第30話 帝国の方陣
カーチス王子の号令と共に歩兵が駆け出すと、近衛師団側からも鋭い号令が掛かった。
「全員構えよ!!」
アンジェがそう叫ぶと兵士たちの目つきが一変し、一斉に盾が組まれて突撃に備える。
「そのままだ! この位置を死守しろ!」
アンジェの号令からしばらくすると、駆け出したウェルシュ兵の顔がはっきりと識別できる距離まで近づいてきた。
ウェルシュ兵が近衛兵の構える盾に激突すると同時に、金属同士がぶつかり合う轟音が辺りに響き渡る。
一斉に盾へとぶつかった衝撃は、後方の兵たちへも伝播していった。
「一歩も退くな! そのままの位置を維持しろ! 前の奴の背中を支えるんだ!」
その号令を聞いた近衛兵たちは歯を食いしばり、押し込もうとするウェルシュ軍の猛攻を必死に耐え忍ぶ。
「いいぞ! もっと押し込め!」
反撃せずひたすら耐える近衛兵を見て、ウェルシュ軍の歩兵隊長は「敵は耐えることしかできない」と判断した。
勢いづいたウェルシュ軍は、二つに分かれた方陣の隙間へと入り込み、さらに戦線をこじ開けようと試みるのだった。
カーチス王子は、その戦闘の様子を遠方から眺めていた。
「ここからではよく分からぬな……」
そう嘆くカーチスに、ヘルマン将軍が進言する。
「今からでも兵を引かせるべきです、王子」
「くどいぞ将軍、もう始まってしまったのだ。今更、兵を退くなどできぬ」
そう言い放つカーチスに対し、ヘルマンは複雑な表情を浮かべた。そこへ伝令が息を切らせて飛び込んでくる。
「報告します! 歩兵隊は方陣の隙間に入り込み、前進している模様です!」
その報告を聞いたカーチスは上機嫌に声を弾ませた。
「おお、いいぞ」
しかし、ヘルマンは声を張り上げた。
「なんと愚かな!」
「将軍? 何を焦っているのだ?」
状況が理解できないカーチスは、不思議そうにヘルマンへ尋ねる。
「王子……。二つの方陣にあるあの隙間は、弱点などではございません」
「通常、陣形の隙間は騎兵や伝令を通すためのもの。戦闘が始まれば通常は塞ぎます」
「ですが、意図的に開けられたあの隙間は、敵を誘い込むための罠です」
そう説明するヘルマンに、カーチスは思わず聞き返した。
「それは本当なのか?」
「はい。元々、帝国式の方陣は、台頭した騎馬民族に対する戦術が元になっています」
「全方位に槍を突き出して牽制したのち、わざと隙間を作ることで騎馬の進路を誘導し、優位な地形や陣形に誘い込んで封じ込める……というものです」
「それが正しいのであれば……すぐに知らせなくては……」
焦り出すカーチスに、ヘルマンは首を振った。
「手遅れです。おそらく、もう……」
その言葉を聞いたカーチスは口を開けたまま、改めて戦場へと目を向けた。
二人がそんな会話を交わす少し前。調子づくウェルシュ軍は、二つの方陣を隙間から包囲すべく、陣形の間を駆け抜けていた。
「いいぞ! そのまま進め!」
歩兵隊長はそう声を張り上げながら突き進む。ウェルシュ軍がしばらく進み、陣形の奥へと差し掛かった頃、近衛師団のアンジェのもとへ報告が入った。
「隊長、敵は予定通りの位置に」
「よろしい。始めよう」
アンジェの言葉を受けて、兵士が信号旗を激しく振る。すると、隙間を進んでいたウェルシュ兵の行く手が、突如現れた盾持ちの兵たちによって塞がれた。通路は瞬く間に袋小路へと変貌する。ウェルシュ兵が困惑して足を止めたその瞬間、耳を劈くようなアンジェの号令が響き渡った。
「攻撃せよ!!」
その苛烈な声にウェルシュ兵が身を竦めた次の瞬間、盾の隙間から一斉に槍が突き出された。悲鳴を上げる間もなく、ウェルシュ兵は次々と血を流して倒れていく。困惑する歩兵隊長が状況を把握するよりも早く、次なる猛攻が仕掛けられた。
「こ、これは……!」
驚愕に目を見開く歩兵隊長に向けて、正面の盾越しから石弓が放たれる。
「がっ!!」
歩兵隊長は事態を飲み込む間もなく、放たれた矢に目を射抜かれ、崩れるように倒れ込んだ。盾の向こう側では装填手と射撃手が息の合った連携を見せ、絶え間ない射撃がこの『死の回廊』へと浴びせられる。
「に、逃げろ!!」
誰かの悲痛な叫びを合図に、生き残った者たちは一斉に入口へと引き返し始めた。しかし、すでに手遅れだった。無残な骸に躓いたある兵士の目に映ったのは、まさに地獄そのものの光景であった。
同じ頃、前線でもアンジェの号令を受けた最前列の兵たちが、盾に張り付いていた敵兵を力任せに吹き飛ばす。その隙を逃さず、後列の兵士たちが一斉に槍を突き出した。深く刺し貫かれた兵士たちが悲鳴を上げて倒れ込む。
予期せぬ猛反撃に足を止めたウェルシュ兵へ、近衛兵たちは剣を抜いて容赦なく襲いかかった。ウェルシュ兵はろくに刃を交えることもできず、次々と斬り伏せられていく。
その凄惨な光景に恐怖し、後ずさりした一人の兵が背を向けて走り出した。その一人の敗走に引きずられるようにして、ウェルシュ軍は一斉に瓦解し、逃走を始める。
「逃がすな! 射ち掛けろ!」
アンジェの的確な号令に従い、石弓に切り替えた兵士たちが一斉に引き金を引いた。近衛師団による執拗な追撃を受け、ウェルシュ兵は必死に逃げ惑うしかなかった。
「報告します! 味方が敗走を始めました! また、歩兵隊長は姿を確認できず、戦死した模様です!」
その悲痛な報告を聞き、カーチスはがっくりと項垂れた。その姿を一瞥し、ヘルマン将軍が即座に号令を掛ける。
「弓兵! 歩兵の撤退を援護せよ!」
ヘルマンの激に呼応して弓兵たちが前進し、一斉に矢をつがえた。
「放て!」
号令とともに、無数の矢が空を覆う。前に出た敵の弓兵を視界に捉え、アンジェも素早く指示を飛ばした。
「盾を掲げよ!」
近衛兵たちは速やかに防御陣形へと移行する。頭上に掲げられた盾の壁へと、容赦なく矢の雨が降り注いだ。その防壁のなかに、カタリナの姿もあった。
「ひいいいいっ!」
情けない悲鳴を上げるカタリナに、隣にいたスレイが鋭く呼びかける。
「絶対に頭を上げないで! それから、盾に顔を近づけすぎないように!」
「なんでよ!」
「貫通することがあるから」
スレイが淡々とした様子で答えた直後、激しい音を立てて一本の矢が盾を突き破り、カタリナの足元へと突き刺さった。恐怖のあまり気絶しかけるカタリナの身体を、スレイは素早く支える。
「なんで戦場で子守なんかを……」
スレイはそう呟くと、深くため息をついた。
「王子……。今すぐ全軍で撤退を……」
苦渋の表情で進言するヘルマンに対し、カーチスは激昂して顔を上げた。
「まだだ……。まだ負けてはおらん!」
カーチスはすぐ隣に控える者に声を荒らげる。
「騎兵隊長!」
「ははっ!」
騎兵隊長が即座に応じると、ヘルマンが慌てて割って入った。
「王子! なりませぬ!」
「このまま負けっぱなしなど、私が納得できん!!」
カーチスはヘルマンの制止を撥ね付け、非情な命令を下す。
「騎兵隊長! 敵を蹴散らしてこい!」
「はっ!!騎兵は我に続け!!」
その言葉を合図に、騎兵隊長が馬を駆り立てる。こうして、ヘルマンの必死の制止を無視した無謀な騎兵突撃が始まった。
同じ頃、その光景を遠方から見つめる者がいた。残りの騎兵二百を率いて森林に潜伏していた、ハシムである。
「ここまで、殿下の読み通りですね……」
傍らに控える兵士が囁くと、ハシムは静かに応じた。
「ここまではな……」
ハシムの視線の先には、降り注ぐ矢の雨を盾で防ぐ近衛兵たちの姿があった。彼はその様子を複雑な表情で眺めていたが、突然、兵士が声を潜めて指を差した。
「殿下! あれを!」
その指の先には、集結して突撃の構えを見せるウェルシュ軍の騎兵一団があった。
「やはり、騎兵突撃か!」
ハシムはその光景に不敵な笑みを浮かべた。手綱を強く握り締めると、馬を嘶かせて振り返り、背後に控える騎兵たちへと向き直る。
「皆、出番だぞ! 歩兵に負けぬ活躍を期待する!駆けよ!」
ハシムの号令とともに、彼は先陣を切って森林から勢いよく飛び出した。
「対騎兵陣形!」
アンジェの鋭い号令とともに近衛師団の陣形が動き、瞬く間に槍を突き出した強固な防御陣形へと移行した。その光景を目にしたウェルシュ軍の騎兵隊長は、冷や汗を浮かべながらも突撃を緩めない。
「こ、このまま突撃して、本当によろしいのですか?」
不安を隠せない様子で、並走する副官が尋ねる。
「大丈夫だ。直前で軌道を変え、敵の側面を突く!」
隊長は自信に満ちた表情で答えた。しかし、その戦術はハシム率いる騎兵の出現によって、瞬時に打ち砕かれることとなる。
「隊長! 右側面より敵騎兵!」
副官の悲鳴のような叫びに隊長が目を見開くと、その視界に、こちらへ一直線に突き進んでくる騎兵の一団が飛び込んできた。
「ば、馬鹿な……。こんなところに騎兵だと……!?」
想定外の事態に、隊長は必死の形相で思考を巡らせる。
(このまま進めば側面を突かれる。だが軌道を変えれば、歩兵に側面を晒すことに……)
一瞬の逡巡を見せた隊長に、副官の声が飛んだ。
「隊長!!」
しかし、すでに遅かった。隊長の視界を、ハシムの手から放たれた投げ槍が覆う。
「ぐっ!!」
胸を深く貫かれた隊長は、勢いよく落馬して命を落とした。あまりの光景に、副官は思わず馬の足を止めてしまう。その決定的な隙をハシムが見逃すはずもなかった。鋭く剣を抜くと、すれ違いざまの一撃で副官の首を綺麗に刎ね飛ばした。指揮官を失い、足の止まったウェルシュ騎兵たちに、ハシム率いる騎兵が次々と襲いかかる。ハシムは乱戦のなか、方陣を組む歩兵たちの前へと馬を進めた。
「アンジェ! 方陣を解いて騎兵を殲滅しろ!」
その言葉に応じるように、方陣の隙間からアンジェがひょこっと顔を出した。
「了解!!」
嬉しそうに声を張り上げると、彼女はすぐさま部下たちへ指示を出す。
「全員! 騎兵の殲滅に向かえ!」
号令とともに方陣が解かれ、歩兵たちが一斉に敵騎兵へと襲いかかった。その猛攻に満足したハシムは、さらに次の指示を飛ばす。
「アンジェ! 殲滅したら後でこちらへ合流しろ!」
アンジェは槍を掲げて了解の意思を示した。ハシムは力強く頷くと、再び馬首を巡らせる。
「手の空いた騎兵は私に続け!」
そう言い残し、彼は再び戦場を駆け出した。
味方の騎兵が側面からの急襲によって完全に足止めされる光景を目にし、カーチスは言葉を失っていた。
「王子、今すぐ撤退を……」
なおも食い下がるヘルマンの進言に、カーチスは悔しげに毒づいた。
「くそっ!!」
激しい悔悪とともに、拳を自身の太ももに叩きつける。
「王子、殿は私が務めます」
「なっ! 正気か将軍! この程度の戦いで殿など……」
言いかけるカーチスだったが、ヘルマンの瞳に宿る確固たる覚悟を見て言葉を飲み込んだ。
「分かった……。いざという時は、降伏するのだぞ……」
それだけ言い残すと、カーチスは馬を反転させ、敗走する兵たちとともに駆け去っていった。
「王子……。どうかご無著で……」
主君の後ろ姿に静かに祈りを捧げたヘルマンは、再び戦場へと向き直る。そして、残された弓兵たちに冷徹な指示を飛ばした。
「弓兵! 味方ごと射て!」
あまりの命令に、弓兵たちは困惑の表情を浮かべる。
「黙って従え!」
ヘルマンの厳しい一喝に押され、兵たちは渋々矢をつがえた。しかし、すべてはすでに手遅れだった。彼らの眼前に、ハシム率いる騎兵が怒涛の勢いで迫り来る。
「くっ……。手遅れか……」
ヘルマンがぽつりと呟いた瞬間、ハシムがその前に立ち塞がった。容赦ない騎兵の突撃を受けた弓兵たちは戦意を喪失し、我先にと一斉に逃げ出し始める。
周囲の兵たちが敗走していくなか、ヘルマンは静かに剣を抜き、ハシムと対峙した。ハシムもその覚悟に応じるように周囲の兵を制し、ゆっくりと馬を歩ませる。
「ヘルマン将軍だな。貴殿は逃げないのか?」
「殿を買って出た身です。我先にと逃げ出すことなど……到底できませぬ」
「そうですか……。ならば、降伏してはもらえそうにありませんね」
ハシムの問いかけに、ヘルマンは静かに聞き返した。
「逆にお聞きしますが……。もし降伏したとして、受け入れていただけるのですか?」
「フッ……。そうですね……」
ハシムはしばらく沈黙したのち、淡々と言い放った。
「まあ……『無理』でしょうね」
「我らは非正規軍。これらの軍事行動は、帝国政府の意向によるものではありません。そうなると、戦後交渉に向けて捕虜を確保するなどの必要性がないのです」
「さらには、レークランド側からもこの戦争における捕虜の扱いに関して、何ら連絡を受けておりません」
「ですので……。降伏を受け入れることは難しいでしょう」
その冷徹な現実を突きつけられ、ヘルマンは目を細めた。
「それは……王子に対してもですか?」
「ええ、もちろん」
ハシムは淀みなく答える。
「うまく逃がしたようですが、それも想定内です。すでに我が配下が退路に待ち伏せています」
「三十ほどではありますが、その数でも一斉に矢を放てば、退却する兵を混乱させるには十分でしょう」
その言葉に、ヘルマンの顔に諦めの色が濃くなった。
「やはり、そうでしたか……。そもそも、貴殿と戦うこと自体が……。いえ、おそらく王子を別働隊に送った時点で……」
「ええ、その通りです。あの王子の行動は非常に読みやすい。今この状況すら、何か別の罠なのではないかと疑ってしまうくらいにはね」
ハシムの言葉に、ヘルマンは返す言葉もなく黙り込んだ。ハシムは少し気まずそうに言葉を添える。
「失礼、侮辱する意図はなかったのですが」
「いえ、殿下……。貴方の指摘は正しい……。あの御方がもっと聡明であれば、この戦争自体が起きていなかったでしょう……」
「だが……たとえそうだとしても、カーチス王子は私が忠義を尽くしてきたエドワード王陛下の大切なお子。ならば、最後までこの命を捧げるのみ……」
ヘルマンの瞳には、一切の迷いが消えていた。その揺るぎない眼差しを見て、ハシムは真摯に向き直る。
「残念です、将軍。貴殿のように忠義に厚き者がここで散ることになるとは」
「そのお言葉だけで十分です。私も最後に、殿下のような御仁と相見えることができて光栄でした」
「これから先、殿下が歩もうとする『覇道』……。地獄にて見守らせていただきます」
ヘルマンは覚悟を決め、剣を構えた。
「いざ! 参る!」
ヘルマンが馬を駆ると、ハシムもそれに応えるように地を蹴った。
(陛下、先に逝きます……。どうかお許しを……)
かつての主君の姿を脳裏に描きながら、ヘルマンはすれ違いざまに最後の一撃を放った。しかし、その刃がハシムに届くことはなく、鋭い銀閃がヘルマンの首を正確に捉えた。ヘルマンはそのまま落馬し、静かに絶命した。




