第53話 大図書館
晩餐会から一夜明けたソフィアは、ハシムに付き従って帝都の案内を受けていた。
「これが、帝都の大図書館……」
ソフィアがそう言って見上げた先には、天井近くまで巨大な本棚が伸びていた。
「ふふん、凄いでしょ!」
ソフィアの隣では、カタリナが手を腰に当てて自慢げな様子で言い放つ。
「なぜお前が偉そうにするんだ。阿呆め」
ハシムはそう言ってカタリナに呆れ果てた視線を向ける。そんなやり取りを聞きながら、ソフィアは興味深そうに周囲を見渡していた。
「王城の図書室とは、明らかに違いますね。あんなに高くまで……」
「この図書館は世界最高峰ですからね。大帝国時代のものもありますよ」
ラルがそう説明すると、ソフィアは「そうなのですね!」と顔を近づけて応じた。
あまりの距離の近さに、ラルは少し頬を染める。ハッと我に返ったラルは、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません、殿下……」
「はぁ……。ラル、私はその程度で嫉妬するような男に見えるのか?」
「い、いえ……。そのようなことは……」
そう言い淀むラルに、ハシムは冷淡に言い放つ。
「ならば、いちいちくだらぬことで謝るな」
「でも、ライラに男が近づけば、嫉妬しますよね?」
背後からカタリナが余計な一言を差し挟むと、ハシムの動きがピタリと止まった。
しばらくの沈黙の後、ハシムは淡々とした口調で静かに告げた。
「そうか……、最後に言いたいのはそれだけか?」
「ちょっと……、冗談に聞こえないんだけど……」
「冗談じゃないぞ? 私には、必要があれば一度取り消したお前の罪状を元に戻せる権限がある」
ハシムの真剣な言葉に、カタリナは慌てて懇願する。
「ちょ、それだけは勘弁して!」
「それが嫌なら、口を慎んでおけ、阿呆め」
ハシムが容赦なく吐き捨てる。そんな二人のやり取りにソフィアが困惑していると、そこへ新たな声が響いた。
「先程から騒がしいぞ! 何をしている、お前たち!」
全員が視線を向けた先には、頭の禿げ上がった中年男性が立っていた。
「これは失礼、サイモン司書長。騒ぎ立てるつもりはなかったのですが」
先頭に立つハシムがそう応じると、サイモンと呼ばれた男は「は、ハシム殿下!」と目の色を変え、慌てた様子でハシムの前へと駆け寄った。
「まさか殿下自ら、このような場にお越しいただけるとは……」
深々と頭を下げるサイモンに、ハシムが言葉を返す。
「そう畏まるな。こちらは、ただの帝都観光だ」
「観光……、ですか……?」
「姫を案内している最中でな」
ハシムの言葉にサイモンが顔を上げると、ソフィアの姿が目に留まった。「なるほど……、レークランドの……」と、納得したように低く呟く。
「では、私めが案内などを……」
「不要だ。手を煩わせるつもりはない」
言いかけたサイモンの言葉を、ハシムはきっぱりと遮った。
「そ、そうですか……」
サイモンは表向きは落胆した様子を見せたが、その内心ではハシムに対する激しい苛立ちを募らせていた。
「これ以上、騒ぎ立てるつもりはない。これにて失礼する」
ハシムはソフィアを伴い、サイモンの脇を通り抜けて図書館の奥へと進んでいく。
サイモンは深く頭を下げてその背中を見送っていたが、そこへ背後から声をかける者がいた。
「おやおや……。そこにいるのは、我が敬愛なる司書長殿ではありませんか!」
わざとらしいほどに煽るような声色で話しかけてきたカタリナに、サイモンは拳を強く握りしめながら振り返った。
「貴様は……、カタリナ……!」
「どうも、お久しぶりですね、サイモン司書長」
ハシムへの苛立ちの遠因とも言えるカタリナを前に、サイモンは平然を装おうとするものの、わずかに体が震えるのを抑えきれない。
「元気にしていましたか? 私は見ての通り、元気でやっていますよ?」
「貴様……、一体何の用だ。くだらぬ用件であれば叩き出すぞ……」
「そう邪気にしたものでも……。ここには、殿下のお供として来ているのですよ」
「そうか……、噂には聞いていたが。死にかけのお前が、ハシム殿下の側仕えとはな」
サイモンは皮肉をたっぷりと込めて言い返す。
「ええ、まったく。反帝国を訴えていたはずが……、何の因果か、体制側に回るとは……。人生、何が起こるか分からないものですね?」
「それよりも、司書長殿はどうですか? 今は出世して、帝城の図書室勤めにでもなったのですか?」
カタリナの嫌味な問いかけに、サイモンは沈黙した。その様子を見て、カタリナはニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「あ、ごめんなさい。帝城の図書室勤めになったのは、私の方でした!」
「大図書館に勤めた歴代の司書長は皆、帝城勤めを経て引退したというのに、今じゃ立場が逆転してしまいましたね、サイモン司書長?」
あからさまな煽りをぶつけるカタリナに、しばらく耐えていたサイモンが、ついに重い口を開いた。
「お前……、まだ根に持っているのか? 処刑されかけたお前を見捨てたことを……」
サイモンがそう言い放つと、カタリナは一瞬沈黙し、それから言葉を返した。
「それこそまさか……、あれは私の自業自得ですよ」
「そうか、それならいい。だが……、恩を仇で返したことは許していないからな。孤児のお前を拾い上げ、育ててやった恩を忘れおって……」
サイモンが忌々しげに昔話を口にすると、ムッとしたカタリナが鋭く言い返す。
「恩を忘れてほしくないのなら、それに相応しい育て方をするべきでしたね」
「奴隷のような扱いに、酷い食事……。あれで恩を忘れるなとは、司書長ともあろう御方がよく言えたものです……」
「黙れ! 恩知らずが!」
激昂して怒声を上げるサイモンは、ふとカタリナの背後に隠れる小さな影に気づいた。
「お前……、ラルか……?」
その問いかけに、ラルは身をすくませながら、おずおずと姿を現した。
「そうか……。いきなり飛び出していったきり、野垂れ死にしたと思っていたが……。お前もあの殿下の子飼いになったというわけか……」
恐怖に身を震わせながらも、ラルはか細い声で挨拶を述べた。
「ご、ご無沙汰しております……、サイモン司書長……」
「良いご身分だな、ラル? どうやら、恩知らずが仕え始めるのに、最適な場所を見つけたようだな」
容赦のない皮肉を浴びせられるラルを庇うように、カタリナが一歩前に出る。
「その言葉……、ハシム殿下への侮辱ですか? 不敬罪を適用してもいいのですよ?」
「そんなわけがあるまい……。都合の良い時だけ殿下を免罪符にするお前の方が、よほど不敬だと思うが?」
サイモンの痛烈な反論が刺さったのか、カタリナは言葉に詰まる。二人はしばらくの間、無言のまま激しく睨み合いを続けた。
「カタリナさん、もう行かないと……」
一触即発の空気を破るように、ラルが静かに声をかけた。
「そうね……。これ以上は時間の無駄ね……」
「ああ……、珍しく意見が合ったな……」
サイモンとカタリナは冷ややかに言い合うと、示し合わせたわけでもなく、互いに反対方向へと歩き出した。
別れの挨拶すら交わさずに決別した二人。その様子に困惑しつつも、ラルは慌ててカタリナの背中を追おうとした。
「おい、ラル……」
その足を、サイモンの低い声が呼び止める。
「今戻ってくれば、カタリナと違って、お前だけは許してやる。どうだ?」
サイモンのその言葉に、ラルは足を止め、少しの間考えを巡らせてから向き直った。
「お断りさせていただきます。今の職場には満足しているので……」
きっぱりと言い放ったラルに、サイモンは振り返ることなく「そうか……」とだけ呟き、そのまま去っていった。
サイモンのその反応に、ラルは形容しがたい違和感を覚えた。しかし、その正体が掴めぬまま困惑していると、前方から声が飛ぶ。
「ラル! 置いていくよ!」
「ま、待ってください!」
カタリナの呼びかけに、ラルも駆け足でその場を後にした。
去り際にふと振り返り、遠ざかるサイモンの背中を見つめたラルは、心の片隅に微かな嫌な予感を覚えるのだった。
同じ頃、怒りを孕んだ足取りで自室へと戻るサイモンの姿があった。
「あ、あの、サイモン司書長……」
「今はやめておけ……」
声をかけようとした女性司書を、年配の男性司書が慌てて制する。
「あの露骨に不機嫌そうな顔……。今日は声をかけない方が身のためだぜ」
「そ、そうね……」
二人の司書が囁き合う中、サイモンは周囲を一瞥もせず自室へと入り、扉を乱暴に閉めた。
「あのイカレ女……! あの半血共々……、人の精神を逆なでしおって……!」
椅子に深く腰掛けたサイモンは、怒りをぶちまけるように悪辣な言葉を吐き出す。
「あまり怒ると、また髪が抜けますよ? サイモン司書長」
突如、部屋の隅の暗がりから男の声が響いた。しかし、サイモンはその異常な状況に驚くこともなく、ただ忌々しげに視線を向けた。
「またお前たち……、ヒシャーム家か……」
サイモンが睨みつけた先には、目元だけを露出させた黒衣の男が静かに佇んでいた。わずかに見える肌は、独特の褐色を帯びている。
「クドいぞ、あれを渡す気は無いと言ったはずだ」
「ですがそれは、昨日までの話……、なのでは?」
黒衣の男が見透かしたように告げると、サイモンは激しく舌打ちをした。
「確かにそうだ……。認めたくはないが、あの女に会って気が変わった……。お前たちの取引に応じてやる」
「それは何より……。当主様もお喜びになります」
黒衣の男が淡々と返すと、サイモンはさらに表情を険しくする。
「だが当然、こちらの条件も飲んでもらわねば困る……。それは分かっているな?」
「ええ……。その条件を当主様が受け入れるかは、また別の話ではありますが……」
男の不遜な態度に、サイモンは再び舌打ちを浴びせた。
「別に、この国が欲しいなどという、大層な願いではない。あの女を連れてくれば、それでいい……。動けない状態のな」
サイモンはそう付け加えながら、下劣な笑みを浮かべた。
「分かりました。現物が手に入れば、こちらとしても問題ありません。次に来た時にご用意いただければ……」
そう言い残すと、黒衣の男は気配もなく、煙のように部屋から消え去った。
「ふん……、ヒシャーム家ね。奴らが何をしようが、私には関係ない。たとえ国の支配者が変わろうとも、今の生活が続きさえすればな……」
サイモンは独りごちながら金庫を開け、一枚の古い紙切れを取り出した。
その紙に描かれていたのは、何らかの建物の設計図らしきものだった。サイモンは、それをそれほど興味もなさそうに、ただじっと見つめる。
「こんな紙切れ一枚に、あのヒシャーム家がわざわざ動くとはな……。まあいい……。存分に利用させてもらうとしよう……」
サイモンは傲慢な笑みを浮かべた。
それが、自らを破滅の道へと導くとも知らずに……。




