第7章:ふたりだけの時間、ふたりしか知らない距離
待ちに待った土曜日が訪れた。
まだ空が完全に明るくなる前――
目覚ましが鳴るよりも早く、僕は目を覚ました。
胸の奥が、静かに高鳴っている。
(……寝てられるわけないか)
まるで遠足前の子供みたいだと、自分で苦笑する。
ベッドから起き上がり、カーテンを開けると、やわらかな朝の光が差し込んできた。
今日は――
葵さんとの、初めての“ちゃんとしたデート”。
洗面台で顔を洗いながら、何度も深呼吸する。
(落ち着け……)
そう思っても、自然と頬が緩んでしまう。
クローゼットを開け、前日から何度も悩んだ服をもう一度見直す。
派手すぎないか。
地味すぎないか。
“普通”に見えるか。
何度も確認して、ようやく納得して袖を通した。
鏡の前で最後に髪を整え、少しだけ距離を取って自分を見る。
(……よし)
完璧ではない。
でも、今の自分としては、精一杯だ。
⸻
待ち合わせ場所は、いつもの喫茶店の裏通り。
人通りが少なく、視線も届きにくい場所。
“秘密の関係”である以上、場所選びひとつにも神経を使う。
約束の時間より、少しだけ早く着く。
(……いや、少しじゃないな)
腕時計を見ると、やっぱり30分前だった。
思わず苦笑する。
(これでも抑えた方なんだけどな)
静かな路地に立ちながら、時折周囲を確認する。
誰かに見られていないか。
不自然じゃないか。
そんなことを考えていると――
「お待たせ、隆くん」
背後から、優しい声。
振り返ると、そこには――
黒のキャスケット。
マスク。
大きめのトレンチコート。
完全に“変装”しているはずなのに――
その瞳だけで、すぐに分かった。
「……ううん、こっちこそ」
僕は自然と微笑む。
「待つのは慣れてるしね」
その言葉に、彼女は少しだけ目を細めた。
「……そっか、1時間前から来ちゃう人だもんね」
「今回は30分前だよ」
「十分早いよ」
二人で小さく笑う。
その何気ないやり取りが、妙に心地よかった。
⸻
人通りの少ない裏道を選びながら、僕たちは歩き出す。
目的地は、小さなミニシアター。
都心から少し外れた場所にある、古い映画館。
派手さはないが、その分、人目につきにくい。
「ここ、よく使われるんだって」
葵さんが小さな声で言う。
「芸能人の人たちの……秘密の場所」
「なるほど」
(そういう場所を知ってるあたり、本当に“そっちの世界の人”なんだな)
改めて実感する。
でも――
今、隣を歩いている彼女は、ただの“好きな人”だった。
⸻
館内は静かだった。
観客はほんの数人。
後方の隅の席に、並んで座る。
上映が始まり、スクリーンに光が映し出される。
けれど――
僕の意識の半分以上は、隣にあった。
ふとした瞬間に見える横顔。
スクリーンの光に照らされて、表情が変わる。
笑うとき。
少し驚くとき。
真剣に見入るとき。
その一つ一つが、胸に残る。
(……こんなに近くにいるんだな)
そう思った瞬間――
そっと。
彼女の手が、僕の手の上に重なった。
一瞬、呼吸が止まりそうになる。
「……ねえ」
小さな声。
「誰にも言えない関係って、ちょっと切ないね」
スクリーンを見たままの言葉。
でも、その声はどこか寂しそうだった。
僕は言葉を探すより先に――
その手を、しっかりと握り返した。
「俺は、それでもいい」
「……え?」
彼女が少しだけこちらを見る。
「それでも、君といたい」
迷いのない言葉だった。
彼女の瞳が、わずかに揺れる。
そして――
小さく、うなずいた。
「……ありがとう」
その声は、さっきより少しだけ温かかった。
⸻
映画が終わった後――
僕たちは館を出て、川沿いの遊歩道を歩いた。
夕方の光が、水面に反射して揺れている。
人も少なく、静かな時間。
葵さんが、ふと立ち止まった。
「ねえ、隆くん」
「ん?」
少しだけ間を置いてから、彼女は言った。
「いつかね――」
「堂々と、“恋人です”って言える日が来たらいいなって思うの」
その言葉は、夢のようで。
でも、どこか現実的でもあった。
僕はすぐに答える。
「来るよ」
彼女がこちらを見る。
「その時が来るまで、俺は逃げない」
「ずっと隣にいる」
はっきりと言い切る。
その言葉に、彼女は一瞬驚いた顔をして――
そして、優しく笑った。
「……うん」
その“うん”は、とても大事な返事に聞こえた。
⸻
彼女はコートのポケットに手を入れる。
少しごそごそと探してから、小さな包みを取り出した。
「はい、これ」
「……?」
受け取ると、ほんのり甘い香りがした。
「手作りのクッキー」
「えっ、手作り?」
思わず声が少し大きくなる。
彼女は照れたように笑った。
「形はちょっと悪いけど……」
「“好き”の気持ちを、ちゃんと形にしたくて」
その言葉を聞いた瞬間――
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
僕は包みを大事に両手で持ち、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
「世界で一番嬉しい」
それは、大げさでもなんでもなかった。
本心だった。
⸻
そして帰り道。
再び、人目を避けながら、喫茶店の裏へ戻る。
別れの時間が、近づいている。
自然と、会話が少しずつ減っていく。
でも、それは気まずさじゃなくて――
名残惜しさだった。
彼女は帽子を深くかぶり直し、マスクを少しだけ整える。
そして、僕の耳元にそっと顔を近づけた。
「……今日、すごく幸せだった」
吐息がかかるくらい近い距離。
「また、こういう日……重ねていけたらいいな」
僕も、小さく答える。
「必ず」
「また一緒に出かけよう」
「……うん」
その瞬間――
彼女は、そっと僕の頬にキスをした。
ほんの一瞬。
でも、その温もりは確かだった。
離れていく彼女の姿を、僕はしばらく見つめていた。
⸻
帰り道。
スマホを開く。
グループLINE。
この関係を知っている、唯一の場所。
⸻
【隆】
「今日、彼女と初デートしました。
親友のみんなだけには、ちゃんと伝えておきます。」
⸻
すぐに返信が来る。
【宮下佳織】
「隆くんへ。
ちゃんと“報告してくれる”ところ、ほんとに隆くんらしいね。
きっとね、その一日って、すごく大事なものだったんだと思う。
顔見なくても分かるよ、今たぶんすごく優しい顔してる。
……良かったね。本当に。心からそう思うよ。」
【仲村俊輔】
「おいおい、初デート報告とか青春すぎだろ。
どうせ今、ずっとニヤけてんだろ?笑
でもさ、そういう顔できるようになったの、正直ちょっと安心した。
お前、昔はずっと無表情だったしな。
……ちゃんと大事にしろよ、その子のこと。」
【柳瀬卓郎】
「いや~、ついに来たなこの時が!
あの簗川が恋してデートしてるとか、映画化決定だろこれ。
でもさ、冗談抜きで言うけど――
“秘密を守る覚悟”って結構重いぞ?
それでもやるって決めたなら、最後までやれよ。
俺らは裏で支えるからさ。」
【福原愛莉】
「報告ありがとう、隆。
ちゃんと大事なことを共有してくれるの、すごく嬉しい。
恋ってね、楽しいだけじゃなくて、不安もいっぱいあるものなの。
でもね、“この人といたい”って思えるなら、それが一番大事。
二人が笑っていられる時間を、どうか大切にしてね。
……応援してるよ、ずっと。」
⸻
僕は画面を見つめながら、静かに笑った。
(……本当に、恵まれてるな)
誰にも言えない恋。
でも――
完全に孤独なわけじゃない。
支えてくれる人たちがいる。
だからこそ、守りたいと思える。
僕はスマホを閉じ、夜空を見上げた。
頬に残る温もりが、まだ消えない。
この想いも。
この関係も。
絶対に、手放さない。
――ふたりの距離は、確かに縮まっていた。
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