第十九話 ここで
音の凪が場に満ちる。
男は手を顎に当てると、悠然と言った。
「おや、相談ですか。構いませんよ、これはあなたたちにとって大切な決断ですから。もちろん、私にとっても」
独り言のように語りかけてくる。だが、そんな戯れの如き呟きなど、聴力機関には入ってこない。
俺ははくれが今言った事を何度も自分の中で反芻し、そこに隠された裏の意図を汲み取ろうと足掻いた。しかし突き詰めれば突き詰めるほど、金剛石を探して砂漠を掻き分けるように、乾いた真実しか見出せなかった。
裏の意図。
ーーそれがなければ、俺は一体どうしたら良い?
彼女は視線で、早くしてくれと俺に訴える。秒を跨ぐごとに、忌々しい左肩の毒が全身を満たして行くのがみて取れた。腕を握る力は、次第に弱まって行き、ついにだらりと乗せているだけになっている。
「本当に...お前はそれで良いのか」
機械の声帯も感情を乗せるのだと、この時初めて気がついた。
頼むから、頷いてくれるな。
感覚の中の時は百倍にも引き伸ばされたように思えた。
しかし彼女は遂に、弱々しく、その華奢な首を縦に揺らした。
俺は思念の力が現実にはどんな影響も及ぼし得ないことを痛感した。
彼女が選んだのは、未知の生ではなく、確実な死だった。
ーーー俺のこの手で、今、ここで死ぬことを。
・ ・ ・
思うに、彼女の心は、黒錆の鉄の錘を吊り下げる一本の細い糸だった。
彼女は常に、あたらしい世界に喜びを見出そうと必死だった。
最も親しいものを全て、強引に引きちぎられるようにして奪われたことにすら意味を与えようとし、理不尽な暴力や自分を拒絶するものにも必死で耐え、この世界の一員になろうと必死で生きていた。
笑みはその表れだった。
彼女はことあるごとに朗らかな笑みを浮かべた。小さなことでも、美しいことでも、何でもないことでも。
涙は見せなかった。
見せないようにしていたのだ。
彼女が涙を見せる時は、決まって俺のいない時だった。悲しみの掃き溜め所はいつも虚無だった。
そうして無理に押しのけられた哀しみの感情は錘となってその細い糸に連なり、揺さぶった。糸は、必死に耐えていた。僅かな光をその身に湛えて。
彼女はそうして、生まれ変わった世界を歩んできたのだった。それは必死にもがいて幸せを掴もうとする、足掻きだった。
そうして懸命に生きてきた彼女が最後に手にしたのは、重なった全身の傷と、死か、恐怖かという二つの闇への切符だけだった。
ーー生きようとする努力も、掴もうとしていた幸せも、あまりにも残酷で、冷たい世界に撃ち抜かれたのだった。
「くそ......!!!」
俺は己の全てを否定したかった。
託されたことも約束したことも、何一つ守れなかった。もう、使命を遂げることができなかった俺には生きていて良い理由などない。これが終われば、俺も...
はくれの頭をそっと地面に置く。
「決まりましたか?」
「ああ」
俺は、右手を彼女の額に向けて突き出した。腕が波のように揺らぎ、金属が流動的に変形しながら手のひらに一つの穴を開けた。指は腕に収納され、一つの銃砲の様になった。
蓄積されていた動力を右手に注ぎ込み、圧縮。
穴が、少しずつ青く輝き始める。駆動音が少しずつ高鳴っていく。
「...?一体何を...」
祿菟は訝しむ様子で見ていた。しかし突然、気がついたようだった。そしてその顔に浮かんだ表情は、焦りだった。
「...なるほど、それは予想外でした」
細かく震える腕をなんとか抑えながら、動力を更に注ぎ込んでいく。
横たわる彼女の表情は、苦痛とも、安堵とも言い知れぬ、全ての感情を綯い交ぜにしたようだった。
ーー彼女を護るための腕で、彼女を殺めようとしている。
青かった光は砲身を漏れ出す白い光となり、辺りを照らしている。
祿菟は何もしようとはしなかった。何をしてももう、はくれを回収することはできないと悟ったらしい。
甲高いノイズが最高潮に達した。腕の内側で発射器官が回転を始めたのが分かった。
俺はなんと......無力なんだ。
漏れ出た光が勢いよく点滅し、圧縮された破壊の渦が、腕の中を高速でくぐり抜けていく。
光に照らされた彼女の最後の顔は、笑みだった。全てが終わる、その瞬間までーー
場に光が満ちる。
・ ・ ・
しかし凝縮された破壊の光の渦は、煙のようにぶしゅりと解け、細く揺らめいて消えた。
俺の腕は、全くあらぬ方向を向いていた。気がつけば、全身が宙に浮かび、天と地が交互に視界を飛び交っていた。
地面を何度か跳ね、壁にぶつかって静止した。
誰かに思いっきり殴られたのだ、と理解するのに、しばしの時間を要した。
ーー男の叫びが聞こえた。
「簡単に捨ててんじゃねぇよ、この大馬鹿野郎が!」
矢津千が拳を振り下ろしたまま、光る目で睨みつけていた。




