第6章:彼女の素顔、そして小さな未来の約束
それから数日後――
放課後の教室に残るのは、僕一人だった。
チャイムが鳴り終わってしばらく経った教室は、驚くほど静かで、まるで時間が止まったかのようだった。黒板には消しきれていないチョークの跡が残り、窓から差し込む春の陽射しが、それを淡く照らしている。
誰もいない空間の中で、僕はゆっくりと息を吐いた。
(……こういう時間、嫌いじゃない)
孤独には慣れている。むしろ、それが当たり前だった。
けれど――今は違う。
心のどこかに、誰かの存在があるだけで、この静けさの意味が変わっていた。
僕はカバンに教科書をしまいながら、スマホを取り出す。
画面に表示された通知。
送り主の名前を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
⸻
【湊川葵】
「今から、少しだけ会えませんか?」
⸻
その一文は、とても短いのに――
どんな長文よりも、僕の心を強く揺らした。
(“少しだけ”……か)
その言葉の裏にある、何かを感じ取ってしまう。
迷う理由なんてなかった。
【簗川隆】
「いいよ。どこに行けばいい?」
すぐに送信する。
数分後、返信が届いた。
⸻
「あの公園。前に雨宿りしたところ。」
⸻
その場所を見た瞬間、記憶が自然と蘇る。
入学したばかりの頃。
突然の雨。
誰もいない公園の東屋。
そして――
言葉をほとんど交わさなかった、あの時間。
(あの時から……何か、始まってたのかもしれないな)
僕はカバンを肩にかけ、教室を後にした。
⸻
公園に着くと、そこには静かな空気が流れていた。
夕方の光が柔らかく差し込み、子どもたちの姿もなく、まるで世界から切り離されたような場所だった。
ベンチの上に、一人の少女。
帽子とマスクで顔を隠しているが、それでも分かる。
――葵さんだ。
僕に気づくと、彼女はゆっくりと立ち上がり、周囲を一度確認してから、そっとマスクを外した。
「隆くん……来てくれてありがとう」
その声は、どこか安心したようで、
同時に、少しだけ疲れていた。
ステージの上で見せる、完璧な笑顔とは違う。
目の下には、ほんのわずかな影。
前髪も少し乱れている。
だけど――
(……綺麗だ)
取り繕っていない、そのままの姿が、
どうしようもなく愛おしかった。
「……どうしたの? 何かあった?」
僕が近づいて尋ねると、彼女はゆっくりと座り、隣を軽く叩いた。
「ここ、座って?」
僕は頷いて、その隣に腰を下ろした。
少しだけ距離が近い。
でも、それが嫌じゃない。
むしろ、自然だった。
彼女は少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「……お母さんと、ちょっと喧嘩しちゃって」
「仕事のことで?」
「うん……」
彼女は空を見上げた。
「最近ね、もっと露出を増やした方がいいって言われてて……バラエティも、ドラマも、全部やれって」
声は落ち着いているのに、
その奥にある疲れは隠しきれていなかった。
「でも私……ちょっとだけ、怖くて」
「怖い?」
「うん。今の自分が壊れちゃいそうで……」
その言葉は、とても小さくて。
でも、重かった。
僕はすぐに言葉を返さなかった。
軽い慰めじゃ届かない気がしたから。
代わりに、ゆっくりと聞く。
「……無理してない?」
その一言に、彼女は少しだけ目を見開いた。
「……してる、かも」
ぽつり、とこぼれる本音。
「でもね、誰にも言えなかったの」
彼女は膝の上で手を握りしめる。
「“大丈夫”って言わなきゃいけない立場だから」
「弱いところ見せたら、ダメな気がして」
その言葉を聞いた瞬間――
僕の中で、何かが決まった。
「……俺には、見せていいよ」
彼女がこちらを見る。
「強くなくていい。完璧じゃなくていい」
「俺の前では、ちゃんと“葵さん”でいていい」
静かな声だった。
でも、嘘は一つもなかった。
彼女の瞳が、ゆっくりと揺れる。
「……なんで、そんなこと言えるの?」
少し震えた声。
僕は迷わず答えた。
「好きだから」
「大事な人だから」
その瞬間――
彼女の表情が崩れた。
泣きそうになるのを、必死にこらえている顔だった。
そして――
そっと、僕の制服の袖を掴む。
「……ずるいよ、隆くん」
「そんなこと言われたら……頼りたくなるじゃん」
その言葉に、僕は小さく笑った。
「頼っていいよ」
「いくらでも」
しばらく沈黙が流れる。
でも、それは気まずいものじゃなかった。
むしろ――安心できる静けさだった。
やがて、彼女がゆっくりと口を開く。
「ねえ、隆くん」
「来週の土曜日、空いてる?」
「空けるよ」
即答だった。
それを聞いて、彼女は少し驚いた顔をする。
「まだ予定も聞いてないのに?」
「君が行きたいなら、それでいい」
その言葉に、彼女はふっと笑った。
「……ほんと、そういうとこ」
「好き」
そして、少しだけ照れながら続ける。
「久しぶりに完全オフなの」
「だから……普通の女の子みたいに過ごしたい」
「一緒に、出かけてくれる?」
その願いは、とてもシンプルで――
でも、彼女にとっては特別なものだった。
僕は静かに頷く。
「全部付き合うよ」
「君が行きたい場所、全部」
その瞬間――
彼女はゆっくりと、僕の肩に頭を乗せた。
「……ありがとう」
小さな声。
でも、その重みはしっかりと伝わってきた。
「ねえ、隆くん」
「これからも……隣にいてくれる?」
その問いに、僕は一瞬も迷わなかった。
「もちろん」
「どんなことがあっても、絶対に離れない」
はっきりと、言い切る。
その言葉を聞いた彼女は、
ゆっくりと顔を上げた。
瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
でも――笑っていた。
「じゃあ……約束の印」
「してもいい?」
僕は、静かに頷いた。
彼女はそっと顔を近づける。
触れるか触れないかの距離。
そして――
唇が重なった。
短く。
でも、確かに想いが伝わるキスだった。
春の風が吹く。
桜の花びらが、静かに舞い落ちる。
寄り添う二人の影が、
ゆっくりと揺れていた。
⸻
この日交わした言葉も。
触れた温もりも。
そして、約束も。
誰にも知られないまま、
静かに、確かに――
僕たちの中に刻まれていく。
小さくて。
でも、何よりも大切な。
“未来への約束”として。
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