第3章:ライブ会場と葵の家族
あの日から、二日――三日。
時間はゆっくり流れているはずなのに、
僕の中では何かが確実に変わっていた。
教室の景色も、帰り道も、家の静けさも。
全部、少し違って見える。
――理由は分かっている。
葵さん。
彼女の存在が、僕の世界に入り込んできたからだ。
⸻
ポケットの中で、携帯が震える。
取り出して画面を見る。
表示された名前に、心臓が跳ねた。
【湊川葵】
ほんの数日前まで、
画面越しでしか見たことのなかった人。
その人からのメッセージ。
「明日、土曜日、時間ある?」
短い文章。
でも、それだけで充分だった。
「はい。」
僕はすぐに返信する。
指が少しだけ震えていた。
⸻
(明日……)
ただの約束じゃない。
“初めての時間”。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。
⸻
その夜。
僕は何度もクローゼットを開けた。
服を出しては戻し、また出しては悩む。
「……こんなこと、今までなかったな」
自分で少し笑う。
財布の中身を確認する。
足りているか、何度も見直す。
鏡の前に立つ。
髪型、服装、表情。
どれも正解が分からない。
――でも。
「ちゃんと向き合いたい」
それだけは、はっきりしていた。
⸻
ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、思い出す。
あの喫茶店での言葉。
「隆くんがいい」
その一言が、何度も繰り返される。
(僕で……いいのか)
答えは出ないまま。
それでも、いつの間にか眠りに落ちていた。
⸻
翌日。
空気が少しだけ軽い気がした。
約束の場所へ向かう足取りは、自然と速くなる。
そして――
到着した瞬間、思わず立ち止まった。
「……すごいな」
人、人、人。
会場の周りには、すでに大勢のファンが集まっていた。
色とりどりのグッズ。
楽しそうな声。
期待に満ちた空気。
(これが……葵さんの世界)
僕とは、まるで違う場所。
⸻
少しだけ息を整えて、携帯を取り出す。
通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「隆くん?」
その声だけで、安心する。
「着いた?」
「はい。今、会場にいます」
少しだけ笑い声が聞こえた。
「よかった。もうすぐ始まるから、楽しみにしててね」
「……はい」
通話が切れる。
短い会話なのに、心臓の鼓動が落ち着かない。
⸻
会場に入り、席に座る。
ステージがよく見える位置。
照明が落ち、ざわめきが静まる。
そして――開演。
⸻
最初に登場したのは、
北海道・東北地方のグループ
『雪の魔法人女 マジシャン極寒のミラクルgirl’s』
幻想的な演出と、鋭いダンス。
観客が一気に引き込まれていくのが分かる。
(すごい……)
純粋に、そう思った。
⸻
続いて――
関東・中部地方のグループ。
『虹☆輪』
――葵さんたち。
ステージに光が当たる。
歓声が、一気に爆発する。
その中心に――
葵さんがいた。
⸻
(……綺麗だ)
言葉が出ない。
ただ、見惚れていた。
踊る姿。
笑顔。
一瞬一瞬の表情。
どれもが、完璧だった。
⸻
その時。
ふと、視線が合う。
葵さんが――
僕の方を見て、手を振った。
一瞬、時間が止まる。
(僕に……?)
遅れて、手を振り返す。
胸が、熱い。
今まで感じたことのない感情。
誇らしさと、嬉しさと、少しの戸惑い。
⸻
(この人が……僕の恋人)
信じられない。
でも、確かに現実だった。
⸻
ライブは進んでいく。
けれど――
僕の意識は、ほとんど彼女に向いていた。
⸻
その時。
背後から声がかかる。
「簗川さん、ですよね?」
振り返る。
そこに立っていたのは――
三人の女性。
どこか、葵さんに似ている。
「はい、そうです」
自然と背筋が伸びる。
⸻
一人の女性が、穏やかに微笑む。
「初めまして。葵の母、湊川紗耶香です」
――母親。
その言葉に、空気が変わる。
僕はすぐに立ち上がり、頭を下げた。
「初めまして。簗川隆です」
「そんなに堅くならなくて大丈夫よ」
柔らかい声。
でも、その奥には“母”としての強さがあった。
⸻
「娘とお付き合いしているそうですね」
まっすぐな問い。
逃げられない。
「……はい」
小さく、でもはっきり答える。
紗耶香さんは、ゆっくり頷いた。
「葵、久しぶりにあんな顔をしていたの」
「……え?」
「本当に嬉しそうな顔」
その言葉に、胸が締め付けられる。
「だから――」
一拍置いて。
「どうか、よろしくお願いしますね」
“許可”ではない。
“願い”。
その重みが、伝わってくる。
⸻
次に前へ出てきたのは、もう一人の女性。
「姉の、湊川明梨です」
洗練された雰囲気。
大人の余裕がある。
「家ではね、葵は結構ドジなの」
少し笑いながら言う。
「え……?」
思わず聞き返す。
「信じられないでしょ?」
「……はい」
「でも本当。昔ね――」
少しだけ懐かしそうに目を細める。
「デートで慌てすぎて、転んで、泣いて、そのまま振られたこともあるの」
「……」
言葉が出ない。
「それから、恋愛に臆病になっちゃってね」
明梨さんは、僕を見る。
「でも、あなたの話をしてる時だけは違った」
真剣な目。
「だから――大事にしてあげて」
その一言に、強い意志がこもっていた。
⸻
最後に、小さな影が一歩前に出る。
「私は妹の桜里奈です!」
元気な声。
でも、しっかりとした口調。
「お兄ちゃん、姉のこと頼みますね!」
少しだけ偉そうに、でも真剣に。
「……はい」
自然と、笑ってしまう。
「任せて」
その言葉に、彼女は満足そうに頷いた。
⸻
ライブが終わる。
大きな拍手と歓声。
その中で――
僕の中には、別の静けさがあった。
⸻
(僕は……受け入れられたのか)
まだ分からない。
でも。
“向き合われた”ことは確かだった。
⸻
外に出ると、夜の空気。
少し冷たい風。
「こっちだよ」
紗耶香さんに促され、車へ向かう。
自然な流れで、同じ車に乗ることになった。
⸻
隣に、葵さんが座る。
少し近い距離。
ドキッとする。
「今日のライブ、どうだった?」
彼女が、少し不安そうに聞く。
「……綺麗だった」
言葉を選びながら。
「それに、可愛かった」
正直に、伝える。
一瞬、静寂。
そして――
「……ありがとう」
彼女は、小さく笑った。
⸻
その瞬間。
後ろから声。
「お兄ちゃん、照れてる!」
桜里奈ちゃんだった。
「ち、違う」
否定するけど、遅い。
「顔、赤いもん」
「……」
反論できない。
車内に、笑いが広がる。
⸻
紗耶香さんは、目元を押さえながら言う。
「ありがとう……本当に」
「え……?」
「娘に、そんな風に言ってくれる人がいて」
声が少し震えている。
「それだけで、十分なの」
その言葉に、胸が締め付けられる。
⸻
明梨さんは、前の席から振り返る。
そして――
葵の頭を、優しく撫でた。
「良かったな、葵」
その一言に、すべてが詰まっていた。
⸻
その時。
ふいに、葵さんがこちらを向く。
そして――
そっと、僕の唇に触れた。
軽く。
でも、確かに。
⸻
「……っ」
思考が止まる。
時間が止まる。
心臓だけが、暴れる。
⸻
「ありがとう、隆くん」
彼女は、静かに言う。
「私のこと……大切にしてね」
その目は、まっすぐだった。
⸻
僕は――
ゆっくりと、彼女を見つめる。
逃げない。
もう、逃げない。
⸻
そっと、彼女にキスを返す。
今度は、少しだけ長く。
⸻
「……本当に僕でいいの?」
自然と出た言葉。
不安は、消えない。
⸻
でも。
彼女は、迷わなかった。
⸻
「うん」
優しく。
でも、強く。
⸻
「隆くんがいい」
⸻
その瞬間。
すべての迷いが、少しだけ消えた気がした。
⸻
夜の街を走る車の中。
静かな時間。
でも――
確かに、心は繋がっていた。
⸻
僕は、静かに誓う。
この人を、守りたい。
この関係を、壊したくない。
⸻
孤独だったはずの人生は。
もう――
一人じゃない。
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