第2話 ある日の食卓
朝日の差し込む部屋で、ハシムは目を覚ました。体を起こし視線を向けると、侍女のライラが恭しく頭を下げた。
「おはようございます、殿下」
「ああ、おはようライラ」
ベッドを出たハシムはベランダの扉を開け、外の景色を眺める。雪の積もる山脈の向こうから陽が昇り、照らされた鳥たちが羽ばたいていく。
背後に立ったライラが、主の体調を案じて上着を肩に掛けた。
「殿下、お体に障ります」
「寒いな。嫌でも北の地に居ると実感させられる」
ハシムが呟きながら上着の感触を確かめると、ライラが言葉を添える。
「これでもマシな方かと思われます。ここより北の山脈を超えれば、そこは北方諸国ですから」
「ああ、そうだったな」
眼前に広がるキャバリア山脈は、中央大陸最大の険しさを誇り、大陸を分断するように鎮座している。そんな山脈の北側に点在する小規模国家の総称が「北方諸国」である。
彼らはレークランドを経由して鉱石を帝国に輸出し、対する帝国側は穀物などの食料を輸出する。そして現在は互いに友好関係にある。
「殿下、お着替えを」
「ああ」
ライラの促されるまま、ハシムは扉を閉めて部屋に戻った。身支度を整えていると、出入り口の扉がノックされる。
「ハシム皇子殿下。ベイザル王陛下が朝食を共にしたいと仰せです」
控えていた使用人の声に、ハシムは手を止めて思案した。そんな時、ライラが小声で尋ねる。
「断ることもできますが、いかがなさいますか?」
「いや、その必要はない」
ハシムは首元のボタンを閉じ、外で待つ者へ声を投げた。
「ぜひ、共に食事をさせてほしいと伝えてくれ」
「承知いたしました。食堂にてお待ちしております」
使用人の足音が遠のいていく。ライラはまだ不安を拭いきれない様子だった。
「よろしいのですか、殿下」
「王の誘いなら断る理由はない。それに……たまには良いだろう。お前たち以外と食事を囲むのも」
「殿下がそう仰るなら……」
ライラは複雑な表情を浮かべた。帝国においてハシムがいかに孤立し、家族との団欒から遠ざけられてきたかを、彼女は誰よりも知っていたからだ。
「ライラ、行くとしよう」
歩き出したハシムの背を「はい殿下」と答えたライラは静かに追った。
食堂へ向かう廊下で、ハシムは三姉妹と行き会う。長女イリーナが先頭に立ち、優雅に一礼した。
「おはようございます、殿下」
続いて次女のティナが元気よく前に出る。
「おはようございます! 殿下!」
最後に、イリーナの影に隠れていた三女ソフィアがおずおずと顔を出した。
「お、おはようございます……殿下」
「おはようございます、姫様方」
ハシムが礼を返すと、イリーナが気遣わしげに尋ねる。
「昨晩はよく眠れましたでしょうか?」
「ええ、よく眠れました。まだ少し酔いはありますが」
「二日酔いに効く薬草もございますので、遠慮なく仰ってください」
「お気遣い、ありがとうございます」
そんな会話に割り込むように、ティナがハシムを覗き込んだ。
「食堂まで一緒に行きましょう!」
「ぜひ、お願いします」
共に歩き出すと、ティナがさらに身を乗り出す。
「殿下も、剣技を鍛えていたりします?」
「ある程度ではありますが……」
「なら朝食のあと、少し手合わせをしませんか!」
「ええ、喜んで」
ティナは嬉しそうに拳を握った。しかし、反対側にいたソフィアが「待ってください」と制止の声を上げる。
「わ、私は父上から城の案内をするよう仰せつかりました。なので、お姉様の手合わせは後にしてください!」
ハシムを挟んで睨み合う二人。その光景に、ハシムは苦笑混じりの提案を口にした。
「では、午前はソフィア様の案内を。午後にティナ様と手合わせ、というのはいかがでしょう」
二人は顔を見合わせる。ティナが不承不承といった体で肩をすくめた。
「しょうがないなあ。殿下はソフィアの婚約者だし、午前中だけは譲ってあげる!」
「ティナ様はそう仰っていますが、ソフィア様はどうされますか?」
問われたソフィアは、頬をわずかに赤らめる。
「殿下が、良いのであれば私は……」
「それでは、案内を楽しみにしていますね、ソフィア様」
顔を覗き込まれた彼女は、「はい」と小さな声を漏らした。こうして二人との約束を取り付けたハシムは、食堂へ向かうのだった
食堂に到着すると「お待ちしておりました」という言葉共に、使用人が重厚な扉を開いた。
室内は華やかに彩られ、食卓には人数分の食器とキャンドルが並んでいる。奥に座っていた王妃ウルスラが立ち上がり、静かに頭を下げた。
「殿下、本日はお越しくださりありがとうございます」
「いえ。陛下のお誘いもありましたが、私自身、従者以外の方々と食事を共にしたいと思っておりましたから」
その言葉に含まれた微かな孤独を汲み取り、ウルスラは痛ましげに目を伏せた。
「……そうでございましたか。では、お席へ」
ウルスラの言葉を聞いた使用人が「こちらです、殿下」とハシムを促す
ライラに椅子を引かれ、ハシムは席に着いた。姫たちも定位置に座る。やがて背後の扉が勢いよく開かれ、ベイザル王が姿を現した。
「皆、おはよう!」
その豪快な挨拶に、一同が口々に言葉を返す。王はハシムに歩み寄ると、立ち上がろうとする彼の肩を親しげに叩いて制した。
「殿下! ようこそ我が食卓へ! ですがどうかそのままで」
席に着いた王がふと周囲を見渡し、表情を険しくさせた。
「テオドールはまだ来ていないのか!」
激昂する王を、王妃が宥める。
「陛下、どうかテオドールを責めないであげてください」
王妃の言葉が効いたのかしばらく沈黙すると、ベイザルは強引に気分を切り替えた。
「……では、改めて食事といこう」
王の合図で料理が運ばれ、配膳が進む。すべてが整い、王が祈りの言葉を口にしようとしたその時、再び扉が開いた。
現れたのはテオドールだった。彼は悪びれる様子もなく無言で席へ向かう。
「客人より後に来るとは! 失礼だぞ、テオドール!」
再び立ち上がる王。しかし、ウルスラの懇願するような視線に、彼は怒りを飲み込んで腰を下ろした。
「……では皆、手を」
全員が手を組み、祈りを捧げる。
「天上の神々よ。豊穣を授けてくださり感謝します。天の恵みに感謝を」
その唱和が食堂に響き、静かな食事が始まった。
皿の上にはパンとスープ、そして鹿肉のソテーが並んでいる。それを見たウルスラが溜息を漏らした。
「朝からまた鹿肉ですか……」
「そう言うな。たまには肉も食わんと力が出んぞ!」
「王妃様、何か胃に優しいものをお作りしましょうか?」
メイドの提案にウルスラが頷くと、彼女は一礼して厨房へ下がった。
「母上が食べないのであればわたしが頂きます!」
ウルスラの皿に残った肉をティナが欲しがる。それを見て長女のイリーナが嗜めた。
「下品ですよ、ティナ。ハシム殿下がいらっしゃるのですよ」
「良いでしょ別に。殿下はソフィアと結婚するんだから、もう身内みたいなもんでしょ?もしかして……。姉上は、婚約者として認めてないの?」
ティナの言葉に、ハシムを「婚約者」としてまだ測りかねているイリーナは言葉を詰まらせる。横ではソフィアが悲しげに俯いていた。
そんなソフィアに、イリーナはあたふたしながら弁明するのだった
「父上! 久しぶりに鹿狩りに行きたいです!」
食事中、ティナが思いついたように提案すると、ベイザル王が相好を崩した。
「それはよい! 殿下も交えて皆で行くとしよう!」
「陛下、ティナにあまり野蛮なことを教えないでください」
ウルスラの苦言に対し、王は朗々と持論を述べる。
「野蛮とは心外だな。狩りとは伝統だ。この肉も、狩る者、解体する者、多くの手が加わってここに並んでいる。感謝すべきことだぞ」
「そうですよ母上! 今度の狩りには母上も同行してください。そうすれば分かってもらえます!」
父娘の勢いに押され、ウルスラは「……わかりましたから」と引き気味に承諾した。
やがて、ハシムの手が止まっていることに王が気づく。
「殿下、お口に合いませんでしたか?」
「いえ、とても美味しいです。ただ……少し、羨ましいと思いまして」
「羨ましい、ですか?」
「ええ。普段は従者とだけですので、こうして家族で食卓を囲める皆様が、とても眩しく見えて」
ハシムの告白に、ソフィアが驚いたように顔を上げた。
「ご家族とは……お食事をなさらないのですか?」
「ええ。式典で顔を合わせることはあっても、揃って食事をするのは年に一度あるかないか、という有様ですから」
食卓に重苦しい沈黙が流れる。それを破ったのは王の豪快な声だった。
「そういうことであれば! 殿下! これからも我が家の食卓を、ご自身のものと思って過ごしてくだされ!」
王の呼びかけに、家族が同意の笑みを浮かべて頷く。
「……ありがとうございます、陛下」
だが、一人だけ背を向けた者がいた。テオドールが立ち上がり、出口へ向かう。
「待て、テオドール!」
王の制止を無視し、彼はハシムの横を通る際、鋭く睨みつけてから去っていった。
「申し訳ない、殿下」
「わたくしからも、謝罪を・・・」
王と王妃が深々と頭を下げる。その姿にハシムが答える。
「どうか謝らないでください。同情を誘うようなことを口にした私が悪いのです」
その後、食卓には食器を叩く乾いた音だけが響くのだった
食後、ティナが席を立ち、ハシムの耳元で囁いた。
「午後の手合わせ、楽しみにしていますね」
「ええ、私もです」
ハシムが微笑み返すと、彼女は満足げに去っていく。続いてソフィアも近づき、頬を染めて告げた。
「あ、あとで……お部屋の方へ伺わせてもらいます……」
次々に去っていく女性たち。王妃とイリーナも一礼し、食堂を後にした。
「では、私もこれにて。王陛下」
ハシムが立ち上がると、ベイザル王も椅子を引いた。
「殿下、此度は誠に申し訳ないことをした。テオドールの行いは、父として見過ごせぬ」
「お気持ちは分かります。ですが、私も彼に対して壁を作っていたようです。これからは、テオドール王子を《《友》》と思って接して参りたいと思います」
その言葉に救われたのか、王はハシムの手を強く握りしめた。
「ぜひ……どうか、お願いします!」
「それでは、失礼いたします。今宵の夕食も、そして鹿狩りも楽しみにしております」
「おお、共に参りましょうぞ!」
その後ハシムが退出し、食堂には王と片付けをする使用人だけが残った。そんな中、王は椅子にもたれ、腕を組んで思案に耽る。
「あの皇子、やはり何か思惑があるようだが……いや、それはこちらとて同じか。テオドールの友、か。あの王子よりはマシだと思いたいが……」
グラスの水を飲み干し、王は壁に飾られた肖像画に目を向けた。
「カルナ……君が生きていれば、あいつも……いや、違うな。すべてはワシの責任だ」
視線の先には、若き日のベイザルと、ウルスラではない見知らぬ女性が描かれていた。
「君を思い出すのは、ウルスラに失礼だったな……。だが……どうか今だけは、許してくれ」




