『痛かったことも含めて、俺たちの時間として見たい』
ノアは何も言えなかった。
綺麗じゃないところも含めて、大事にする。
それは、自分が欲しかった答えに近かった。
過去を美化するのではない。
痛みをなかったことにするのでもない。
でも、全部を罰として捨てるのでもない。
その時間が、今に繋がっていることを認める。
「私」
ノアは小さく言った。
「消さないって決めたい」
『うん』
「でも、綺麗にしすぎない」
『うん』
「痛かったことも、隠してたことも」
『うん』
「ちゃんとそこにあったって、覚えたまま見る」
アークは頷いた。
『それでいいと思う』
「うん」
「それなら、見られる気がする」
『怖くても?』
「怖くても」
ノアは少しだけ笑った。
「怖いのは、もう前提だから」
アークも小さく笑う。
『だな』
「うん」
「怖いまま、見る」
『一緒に』
「うん」
「一緒に」
星霧の向こうで、遠い塔の影がゆっくり揺れている。
この場所も、かつては痛みの場所だった。
でも今は、話せる場所になっている。
過去の意味は、ひとつではない。
痛かった場所も、いつか違う記憶を重ねることで、少しだけ別の光を持つのかもしれない。
『ノア』
「何?」
『明日の星冠祭』
「うん」
『ペア記録、まず二人で見よう』
「うん」
『五人の記録は、三人とも一緒に』
「うん」
『公開範囲は、そのあと考える』
「うん」
『怖くなったら止まる』
「うん」
『でも、消さない』
ノアは深く頷いた。
「消さない」
その言葉が、胸の奥で静かに光った。
二人はまた歩き出した。
星骸の渡り廊の奥へ進む。
かつて戦った敵はもう現れない。
ただ、古い記憶の残り香みたいな光が、足元に淡く浮かんでいた。
「アーク」
『うん』
「もし、記録の中に、隠してた頃の私が映ったら」
『うん』
「その時、私が苦しくなったら」
『うん』
「隣にいて」
アークは迷わず答えた。
『いる』
「うん」
『苦しくなったら、止めよう』
「うん」
『泣きたくなったら、泣いていい』
「うん」
『怒りたくなったら、怒っていい』
「怒る?」
『自分に』
ノアは少しだけ苦笑した。
「ありそう」
『その時は止める』
「厳しく?」
『必要なら』
「……うん」
「お願い」
アークは小さく頷いた。
『ノアは?』
「私?」
『俺が苦しくなったら』
その問いに、ノアは少しだけ目を見開いた。
アークも、苦しくなる可能性がある。
それを今まで、十分に考えられていただろうか。
記録を見るのはノアだけではない。
アークも見る。
朔も、自分が傷ついた時間と向き合うことになる。
それなのに、また自分の痛みばかり見ていた。
「いる」
ノアははっきり言った。
「アークが苦しくなったら、私も隣にいる」
『うん』
「怖いって言って」
『言う』
「痛いって言って」
『言う』
「私も、ちゃんと聞く」
アークの表情が少しだけやわらかくなる。
『ありがとう』
「うん」
「私だけが見てもらうんじゃない」
『うん』
「二人で見るんだから」
『うん』
「二人で、ちゃんと持つ」
言葉にした瞬間、胸の奥にあった不安が少しだけ形を変えた。
一人で裁かれる記録ではない。
二人で見る記録。
二人で受け取る記憶。
それなら、怖くても向き合える気がした。
回廊の最奥へ着くと、空に大きな月が浮かんでいた。
足場の周囲には星霧が流れ、どこまでも夜が広がっている。
ノアは欄干に手を置いた。
アークが隣に立つ。
「ここ」
ノアは言う。
「最初は、苦しかった」
『うん』
「アークに踏み込まれて、怖かった」
『悪かった』
「ううん」
ノアは首を振る。
「今は、踏み込んでくれてよかったって思う」
アークが少しだけ目を伏せる。
『そう言ってもらえると、少し救われる』
「うん」
「私も、ここに来るたびに少しずつ救われてる」
『そっか』
「痛かった場所に、違う記憶が増えていく」
ノアは星霧を見下ろした。
「たぶん、星冠祭もそうなるのかな」
『うん』
「痛かった記録を消すんじゃなくて」
『うん』
「今の私たちで、もう一度見る」
『うん』
「そうしたら、少し違う光になるのかもしれない」
アークは静かに頷いた。
『明日、見よう』
「うん」
『俺たちの時間』
「うん」
「ノアとアークの時間」
『澪と朔に繋がった時間』
その言葉に、胸が温かくなる。
ノアとアークの時間は、澪と朔に繋がっている。
切り離された別のものではない。
隠れていた時間も、遠回りした時間も、今に続いている。
「アーク」
『何』
「私、明日」
『うん』
「ちゃんと見る」
『うん』
「逃げそうになったら」
『止める』
「うん」
「でも、無理に押さないで」
『押さない』
「手は」
ノアは少し迷ってから、手を差し出した。
「繋いでて」
アークは一瞬だけ目を細めた。
それから、そっとノアの手を取る。
『繋いでる』
短い言葉。
それだけで、ノアは胸の奥が落ち着いていくのを感じた。
しばらく、二人は星霧を見ていた。
会話は少なかった。
でも、沈黙は怖くなかった。
ログアウトの時間が近づく頃、アークが言った。
『ノア』
「うん」
『明日、現実でも会えるよな』
「学校で?」
『うん』
「会える」
『朝、いつもの場所で』
「うん」
『チャーム』
その言葉に、ノアは少しだけ息を止めた。
『まだ内側?』
「たぶん」
『俺も』
「……うん」
『でも、星冠祭を見たら』
「うん」
『少し変わるかもしれないな』
「うん」
「そうかもしれない」
まだ外側につける勇気はない。
でも、外へ出したい気持ちは、確かに育っている。
それを急がなくてもいい。
けれど、なくさなくていい。
「明日」
ノアは言った。
「星冠祭を見たあとで、また考えたい」
『うん』
『一緒に考えよう』
「うん」
「一緒に」
ログアウトすると、澪の部屋は静かだった。
フルダイブ装置から身体を起こし、しばらくそのまま座っている。
星骸の渡り廊の月明かりが、まだ瞼の裏に残っている気がした。
澪は鞄を手に取る。
内側の星のチャームに触れた。
青い星は、いつもの場所で揺れている。
まだ外側ではない。
けれど、今日はその星を見ても、自分を責める声は少し小さかった。
まだ内側。
でも、消していない。
大事にしている。
そして、いつか外の光へ出したいと思っている。
スマート端末が震える。
朔からだった。
『明日、一緒に見よう』
『綺麗じゃないところも含めて』
澪は画面を見つめる。
目の奥が少し熱くなった。
『うん』
『消さないで見る』
『一緒に』
送信する。
すぐに返事が来た。
『一緒に』
澪は端末を胸に抱えた。
隠していた時間まで、綺麗な思い出にしていいのか。
その問いへの答えは、まだ完全には出ていない。
でも、綺麗ではないところも含めて、大事にすることはできるのかもしれない。
痛かったこと。
苦しかったこと。
それでも、確かにそこにあったこと。
全部を消さずに、明日、星の記憶として見る。
澪は星のチャームをそっと握った。
怖い。
でも、逃げたくない。
その気持ちを胸に抱えたまま、澪は静かに目を閉じた。




