7章閑話 篠原家のその後
本日もよろしくお願いします。
あとがきに宣伝があります!
夏休みも終わりに近づく8月の第4日曜日。
その日、たまの休日を過ごしていた市宮の下に、7時30分という朝早くに電話が掛かってきた。
市宮は医師である。休日であっても緊急の電話はよくあることで、これは何かがあったと予感しながら、スマホの画面を見た。そこには、『篠原正司ショウジ・美咲ミサキ・♯奏カナデ♯』とある。自分が担当医をしている家族の名前だ。シャープで囲まれているのが実際の患者の名前である。
奇妙な登録方法だが、これは市宮の生真面目さを表していた。
上司の家族や訪問診療に行く家族など、名前を憶えているというのは信頼を得る最初のステップになる。多くの人の名前に触れる市宮にとって、この登録方法はかなり便利に機能していた。尤も、銀行頭取である篠原ショウジとその家族についてはこれをするまでもなく、全員の名前を頭に叩き込んでいるが。
市宮はカナデの症状を思い出しながら、電話に出た。
相手方は通話が繋がったと見るや、電話口で叫ぶようにしていった。
『市宮先生ですか!?』
娘が後遺症を負った親が出すとは思えないどこか喜色を含んだ興奮気味の声に、市宮は訝しく思いつつも冷静な声で言った。
「篠原さん、おはようございます。本日はいかがされましたか?」
『あ、ああ、これは失礼しました。お休みのところ朝早くに申し訳ありません。実はですね、カナデが完全に治ったんです!』
「……え?」
『そんなバカな』という疑いの気持ちと、『あぁ、これは……』という焦燥の感想が市宮の脳裏で交錯した。前回の診断からまだ1カ月だ。快方に向かうことはあれども、完全に治ることなどありえない。
篠原夫妻は娘を溺愛していた。そのうえで、篠原正司は重責を担う立場である。それらを踏まえて、これは最悪なことになったかもしれないと、市宮は暗い気持ちになった。
「とにかく、すぐに伺おうかと思いますが、今からよろしいでしょうか?」
『その件ですが、病院で精密検査をしていただきたい。本日は対応できますか?』
「……いえ、まずは篠原さんのお宅で診察させていただけませんか?」
『はぁ、もちろんそれは可能ですが』
「では、これから伺ってもよろしいでしょうか? 今からですと、40分程度で到着できるかと思います」
『わかりました。お待ちしております。急ぐ必要はありませんから、お気をつけてお越しください』
篠原はメガバンクの頭取だ。だからこそ、精神状態がわからない状況で病院に来てもらうという選択肢はなかった。篠原の精神状態ひとつで日本経済が大なり小なり短期的に荒れ、それは巡り巡って対応を間違えた市宮の医師生命を終わらせかねない。
市宮はすぐに支度をすると病院の院長に事情を説明してから、車を出した。
「そういえば……」
歩道を走り回る子供を見て、市宮は、ふと、最近耳にした奇妙な出来事を思い出した。
夜になると、ファントムという謎の人物が、現代科学では治療が不可能な子供たちを治していくというものだ。眉唾ものの話ではあるが、治っている子供がいるのは確かなようだった。
その話が医師の間で騒がれないのは理由があった。
最近捕まった獄松組に、いくつかの病院や引退した医師が関わっていたのだ。患者の情報漏洩から、医療用麻薬や睡眠薬などの横流し、銃弾などによる表に出せない傷の治療、ヤクザが指定した人物の虚偽の診断書作成などを行なっていたのである。
患者を想って真面目に働いている多くの医療従事者には寝耳に水の出来事だったし、市宮や勤め先の病院は関係ない事柄ではあったが、問題なのは日本のヤクザが獄松組だけではない点である。
自分の地域の病院は他のヤクザの組と繋がっているのでは、と考える人が現れるのは当然で、今の日本の医師界は大変に揺れ、医療従事者たちは自分が勤めている病院は大丈夫かという不安な気持ちを抱いていた。
そんな事情で埋もれていたファントムの話題を思い出した市宮だったが、「まさかな」と呟いて運転に集中した。
篠原邸に訪問した市宮は、応接室で迎えてくれたカナデを見て息を呑んだ。
それは完治などという生易しいものではなく、大ケガをした痕跡すらなく、花が咲いたように笑っているのだ。
患者が治ったのはめでたいことなので「バカな」などとは言えず、市宮はかけるべき挨拶が咄嗟に口から出てこなかった。
「市宮先生、今まで本当にありがとうございました」
他ならぬカナデ本人からそう言われ、動かなかったはずの体で歩み寄られて握手をされる。これまで絶望で色を失っていた右目が、欠損していたはずの左目と共にキラキラと輝き、市宮の顔を見つめていた。
そこでやっと市宮は言葉を絞り出すことができた。
「カナデさん、随分と良くなったようで。おめでとうございます」
「はい、今でも夢みたいです」
「……とても喜ばしい場でこう言っては失礼ですが、いったいどうやってこの一か月で? 正直なところ、カナデさんの状態は現代医学で完全に治すのは不可能でした」
「神様から奇跡をいただいたんですよ」
「……っ。そう、ですか……」
これを言われると医師は弱い。
医師は患者を治してあげたいが、患者にはこれを断る自由がある。そして、その拒否する理由で宗教が絡んでいる事例がある程度は存在した。医師からすれば肩を落としてしまうようなことだが、患者の信仰を否定することはできないのだ。
そして、いま、カナデは信仰を口にした。
いったいどうやって治療したのか不明だが、治った事実は篠原一家にとって神の御業という認識になってしまっているのだろう。
それでも、これほどの医療技術について問いたい気持ちはあるが、それを相手の立場の高さが許さず、市宮は言葉を呑み込むしかなかった。
なにはともあれ。
軽く診察し、この状態なら精密検査を受けてもらっても大丈夫だろうと、市宮は考えた。正直なところ、市宮は、正司が娘を殺してしまっている可能性や、病院に娘だと言って人形を連れてくるようなことをするのではないかと思ってこの場に来ていたが、それは杞憂だったのだ。その代わりに大変な謎が生じてしまったが、それはそれだ。
これから精密検査をしに行く旨を篠原一家に告げてから、市宮は正司に言う。
「あの、失礼ですが、他の医療機関から預かっているカルテなどはありますか?」
「他の医療機関、ですか? 医者に掛かったのは市宮さんのところだけですので、市宮さんが持っているカルテと病院にあるものだけしかないと思いますが……もしかして、お薬手帳でしょうか?」
「いえ、ないのでしたら大丈夫です。失礼しました」
正司にそう言われ、市宮はこの件は自分の手に余ると考えた。
医師以外の手でカナデが治療されたのなら、それは医師法違反だ。しかし、相手は銀行頭取。情報が欲しいのならそれは上の者が聞くべきで、自分が深く関わるべきではない。
篠原家は初老の女性運転手が運転する車で、市宮は自分の車で病院へ向かった。
車を運転する市宮は混乱する脳内で、いくつもの可能性を考えていた。
娘を似た別人にすり替えたといった犯罪の可能性から、自分の知らない海外の最先端医療を受けたという現実的な可能性。そんな可能性の中で、あの噂が再び脳裏に蘇る。
「ファントム……本当に存在するのか?」
精密検査の結果、カナデの体にはどこも悪いところは見つからなかった。それどころか、同年代の女の子と比べても健康体だ。
最大の疑惑である別人説も血液検査で本人だと証明され、医師たちは頭を抱えた。
「あの、警察に通報はしないで良いんでしょうか?」
若手の医師の言葉に、診療部長が眉間にしわを寄せる。
「篠原氏は神から奇跡を貰ったと言っている。その真偽はどうあれ、ソレは我々にできないことをやってみせた。機械でもなんでもない本物の眼球の復元に、損傷した脊髄の完全治療だぞ?」
「でも、どこで治療を受けたかもわからないですし、医師法や薬機法に触れているんじゃ……」
「これほどの腕を持っているのに、無免許医なんてマンガみたいなことがあり得ると思うか? 人をここまで完全に治す薬があって、世の中に発表しないと思うか? それに彼女は……」
診療部長はそこで言葉を切った。
カナデが獄松組関連の怨恨で負傷したということは、一部の者しか知らないことなのだ。そんな少女が治り、治った原因がわからず、通報したのがこの病院だと知れたら、世間でどんな憶測が飛び交うか想像がつかない。下手をすれば、獄松組の命令でカナデに間違った治療を続けていたのではないかと疑われても不思議ではない。
一呼吸おいて、診療部長は少し言葉を変えて続ける。
「通報すれば、その人物が何者なのかはっきりするかもしれない。だが、その事実がウチの病院にどんな利益をもたらすのだ? ウチに残るのは、この病院に警察が頻繁に訪れた事実だけだ。もちろん、それは後ろめたいことのない調査協力だが、ヤクザとの癒着問題で大騒ぎの今のご時世で、その事実からいったいどういう噂が立つと思うね」
「……申し訳ありません」
「判断は上が下すことだ。お前らは決して関わるな」
そんな話を黙って聞いていた市宮は、いま、日本で何か大きなものが動き始めているような予感を覚えていた。
読んでくださりありがとうございます。
次回から8章へ入ります。
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