第22話 隣国の王子 #2
隣国ウェルシュからカーチス王子が訪れて数日。王子の目に余る言動によって、城内ではさまざまな騒動が巻き起こっていた 。
ある日、ハシムとティナが訓練所で汗を流していると、そこへカーチス王子が通りかかる 。彼の背後には婚約者であるイリーナと、連れてきた奴隷が付き従っていた 。
「ご苦労なことだな、ハシム皇子」
休憩中のハシムに、カーチスが尊大な態度で声をかける。
「どうも、カーチス王子殿下。あなたも一戦いかがですか?」
ハシムが何気なく木剣を差し出すと、カーチスは一度は断ろうとした 。しかし、背後に控えるイリーナの視線を意識したのか、急に虚勢を張り始める。
「いいだろう、受けて立つ。私も剣術には覚えがあってね」
剣を受け取ったカーチスは上着を脱ぎ捨て、訓練所の中央でハシムと対峙した 。
「さあ、カーチス王子。いつでもどうぞ」
「我が剣技、存分に味わうがいい!」
気楽に構えるハシムに対し、カーチスが吠えながら襲いかかる 。
大きく振り下ろされた一撃を、ハシムは難なく回避して背後へ回る 。
「さあ王子殿下、もっと打ち込んで来てください」
「後悔するのはこれからだ!」
たった一度の太刀筋で息を切らしながらも、カーチスは必死に剣を振るう 。
しかし、ハシムは蝶が舞うようにその攻撃をいなし、翻弄し続けた 。もはや手合わせというよりは、子供の相手をする「稽古」の様相であった 。
必死に身体を揺らして空を切る王子の姿に、見守る者たちは必死で笑いを堪えるしかなかった 。
「もういい!」
ついにカーチスは木剣を叩きつけた。
「これでは手合わせではなく、ただの稽古ではないか!」
息も絶え絶えに叫ぶ王子に、ハシムが涼しい顔で問い返す。
「……稽古ではなかったのですか?」
「私がしたいのは手合わせだ!」
吐き捨てるように言い放ち、カーチスは訓練所の隅にある椅子にどっしりと腰を下ろした 。
彼が足を投げ出すと、主の意図を察した黒肌の奴隷が四つん這いになり、カーチスはその背の上に当たり前のように足を乗せる 。
人間を道具として扱うその光景に、周囲には強い嫌悪が走った 。
「そうだハシム殿下。互いの『黒犬』を戦わせるというのはどうだ?」
「……黒犬、ですか?」
耳を疑うような言葉に、ハシムは聞き返す。
「ああ、おぬしも飼っているのだろう?」
カーチスが指差したのは、離れた場所にいたアンジェだった 。指された当の本人は、特に気にする様子もなく佇んでいる 。
「あれは……なんと言いますか、私にも手に負えず。王子殿下に噛み付くかもしれません。ですので、またの機会に……」
ハシムが言葉を濁して断ると、カーチスは残念そうに鼻を鳴らした 。
しばらくして、カーチスはイリーナたちを連れて去って行った 。
「姉様が可哀想……。あんな王子に連れ回されるなんて」
ティナが心配そうに呟くと、ハシムは「ほぼ毎日、でしたか」と尋ねる 。
「はい。姉様は装飾品ではありませんのに……。あの王子は、まるで見せびらかすように……」
ティナの表情には、隠しきれない怒りが滲んでいた 。その様子を見ながら、ハシムは静かに思案を巡らせる 。
一方、訓練所の端ではライラとカタリナがアンジェに声をかけていた 。
「大丈夫ですか、アンジェ……」
「なにが?」
ライラの気遣いに対し、アンジェはキョトンとしている 。
「なにって、あの王子に言われたでしょ?」
カタリナに指摘され、アンジェはようやく納得したように頷いた。
「ああ、あのことね。別に、いちいち気にすることじゃないって」
普段通りのアンジェに、どこからともなく現れたフウカが問いかける 。
「さっき言われてた『黒犬』って、なに?」
「あんたねぇ……意味を知ってて聞いてるでしょ……」
呆れるカタリナをよそに、フウカはとぼけた様子を崩さない 。
「いいよカタリナ、説明してあげて」
アンジェの促しに、ライラが心配そうに聞き返す。
「よろしいのですか、アンジェ」
「いいって。もう今更だしね」
アンジェが促すと、カタリナは深くため息を吐いて口を開いた。
「いい? 『黒犬』っていうのは、使い古された差別用語なの」
「ふーん。それで、どんな意味なの?」
「南方生まれは昔から疑うことを知らず、犬のように従順だと言われてる。それと肌の色を合わせて『黒犬』。分かった?」
淡々と説明するカタリナに、フウカは「へー、そうなんだ」とだけ返した 。
「あんたねぇ、わざと言ってるでしょ……」
「まあまあ」
憤るカタリナをアンジェが宥める。ライラは真剣な面持ちで尋ねた。
「辛くはないのですか、アンジェ」
「さっきも言ったけど、差別なんて今更。あの王子なら言いそうだって分かってたし。それに、南方人が犬のように従順なのは事実だしね」
アンジェは少し自嘲気味に笑う。
「まあ、アタシは犬というより『獣』だったけどね」
「そうでしたね。最初に出会った時のあなたは、まさしく獣でしたね」
ライラが昔を懐かしむように目を細める。
「たしか、脱走と主人殺しを重ねて、闘技場送りだったっけ?」
カタリナの問いに、アンジェは「そうそう」と大きく頷いた。
「殿下とはそこで出会ったんだっけ……」
「……良い出会いじゃなさそう」
フウカの呟きに、アンジェは笑った。
「はは、確かにあれは良い思い出じゃないね。でも、殿下と『良い出会い』をした奴なんて、ここには居ないんじゃない?」
その言葉に、その場にいた全員が、反論できないと言わんばかりに一斉に頷いた 。
数日後の裏庭。そこにはイリーナと共に過ごすカーチスの姿があった 。
「ふむ。これはそなたが育てているのか?」
「はい。母と共に世話をしております」
イリーナがしゃがみ込み、一輪の花を優しく撫でる 。
「私にはただの草にしか見えぬがな」
そう言い放つと、カーチスはイリーナの手元にある花を無造作に踏みつけた 。
「お、王子……花を踏まれています……」
「ああ、そうか」
「どうか、ご容赦を……」
震える声で懇願するイリーナを、王子は鼻で笑った。
「昔聞いたことがある。畑は踏めば踏むほど良い作物が育つと。ならば花も踏めばよく育つのではないか? それに私はこうも思う。草花ではなく畑を耕すべきだと。そうすれば戦争になっても食料には困らぬぞ」
慈しみの欠片もない持論を展開するカーチス 。困惑するイリーナの前に、ハシムが割って入った。
「お二方、何やら興味深いお話をされているようで」
「殿下……」
イリーナが小さく声を漏らす。
「何用かな、ハシム皇子」
不機嫌そうなカーチスに、ハシムは穏やかに答えた。
「いえ、たまたま通りかかったもので。お二方の邪魔をするつもりはありません。ただ……お話しされるなら、もっと適切な場所があるのではないかと思いまして」
ハシムの視線が、カーチスの足元へと向けられる。
「ふむ……つまりは、どいて欲しいと?」
「そのように解釈されたのであれば、それで構いません」
カーチスは下卑た笑みを浮かべ、ハシムを挑発した。
「いいだろう。だが、人に頼むのであればどうすればいいか、分かっているだろう? 皇子殿下」
その意図を察し、ハシムは静かに、そして深々と頭を下げた 。
「で、殿下……!」
「ふん、それでよい。少しは溜飲も下がったわ」
満足したカーチスは大きなあくびを一つ。
「私は部屋に戻る」
そのまま、彼は悠々と裏庭を去って行った。
「ありがとうございます、殿下……」
「いえ。穏便に解決するのであれば、頭を下げることなど造作もありません」
ハシムは気にする様子もなく、しゃがみ込んで荒らされた花に手を触れた 。イリーナも隣に並び、共に手入れを始める。
黙々と作業を続けるハシムの横顔を見つめ、イリーナは胸の奥から湧き上がる熱い感情を、必死に抑え込んでいた 。
その様子を遠くから見守っていたライラたちは、主人が頭を下げさせられた事実に静かな怒りを燃やしていた 。
「メイド長、落ち着いてください……鋼糸が見えちゃってます……」
シシリーの宥めに、ライラは大きく息を吐いて冷静さを取り戻す 。
「……ごめんなさい、シシリー」
「よかったです。メイド長が暴れ始めたら、もう誰にも止められませんから」
「あなた、私を何だと思っているの……」
呆れ気味のライラに、シシリーは話を続けた。
「しかし、あの王子も大胆なことをしますね。同じ招聘された立場でも、国力を考えれば殿下に頭を下げるべきはあちらなのに」
「それに気が付かないからこそ、『愚か者』と呼ばれるのでしょう」
ライラは冷徹に言い捨てた 。
それから数日後。ハシムがライラを連れて廊下を歩いていると、前方からカーチスとイリーナ、そして奴隷達がやってくる 。
ハシムが軽く会釈をして通り過ぎようとすると、カーチスが呼び止めた。
「ああ、そうだ。殿下、あなたに聞きたいことがあったのだ」
ハシムが振り返ると、カーチスの視線は彼を通り越し、後ろに控えるライラに注がれていた 。
「我が従者に何か?」
「いやなに、美人を連れて羨ましいと思ってな」
カーチスはライラに近づき、その顔を覗き込む。
「やはり美人は、近くで見ても良いものだな。どうだ、我が側室にならぬか? 一生苦労はさせぬぞ」
「わたくしのような下賎な生まれ、王子殿下のような高貴なお方にはとても……」
ライラが丁寧に断りを入れると、カーチスは上機嫌に笑った。
「そうか。気が変わったら、いつでも言いに来るとよい」
満足げに立ち去る背中を見送りながら、ハシムの心底には、暗く激しい感情が渦巻き始めていた 。
帝国暦四九八年、六月 。
ウェルシュ王国から来訪した王子カーチス。彼の傲慢な振る舞いによって混乱が広がる中、波乱を予感させる結婚式の日が刻一刻と近づいていた 。




