第31話 覚悟の在り方
ヘルマン将軍に殿を任せたカーチス王子は、護衛兵と共に山林の中を必死に敗走していた。
すぐ側では、先に敗走していた兵士たちが互いを支え合いながら、命からがら後退していく。しかし、一部の兵士は絶望したように木々の傍らでうずくまり、ある者は木にもたれかかったまま、受けた矢傷によってすでに息絶えていた。
カーチスはそんな無残な光景を目にし、自身の愚行が招いた代償を痛感しながらも、ただ恐怖に駆られて馬を走らせる。
その時、突如として馬の体に矢が深く突き刺さった。激しい嘶きと共に、カーチスは地面へと勢いよく放り出される。護衛の兵士たちが慌てて足を止め、カーチスのもとへと駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 王子!!」
しかし、カーチスがまともに体を起こすよりも早く、追撃の石弓が鋭く空を裂いた。護衛の兵士たちは次々と矢に射抜かれ、まともな抵抗もできずに落命していく。
カーチスはすぐさま立ち上がろうとした。だが、うまく体に力が入らない。必死に足を動かそうとするたびに激痛が走り、苦痛に顔を歪ませる。
「だ、誰か助けを!」
手を伸ばして周囲へ助けを求めるが、容赦なく降り注ぐ矢の雨に、兵士たちは我先にと逃げ惑うばかりだった。誰一人として王子の声に振り返る者はいない。
絶望したカーチスが伸ばした手を力なく地に落としたその時、目の前に遮るようにフウカが姿を現し、その顔を冷ややかに覗き込んできた。
「こんにちは、ブタの王子様」
フウカはそう言い放つなり、驚愕に顔を上げたカーチスの顔面へと強烈な一撃をお見舞いし、問答無用で気絶させた。
その容赦のない光景を目の当たりにしたフウカの部下が、思わず引き気味に尋ねる。
「ええっと……。いいのですか……?」
「ハシムは連れて来い、とだけ言った。無傷でなんて言っていない」
淡々と返すフウカの言葉に、部下は「それはそうかもしれませんが……」と言葉を濁し、内心で深くドン引きするしかなかった。
それからしばらくして、ハシムは戦後の事後処理に追われていた。そこへ伝令兵が息を切らせて飛び込んでくる。
「失礼します殿下、負傷者数の報告を。死者が一名、重傷が三名、他軽傷が三十四名。以上です」
その報告を受け、ハシムは静かに頷いた。
「そうか……。ご苦労だった」
労うハシムの表情には、微かに曇りが生じていた。その様子を側で見守っていたアンジェが、特に気負う風でもなく声をかける。
「そう落ち込まなくてもいいのでは?」
「はぁ……。今、お前のように気楽に考える余裕はない」
ため息交じりに返すハシムに、アンジェはあっけらかんと答えた。
「そんな真剣に考えなくても……。これは戦争なんですから、死人の一人や二人は出ますって」
「……確かにそうだな。地獄行きはもう決まっている。ならば、いちいち感傷に浸るのも手間か……」
自嘲気味に呟くハシムの視界には、ウェルシュ兵の死体が次々と並べられていく凄惨な光景が映っていた。
「そうです! 殿下は死体の山に立ち、そこで高笑いをするのがお似合いです!」
「お前は一体、俺にどんな幻想を抱いているんだ……」
物死に物騒な太鼓判を押すアンジェに、ハシムは引き気味に突っ込みを入れるのだった。
それからさらに時間が経過した頃、フウカがハシムに声をかけた。ハシムが振り返ると、そこには両脇を兵士に抱えられ、引きずられるように連れてこられたカーチスの姿があった。
「連れてきたよ、ハシム」
フウカが目配せをすると、兵士たちは拘束していた手を離す。カーチスはその場へと無様にへたり込んだ。
へたり込んだまま顔を上げたカーチスは、ハシムの姿を視界に捉えるなり、懇願するように両手を突いて頭を垂れた。
「は、ハシム皇子殿下……。降伏いたします、ですのでどうか命だけは……!」
必死に頭を地面に擦り付けるカーチスを、ハシムは無表情のまま冷ややかに見下ろす。
そんなハシムの様子を横目に、アンジェが下卑た笑みを浮かべながら、まるで芝居がかった三下のように問いかけた。
「へへへ……。殿下、こいつどうしやす?」
その見え透いた演技に呆れつつ、ハシムは小さくため息をついて口を開いた。
「作戦に変更はない。予定通り、こいつの首を貰う」
冷酷に言い放たれた言葉に、カーチスは顔面を蒼白に染めてハシムの足元へと縋り付く。
「ど、どうか! 御慈悲を……!」
「無礼者め!」
アンジェが縋り付くカーチスを容赦なく蹴り飛ばした。
しかし、カーチスは転がりながらもなお、必死にハシムの足へと手を伸ばそうとする。その見苦しい姿に呆れ果てたアンジェは、槍の先を突きつけてこれ以上の動きを牽制した。
ハシムはなおも懇願を続けるカーチスの姿を見つめながら、淡々と語り始める。
「カーチス王子、残念ですがすでに手遅れなのです。私の立てた計画は、別働隊の指揮官を討ち取り、その事実と首を持って伝令に扮して敵の本陣に入り込む、というものでした」
「なので……正直に言えば、あなたの首でなくとも構わないのです」
ハシムの言葉に、カーチスは一筋の希望を見出したように顔を上げた。
「そ、それならば……!」
「ですが、本音を言うと……私はあなたが嫌いなんですよ、王子」
その痛烈な一言に、カーチスは「えっ……」と言葉を失い、開いた口が塞がらない様子で呆然とする。
「何を驚かれているのです? 私にはあなたを好きになる瞬間など、万に一つもありませんでしたよ」
「そもそも、あなたが身勝手な立ち振る舞いをしておらねば、この戦争など起きてすらいなかった」
「正直に申し上げますと、私はいくつかの国を帝国領にしようと画策していました。あなたの国もその一つです」
「そんな画策の中で、あなたを王座から蹴落とす算段もいくつか用意していました。ですが、そんな私の策謀すら飛び越えて、無謀に動いたのがあなたです、カーチス王子」
ハシムから突きつけられる冷酷な事実に、カーチスは返す言葉もなく、ただ黙って聞き続けるしかなかった。
「あなたが愚か者ではなく、賢王エドワードの息子として恥じない立ち振る舞いをしておれば、婚姻の破棄には至らず、私の計画は破綻していたでしょう」
「ですが、結果として婚姻は破棄された。だから私は、あなたをこの先不要な人間として『処分』することを決めた……そういうことです、王子」
ハシムが放った無慈悲な宣告に、カーチスは「しょ、処分……」と呟き、その言葉の意味を頭の中で恐ろしく反芻させる。
「つまり、あなたは私にとって不要な存在なのです。分かっていただけましたか、王子?」
淡々と追い詰められたカーチスは、なりふり構わず大声を張り上げた。
「ま、待ってくれ! ウェルシュを帝国領にしたいというなら、私はそれに従う!」
「フッ……。それは随分と興味深い提案ですな」
ハシムの微かな反応に、カーチスは生への希望を見出したかのように笑みをこぼした。しかし、ハシムの次の一言によって、その希望はあっさりと打ち砕かれる。
「ですが……あなたには覚悟が足りないように思えます」
「そ、そのようなことはない!」
必死に取り繕うカーチスを、ハシムは冷徹な眼差しで見据えた。
「本当ですか? 先ほどあなたが仰ったことは『売国』を意味します」
「本気であるならば、あなたが排除すべき敵は、実父であるエドワード王や弟の王子たちになる。それでも、身内を相手に戦う覚悟があるのですか?」
そう突きつけられ、カーチスは「そ、それは……」と言い淀む。
「残念ですが、王子。今の地位を放棄してまで身内と戦う覚悟がなければ、私の『国崩し』には付き合えませんよ」
ハシムの言葉に、カーチスは完全に肩を落として黙り込んだ。そんな無残な姿を見切り、ハシムは静かに手を上げる。
「抑えろ」
ハシムの合図とともに、控えていた兵士たちがカーチスの両肩を力任せに抑え込んだ。無理やり跪かされ、地面に手を突かされた状態で、カーチスは必死に叫ぶ。
「ま、待て! 捕虜を殺すのは人道に反している!」
「はぁ……。王子、人道を持ち出すのであれば、村の焼き討ちなどするべきではありませんでしたね」
その指摘に、カーチスは己のしでかした大罪の重さにようやく気づかされ、「そ、それは……」と言葉を詰まらせたまま、ガックリと項垂れて頭を地面につけた。
「では、最後は私自らの手でお送りしましょう」
ハシムが静かに剣を抜くと、その銀光を目にしたカーチスの顔面は蒼白に染まった。
「そのまま抑えておけ」
ハシムが兵士たちに指示を出しながら一歩一歩近づいてくる。カーチスは死への恐怖から、全身をガタガタと震わせることしかできない。
「ご安心ください、王子。首を切り落とすのは初めてではありません」
「先ほどの戦いで、ヘルマン将軍の首も落としてきたところです。きっと痛みを感じる暇もなく逝けますよ」
その非情な宣告に、カーチスは半狂乱になって必死の抵抗を試みる。しかし、屈強な兵士たちに両肩をがっちりと抑え込まれており、まともに身動きすら取れなかった。
絶望するカーチスの首元へと歩み寄ったハシムは、容赦なく剣を振り上げる。
「ま、待てっ……!」
カーチスが何かを言いかけるよりも早く、鋭い刃が振り下ろされた。カーチス王子は言葉を紡ぎきる間もなく、その場で息絶えた。
それから、次なる作戦の準備に追われるハシムのもとへ、カタリナが歩み寄って声をかけた。
「どうですか殿下……? 準備はできましたか……?」
問いかけるカタリナの声色には、明らかに濃い疲労の色が滲み出ていた。
「フッ……。どうしたカタリナ? 今にも死にそうな顔をして。寝不足か?」
どこか茶化すように笑うハシムを、カタリナは鋭く睨みつける。
「殿下……。分かって仰っていますよね……?」
「さて、何のことだか。軍師気取りの阿呆が、凄惨な戦場を知って呆然とした……そんな笑い話、俺は知らないぞ」
意地悪く返すハシムを、カタリナはなおも無言で睨み据えた。その頑なな態度に、ハシムは小さく肩をすくめる。
「フッ……。悪かった、侮辱する意図はない。ただ、《《最後の》》冗談を言いたい気分だっただけだ」
「最後、なんて……」
カタリナは不安そうにその言葉を呟き、ハシムの横顔を見つめた。
「まあ……正直に言うと、こんな無茶な作戦は実行するべきじゃないな」
「殿下がそれを仰ったらお終いでは……?」
呆れたように突っ込むカタリナに、ハシムは少し寂しげな笑みを浮かべた。
「くく、確かにそうだな。だが、俺自らがやらねばならないのだ。今後のためにもな……」
「今後の……」
カタリナはその言葉を小さく復唱し、さらに言葉を続ける。
「殿下……。やはり、この作戦は止めるべきです! どうしても実行するというのなら、アンジェやフウカ辺りに任せれば……」
「悪いが、その段階はとっくに過ぎた。あとは実行するのみだ」
頑ななハシムの態度に、カタリナは「殿下はどうしてそこまで……」と悲痛そうに呟いた。
「殿下……。今後のことを考えるのならば、殿下には生きていただかねば! 殿下はいずれ帝国を……世界を巻き込んで……」
「そこまでだ」
必死に声を張り上げるカタリナを、ハシムは短い一言で制し、静かに黙らせた。
「それ以上は言うな。お前が一番よく知っているはずだ。俺がお前に最初に会った時に言った言葉。それは、ライラにすら言ったことのない俺の本心だ」
「それを知っているのはお前だけだ。それには重要な意味がある。たとえ俺が死んでも、我が志を引き継ぐ者がいる……それだけでも少しは気が楽になるものさ」
ハシムから「お前はそれだけ重要な存在だ」と真っ直ぐに告げられ、カタリナは急に気恥ずかしくなったのか、慌てて目を逸らした。
「はぁ……、まったく……。その言葉、後でライラにも言ってあげてくださいね」
「さて、どうだか」
はぐらかすようなハシムの返答に、カタリナは呆れたように小さくため息をつくのだった。
「殿下、準備はできましたか?」
スレイからの問いかけに、ハシムは「ああ」と答えて振り返った。その身には、ウェルシュ軍の伝令兵の軍服が纏われていた。
「本当に、殿下自ら行かれるのですか……?」
なおも心配を隠せない様子のスレイに、ハシムはただ「ああ」とだけ短く返した。スレイはしばらく黙考したのち、主君の固い覚悟を汲み取るように、無言で深く敬礼を捧げた。
そこへ、アンジェがフウカの首根っこを掴みながら不満げに歩み寄ってくる。
「殿下、本当にこいつを連れて行くんですか?」
「いい加減にしろ!」
フウカは鋭く叫ぶと、アンジェの足の甲を力任せに踏みつけて強引にその手を解放させた。
足を踏まれても眉一つ動かさないアンジェは、ハシムに向けて必死に食い下がる。
「殿下の代わりを務められないのなら、せめてフウカの代わりに私を……」
「くどいぞ。今度の作戦に必要なのは武力ではない、隠密と器用さだ。敵地への潜入と脱出。それにはフウカが最も都合が良い」
「それなら、三人目の同行者として……!」
「それは無理だ。伝令が三人以上で行動することはあり得ない。余分な人員を連れて行く余裕はない。それにお前は良くも悪くも目立ちすぎる」
ハシムに冷たく諭され、アンジェはがっくりと肩を落とした。フウカはその横で、勝ち誇ったように嘲笑の口角を上げる。
「さて……無駄話はこれで終わりだ。エドワード王をこれ以上待たせるわけにはいかないからな」
ハシムはそう言い残し、慣れた手つきで馬に跨った。その鞍には、白い布に包まれた『何か』が固く括り付けられており、そこから不気味な赤黒い血がじわりと滲み出ていた。
フウカもハシムに続くように、もう一頭の馬へと跨る。そんなフウカの側へと、アンジェが音もなく近づき、その腕を強く掴んだ。
「もし殿下を見捨てるような真似をしたら、地の果てまで追いかけて殺してやるからな」
低い声で脅しをかけるアンジェを、フウカは鼻で笑ってあしらう。その態度が気に入らず、アンジェがさらに鋭く睨みつけたところで、見かねたスレイが慌てて二人の間に割って入った。
そんな騒がしいやり取りを馬上から見下ろし、ハシムは呆れたように言い放つ。
「俺が死んだ後のことを今から話すな、阿呆ども」
そこへ、カタリナが静かにハシムの馬へと歩み寄り、切なげに視線を見上げた。
「どうか、ご無事で……」
「ああ、分かっている」
「きっとライラも、無事を祈っています」
カタリナの言葉に、ハシムはふっと目を閉じ、しばらく何かを噛み締めるように黙り込んだ。
「ああ……そうだな。その言葉が、一番堪えるな……」
ハシムは小さく呟いて目を開けると、静かに拳を掲げ、馬の腹を蹴って駆け出した。フウカの馬もその後を追う。
残された者たちの期待と不安をその背に背負いながら、ハシムは森林の向こう側へと力強く消えていった。




