第21話 隣国の王子 #1
帝国暦四九八年 五月。ハシムはいつものように目を覚ました。
「よう、殿下。よく眠れたか?」
視界に入り込んできたヒューゴの顔を見るなり、ハシムは深いため息を吐く。
「どうした殿下? ため息なんか吐いて。悩みがあるなら俺が聞くぜ」
得意げなヒューゴを無視し、ハシムはベッドの脇に立つシシリーに問いかけた。
「朝、最初に目に入るのが『おっさん』だった時の気持ち……お前は答えられるか、シシリー?」
「そうですねぇ……」
少し考え込んだシシリーは、自信満々に断言した。
「ズバリ――『最悪』! ではないでしょうか!」
「正解だ」
満足げに頷くと、ハシムはベッドから出る。
「そんなひどいこと言わないで下さいよ。俺だって好きで野郎の寝顔を拝んでるわけじゃ……」
「ヒューゴさん、その言い方は不敬ですよ。メイド長がいたら吊るされていますよ?」
シシリーの指摘に、ヒューゴは「確かにそうだが」と彼女へ向き直る。
「今日の朝当番は違うだろ?」
その視線の先では、シシリーが立ち上がったハシムの着替えを手伝っていた。
「確かに今朝は私の担当ですが――『メイド長がいない』とは言っていませんよ」
その言葉に、ヒューゴの身体が凍りつく。恐る恐る出入り口の扉へ目を向けると、わずかに開いた隙間から、満面の笑みを浮かべたライラがこちらを覗いていた。その姿に、ヒューゴはガックリと項垂れる。
「残念だったな、ヒューゴ。後で存分に絞られるといい……。だがその前に『それ』を渡してもらおうか」
ハシムは着替えを終え、襟元を正しながら手を差し出した。ヒューゴは懐から一枚の紙切れを取り出し、それを手渡す。
「何処からだ?」
「速達ですよ。ウェルシュからの」
ハシムは紙切れを開き、中身を確認すると「なるほどな」と小さく呟いた。背後から覗き込んでいたシシリーが尋ねる。
「どんな内容ですか?」
ハシムは無造作に紙切れをシシリーへ差し出した。その様子に、ヒューゴが「いいんすか?」と眉をひそめる。
「構わない。いずれ皆の耳に入る」
ハシムがテラスへの扉を開ける傍らで、シシリーは「ふむふむ、なるほど」と納得したように頷いていた。
「それで殿下、これどうします?」
「処分しておけ」
「はーい」
シシリーは机のロウソクから火を移すと、燃え上がる紙切れを暖炉へと放り込んだ。ハシムはそれを横目で見届け、テラスの手すりに手を置いて遠くを眺める。
景色の奥、キャバリア山脈には黒雲が覆い被さり、嵐の予感を感じさせていた。
その後、食堂で朝食を済ませたハシムが食後の紅茶を楽しんでいると、一人の使用人が慌ただしく入室してきた。
「失礼します、陛下」
使用人はベイザルの側に寄り、何事かを耳打ちする。それを聞いたベイザルは、顔を険しくして立ち上がった。
「皆は、お茶会を続けるといい」
「どうされたのですか?」
立ち去ろうとするベイザルを、ウルスラが呼び止める。
「いや……緊急というわけではないそうだが、ウェルシュのワルター大使がどうしても今、会いたいそうだ」
「ウェルシュの……」
ハシムはそのやり取りを見逃さず、口を開いた。
「陛下、私も同席してもよろしいでしょうか?」
「殿下がですか……? 私は構わぬが、一応大使に確認せねば……」
「父上、私も同席させていただきたい」
テオドールもハシムに続くように立ち上がる。
「テオドール、お前もか……。分かった、大使に確認しておこう」
ベイザルは考え込んだ末に頷き、食堂を後にした。残されたハシムとテオドールは、互いの真意を探るように睨み合う。その張り詰めた空気を、周囲は複雑な面持ちで見守るしかなかった。
謁見の間。ハシムは、ベイザル王とワルター大使の謁見に同席していた。対面にはテオドールがおり、相変わらず鋭い視線をこちらへ向けている。
「それでワルター大使、一体どのような用件だ?」
玉座に座るベイザルが、肘を突きながら問いかけた。
「ベイザル王陛下。まずはお忙しい中、急な謁見に応じていただき感謝いたします」
ワルター大使が深々と頭を下げると、ベイザルはそれを手で制した。
「よせ大使、知らぬ仲ではあるまい。頭を上げよ」
「ありがとうございます、陛下……。実は今朝方、本国から連絡がありまして」
ワルターは時折言い淀みながらも、本題を告げる。
「親書を携えたカーチス第一王子が、レークランドに来訪されるとのことです」
「な、何だと……?」
ベイザルが困惑の声を漏らす。
「大使、それは本当か? イリーナとの結婚式は七月、まだ一月以上先のはずだが」
「はい。本国にもそのように伝えておりますが……王子がどうしてもと聞き入れず……」
ベイザルは額に手を当て、深く俯いた。
「続けて申し訳ありません、陛下。実は――既に本国を発ったとの知らせが届いております」
「何だと!!」
ベイザルが思わず玉座から立ち上がる。そこへ、ハシムが冷静な口調で追撃を加えた。
「陛下。既に発っているとすれば、国境への到達も時間の問題かと」
「それはまずい……。国境門で隣国の王子を足止めさせるわけにはいかぬ」
ベイザルは小声で呟き、短く思案した。
「テオドール! 今すぐ国境門へと向かい、王子の送迎を頼む!」
「分かりました、父上」
命を受けたテオドールは、足早に退室していく。ワルター大使が「申し訳ありません」と重ねて詫びる中、ベイザルは玉座を降りて彼の肩を労うように叩いた。
事前に情報を掴んでいたハシムは、その光景を眺めながら、口元を隠して密かにほくそ笑む。その様子を、去り際のテオドールが疑わしげに見つめていた。
夕暮れ時、王城前では隣国の王子を出迎える準備が整えられていた。テラスからその様子を眺めていたフウカが、手すりに腰掛けながら尋ねる。
「いいの? 出迎えしなくて」
「ふっ、俺は帝国の皇子だぞ。ウェルシュの王子を出迎える義理などない」
ライラが淹れた紅茶を一口すすり、ハシムは冷淡に言い放った。
「噂の王子ってどんな奴だっけ?」
アンジェが菓子をつまみ食いしながら問うと、本を読んでいたカタリナが答える。
「さあ? 噂では典型的な『バカ王子』だとか」
「そのような者が次代の王になるとは。ウェルシュもいよいよ終わりですね」
ライラが淡々と紅茶を注ぎ足すと、ハシムも同意するように頷いた。
「ああ。帝国領ウェルシュになるのも、そう遠くなさそうだ」
「でも、その王子がいる間は無理なのでは?」
カタリナの疑問に、ハシムは不敵な笑みを浮かべる。
「ふっ、一国の王子を王座から引きずり降ろす方法など、いくらでもある」
その悪辣な言葉を聞いても、周囲の面々は「いつものことだ」とばかりに動じる様子を見せなかった。
やがて、王城前に一台の豪華な馬車が到着した。扉が開くと、中から肥満体の男が降りてくる。男は目の前に立つベイザル王と握手を交わした。
「あれが噂の王子……」
「まるでブタだね」
フウカの毒舌に、アンジェも思わず吹き出す。
「はは、確かにあれはブタだな」
「失礼ですよ。仮にも一国の王子なのですから」
ライラが釘を刺すが、ハシムは突き放すように言った。
「ライラ、あのような者に敬意を払う必要はない。民が困窮する国で、自分だけ肥え太るような『贅沢』をする輩に、払う敬意などない」
ハシムの言葉に、ライラは「はい、殿下」とだけ返した。
「ねぇ、見てよあれ……」
アンジェが指差す先では、レークランドの三姉妹が王子に跪き、その手に口づけをしていた。
「ねぇ、あれって正しい礼節なの?」
カタリナが苦々しく首を振る。
「いえ、明らかに違いますね。手への口づけは敬意や愛情を示すもの。あのように強制されるものではありません」
「姫様たちが可哀想……。あんな奴に敬意を払わなきゃいけないなんて」
アンジェが同情を寄せ、フウカも嫌悪感を露わにする。
「ここからじゃ見えないけど、きっとゲスな顔してるね」
ハシムは不快そうに、ソフィアが口づけを強いられる光景を黙って見届けた。
その夜、王子歓迎のささやかな夕食会が開かれた。ハシムもその場に呼び出され、食堂へと赴く。
「初めまして、王子。アンダルシア帝国第四皇子、ハシムと申します」
ハシムが手を差し出すと、カーチスは傲慢な態度でその手を取った。
「そうか、お前が噂の『異邦の血が混じった』皇子か」
「我が名はカーチス。よく覚えておくとよい。いずれ大国の主になる男だ」
カーチスはそう宣言し、握ったハシムの手を強く締め上げる。
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
挑発的な力に対し、ハシムは顔色ひとつ変えずに応じた。
「さあ、お二方の親睦も深まったところで、会食と参りましょう」
ベイザルが割って入り、使用人たちに料理を運ばせる。二人は手を離し、それぞれの席に着いた。
「王子の急な訪問ゆえ、ささやかな料理しか用意できませんでしたが、どうかご賞味あれ」
ベイザルの促しに従い、カーチスは肉を一切れ口に運んだ。そして咀嚼するなり、吐き捨てるように言った。
「なるほど、それなりですね。我が家の料理人であれば、もっと美味しく作れるでしょうが」
「はは、そうですな。誰しも我が家の味が一番でしょう」
ベイザルは笑って受け流したが、隣に控える料理人に何かを囁き、退室させた。ハシムはその料理人が去り際に見せた、暗く曇った表情を見逃さなかった。
「さあ皆、食事を続けよう」
ベイザルの号令で食事が再開されるが、カーチスの一言で食卓は冷え切っていた。食器が触れ合う音だけが響く中、カーチスを除く全員が確信していた。
この王子が、この国に波乱を巻き起こすであろうことを。




