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かげろうの村  作者: 壱崎ノル
第二章 揺籃
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第二十話 月光の路地裏




矢津千は俺を見据えたまま、興奮冷めやらぬ息を肩で鳴らしている。


彼の言葉の余韻が場に満ち、俺は今、自分が何をしようとしていたかを理解した。


そうして見つめた右手の砲身からは、薄暗い煙が細く燻っている。空に登る前に霧散し、そして新しいうねりを生み出しながら、いつまでも湧き上がっている。


矢津千は足下に横たわるはくれをちらと見た。


彼女には既に何かを話す気力は残っていないようで、薄く開いた目で壁に背を預け停止している俺を見つめている。


しかしその目は、苦しみから解き放たれなかったという絶望の目ではなかった。


はくれの目はまだ、あの拙い光をその奥に秘めている。微かだが、確かに、まだ生きようという意思が。



彼女自身選びたくもなかった選択肢だったのだ。



「こいつの指示だったのか?」



俺は無言で返した。


「...だろうな。お前みたいな堅物がそんな物騒なこと思いつく訳がねぇ」


慰めを纏った皮肉を低く吐き捨てる。



「...俺は...どうしたら良い?」


震える膝をついて立ち上がりながら、掠れるような声で言う。


それは心の底から出た、真っ白な本音だった。


はくれはまだ、生を手放してはいない。彼女自身、それを手放してしまいたくなどないから...



「彼女を殺したくなければ、私に預けてくだされば良いのです」



祿菟がにこやかに語りかける。


...だがそうだからといって彼女を祿菟に引き渡すわけにはいかない。


それは、彼女が死よりも拒んだものだから。


しかし。



「ーーーこいつ(はくれ)はくれてやれ」



矢津千が下を向いたまま、俺に語りかける。


そのまま彼ははくれを腕に抱き上げた。


少し、眠っててくれ。


そういうと矢津千ははくれの首裏を親指でついた。はくれは一瞬白目を剥き、すぐに瞼を閉じた。


彼ははくれを抱えたまま歩き始めた。満面の笑みをたたえた祿菟の元に向かって。


俺はやっと、彼が何をしようとしているのかを悟った。


「......!!...お前、何を...!」


「まだ分かんねぇのか?お前はもう詰んでるんだよ。解毒剤を向こうが持ってる限り、お前はビビって何もできねぇ。奴だって生きたこいつでやりたいことがあるんだ、殺しはしないだろうさ」


そう言うと、また歩き始めようとする。


「させるかっ...!!」


全速力をもって、彼の前に飛び出してその腕を掴む。


「落ち着けよ、スクラップ」


「ーーー!」


俺はその手に込める力を緩めた。


矢津千が意味ありげな笑みで、こちらを見返していたからだ。


...その目を覗き込んだ時、俺は矢津千が何をしようとしているのか、分かった気がした。



この局面、思い返せば、俺にはすっかり忘れていたことがある。


それは、俺がこの場所に来た理由。



心の中で確信を得るまで随分と長い時間がかかった気がしたが、現実世界では数秒も経っていなかった。


「ーーー分かった」


俺は、はくれを遂に諦めた、という風に、矢津千の腕から手を離した。矢津千は正面を見たまま小さく頷き、祿菟の元へ向かう。


「そうしてくださると思っていました...私も、目の前で誰かが死ぬのを見たくはない」


彼は欺瞞の笑みを浮かべながら、外套から一つの何かの尻尾を取り出した。それは黒く、夜のわずかな光を反射して滑らかに光っている。


祿菟がそれを放り投げると、たちまちそれは超高速で細胞分裂を遂げ、三(メートル)ほどの黒い鮫のような生物に成長した。(えら)が一対側面に張り付いており、白く丸い目がいくつも並んでいる。空中の同じ地点にとどまることができるようで、尾鰭のような部位を横向きに揺らしている。


矢津千がはくれを抱えてそれの前まで歩み寄ると、祿菟は黒い生物に向かって言った。


河紗(がしゃ)開袋(かいたい)しろ」


河紗と呼ばれた生物は顔の下部を横一文字に切り開き口を作り、そのまま上下方向に大きく広げて穴を生成した。


矢津千がはくれを抱えた腕を伸ばしたと同時に、河紗は彼女の足の方向へと旋回し、一気に頭まで飲み込んだ。


その瞬間、体積が倍ほどに膨れ上がり、河紗はびちびちと嬉しそうに空を駆け回った。


その後間もなく河紗が祿菟の側へ戻ってくると、祿菟は腰を折って軽く辞儀をした。


頭を戻すと、彼は再びあの笑みを浮かべる。



「...それでは、彼女は一旦お預かりします。返却はいつになるか分かりませんが、その時が来たらご連絡しましょう...では、また後ほど」



俺は今すぐ彼の首を刎ねてやりたい気分でいっぱいだったが、なんとか堪え、祿菟の目を貫かんばかりの眼力でじっと睨んでいた。


祿菟は屋上の柵に飛び乗ると、そのまま飛び降り、一瞬で視界から消え去った。



・ ・ ・



夜の風が涼しく吹き抜けた。



「ーーーさて、と」


矢津千が口を開いた。


俺ではない誰かに向かって。


「仕事だぞ、クズ野郎」


小柄な男が、矢津千の言葉に答えて近くの物陰から姿を現した。



俺は自分の想像が的中していたことに安堵した。



こいつなら、あるいはうまくやってくれるかもしれない。



・ ・ ・



陽が落ちて随分と経つ、闇が支配する路地裏を、祿菟は河紗を携えて歩いていた。


笑いが止まらなかった。


 ここまでうまく事が進むとは。


ほくそ笑み、隣に浮遊する河紗に目をやった。


 ーーこの人間のサンプルがあれば、私の研究は基礎理論から最終結果まで全てをなぎ倒しにして答えを出すことができる。あのチンピラ共を脅してまで探した甲斐がありました...

...彼らには彼女を返すと明言してしまいましたが、どうせ彼らになす術は何もありませんーー元通りの状態で返す約束は向こうが破ったのだから、骨の一つでも送ってやれば気は済むでしょうーー


そう切りをつけることで、全ての問題は解決した。


あとは、帰路を急ぐのみだ。


山の向こうから顔を出した月明かりが、道脇の廃ビルに影を落とし始める。


()()がなければ、彼らをあそこまで追い詰めることはできなかった。やはり、持って来て正解でした。


そう思いながら、透明な液体の入った瓶を外套の内ポケットから探り出した。


中で揺れた解毒薬が、わずかな光を集めて美しく踊っている。




ーーあ、と気がついた時には、私の右手は空を掴んでいた。




解毒薬が、一瞬にして消え失せたのである。


今の今まで持っていたはずなのに。



路地の上で、たん、と金属音。


ばっと見上げると、小柄な人影が路地裏の壁を素早く駆け登っている最中だった。



その手には、液体の入った瓶。まさしく、今しがた消え去った解毒薬だった。



 やってくれますね、スリ風情が!



せっかく成功の悦に浸っていたというのに、ちんけな住民如きに気分を害された祿菟は、一瞬にして激昂した。


 他人の美しいものを見つけたらすぐに盗むような、手癖の悪い奴はいない方が良いですね。


にや、と気の()れたような笑みを浮かべ、外套から啖雷針(からす)を取り出しかけ、やめた。


 こんなやつに使ってやるまでもない。それに、啖雷針の爆発で解毒薬が破壊されてしまえば元も子もない。


祿菟は河紗に待機命令を出してから、大きく跳躍した。一瞬で、スリの登っていた壁につけられた階段へと到着する。



「消えなさい」



目にも止まらぬ動作で拳銃を取り出し、小柄な男に照準を合わせる。


しかしその時、月光が照らす男の顔に、もう一つの影が落とされた。



「こっちだぜ、おい」



「!!」



不意に、背後から声がしたかと思った瞬間、祿菟は衝撃波と共に大きく吹っ飛ばされた。




殴られた...!?



重力に引かれながら空を飛ぶ。



矢津千がスリの元へ着地した。


「うまくやってくれたな、スリ男。」


冷ややかな笑みを落とす。


「矢津千さんのいうことならなんでも出来ますよ。それと、私の名前は(いらか)です」


落ち着いた低い声で、ずる賢い笑みを浮かべながら男は言った。


・ ・ ・


「くっ...!」


祿菟は近くの建物に激突し、そのまま十米程の高さを落下していった。


落下の直前に受け身の体制を取り、緩衝。


瓦礫と煙の中、祿菟は声を張り上げる。


 河紗が養分としてはくれを取り込むことで、完全な姿よりは性能は劣ってしまうが、それなりに良質なサンプルは手に入る。彼らに本体を奪取されることは、何としてでも避けなければ。


「河紗、そいつを...」


言葉は最後まで続かなかった。


黒い二つの塊が、その通路に液体と共に転がっている。


末端はまだ痙攣しており、わずかな拍動の余韻に合わせて上下していた。



河紗は背中からその身を二つに引き裂かれ、息絶えていた。



そして、そこに人間のサンプルはなかった。


真逆(まさか)...!」


自分が殴り飛ばされた位置を見上げると、そこには零吉の姿があった。


その腕には、河紗の体液に塗れた人間が抱かれている。



ーーーしまった...!!



やられたと気づいた時には既に、何もかもを失っていた。


ついさっきまで全てがうまくいっていたと言うのに。


私がこの日をどれだけ待ち望んでいたと思っているのだ...!



ーー楽に死ねると思うなよ...!!



虚偽で繕った善の仮面が剥がされていく。


祿菟は、その本性を遂に露わにした。



「殺す!!お前の欠けらを一つ残らず灰にして食い尽くしてやる!!」



「ちょうど良かった」



右耳、そのすぐ真横で機械の声が聞こえた。


「な...!」


体が反射的に動くよりも早く、そのアンドロイドは祿菟の体を神速で蹴り飛ばした。


ずん、と辺りが張り詰め、直後にその体は血を撒き散らしながら真っ直ぐ吹っ飛んでいく。通りの一番奥のビルの一階に突っ込み、ガラスを破りながら転がって行く。


少し遅れて風が巻き起こり、小さな瓦礫を宙に舞わせた。空気の波がビルとビルの間を駆け抜ける。



「俺も同じことを考えていたところだ、祿菟」



その機械仕掛けの単眼はいつにも増して殺意を宿していた。



「だったら何です?」



祿菟はガラスの破片と瓦礫の中立ち上がると、言った。



「これで私を嵌めたつもりなら、大間違いですよ」


「それでも良い」



零吉は言った。



「間違いではないと気づく前に、灰も残らず消し飛ばしてやる」










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