第1話 帝国の皇子 北へ
カクヨムで完結済みです。続きが気になったら、ぜひカクヨムへ(リンクはプロフィールから……)
垢バンされないよう、およそ2日に一回の頻度で新作の間に投稿しようと思っています
帝国暦四九八年 三月。
草原広がる大地を、騎兵に守られた馬車列が進む。
はるか遠方には雪を頂く広大な山脈がそびえ、そこから流れ出た水が小川を作っていた。
ある馬車の屋根では、冬と春が混じり合う空気を感じながら、一人の少女が仰向けに寝転んでいる。
やがて少女は何かに気づいた様子で、窓をコンコンと叩き、中を覗き込んだ。
「街が見えたよ、ハシム」
その声とともに、黒髪の少女の顔が窓の外から覗く。
「不敬ですよ、フウカ。殿下のお顔を覗き込むなんて」
フウカと呼ばれた少女は、褐色肌のメイド・ライラに諭され、不満げな表情を浮かべて引っ込んでいった。
「申し訳ありません、殿下。街に着く前には、屋根から降ろさせます……」
ライラは、対面に座る「殿下」と呼ばれた褐色肌の男に頭を下げる。
「ああ……頼む。帝国には屋根に人を乗せる文化があるなどと、勘違いされては困るからな」
足を組みながら、ハシムはため息まじりに答えた。窓外に広がる草原を眺めながら、彼は思い起こす。
アンダルシア帝国第四皇子である自分が、なぜこの北の地へ追放同然の身で送られることになったのかを。
まだ雪の残る帝都フリアード、その帝城にて。ハシムは非情な宣告を受けた。
「ハシム、お前を婚姻同盟のため、レークランド王国に送る」
玉座に座る皇帝ジェラールが、低く威厳のある声で告げる。
「陛下、それは……随分と唐突ではありませんか? 私はまだ……」
跪いたハシムが俯いたまま問いかけたとき、怒声がそれを遮った。
「何が不満だ、ハシム!」
声を荒らげたのは皇帝ではなく、その隣に立つハシムの兄、第一皇子ヴィクトルであった。
「父上が決められたことに、貴様が逆らう権利などあると思うのか?」
まくしたてるヴィクトルを手で制し、皇帝が続ける。
「おぬしの意見を聞かずに決めたことは謝ろう。だが、この婚姻同盟は帝国の利になる話だ。自由奔放な気質のおぬしには、帝国以外の地へ行くのも悪くないだろう」
皇帝の言葉に、ハシムはしばらく沈黙した後、再び口を開いた。
「婚姻同盟の件、承知いたしました。庶出の末弟がお役に立てるのであれば、喜んで北の果てへと参りましょう」
皮肉とも自棄とも取れる言葉とともに顔を上げると、皇帝は「それでよい」と短く応じた。
皇帝は無表情ながら、どこか満足げな様子で玉座に深く腰掛けている。
「支度を整え、一月以内に出立せよ」
ヴィクトルはハシムを睨みつけ、突き放すように告げた。その表情には、憎悪と恐怖が入り混じったような感情が渦巻いている。
一礼して玉座の間を去ったハシムは、廊下で待っていたライラに声をかけられた。
「お疲れ様でした、殿下」
「いや、大して疲れてはいない。それよりも皆を集めてくれ。計画を少々修正する必要がある」
ハシムが言うと、ライラは淡々と答えた。
「はい、殿下」
「私は、この国を必ず……」
成すべきを成すため、ハシムは静かに決意を固めた。
「殿下?」
ライラの声でハシムが視線を戻すと、心配そうにこちらを覗き込む彼女と目が合った。
「気分が優れないようでしたら……」
「いや、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだ」
「そうですか。何かあれば仰ってください。殿下のお役に立てることは、私にとって何よりの栄誉ですから」
ハシムは「そうか」と、彼女の厚い忠誠心に感心しながら、視線をライラの隣へ向けた。
「しかし、役立ちそうにない者が、ここに一人いるようだが」
視線の先には、大きな本を抱え、絶望したような目で虚空を見つめる少女がいた。
「図書室から離れるだけで、ここまで弱体化するとは思いませんでした……。王宮にも立派な図書室があると良いのですが……」
「カタリナ……やはり貴女は帝都に残っていた方が良かったのでは?」
ライラが呆れつつも心配そうに尋ねる。
「いえ……私は、この陣営の軍師ですから……」
カタリナと呼ばれた少女は、虚空を見つめたまま答えた。
「軍師って、それ自称でしょ?」
ライラとカタリナの間にある小窓から、黒肌の女性が顔を出す。
「黙って、アンジェ! あんたに軍略の何がわかるっていうのよ!」
カタリナが鋭く睨み返すと、アンジェと呼ばれた女性は不敵に笑う。
「でも、アタシと違って軍隊を率いたこと、一度もないじゃん!」
指摘が図星だったのか、カタリナは「ぐぅ……」と言葉を詰まらせ、再び本を抱え込んで独り言を呟き始めた。
「あ、そうだ殿下! 街の方から迎えの一団が見えましたよ!」
思い出したようにアンジェが告げる。
「アンジェ……そういうことは早く伝えなさい」
ライラが呆れて諭し、言葉を継いだ。
「アンジェ、フウカを屋根から降ろしなさい」
「はいはーい」
アンジェは軽い返事とともに、屋根で寝ているフウカの首根っこを掴み上げる。
「おい、アンジェ! そこを掴むな! 私はネコじゃない!」
そんな騒がしいやり取りを見ながら、ハシムは呆れつつも、どこか心地よさを感じていた。
レークランド王国、王都ケルン。
かつてのケルンは一地方都市に過ぎなかったが、約二百年前の建国時に王都と定められ、発展を遂げた。
首都としては小規模だが、今日の街はかつてない賑わいと祝福に満ちている。
帝国旗と王国旗で彩られた大通りを、帝国の一団が進む。通りの両側では、多くの市民が歓迎の小さな旗を振っていた。
「なんというか、意外ですね」
カタリナの言葉に、ハシムが聞き返す。
「何がだ?」
「帝国の皇子なんて、もっと歓迎されないものかと思っていました」
ハシムは少し沈黙した後、答えた。
「帝国の第四皇子の悪名など、北の小国までは届いていないのだろう。どこぞの隣国の王子とは違ってな」
「ああ、あの色々やばいと噂の王子ですか。最近じゃ世界中の美女を側室として集めているとか」
アンジェが窓から身を乗り出して加わる。
「ハシムよりヤバいとか、終わってるね」
フウカがアンジェの横で気怠げに呟くと、ライラが「不敬ですよ」と言いたげな表情を浮かべた。
「しかし、レークランドも大胆なことをしますね。二カ国同時に婚姻同盟を結ぼうなんて」
カタリナが本をめくりながら呟く。
「見極めようとしているのでしょう。どちらが真の友好国になり得るかを」
ライラの鋭い分析に、ハシムは頷いた。
「いずれにせよ、この婚姻同盟が我々に有利に働くかは、お前たち次第だ。この辺境においても、我々の成すべきことは変わらない。頼んだぞ」
ハシムが低く鋭い声で告げると、皆が口々に答えた。
「はい、殿下」
馬車は王城の門を通り、玄関口へと辿り着いた。
そこには、重厚な鎧に身を包んだ兵士たちが整列し、皇子を迎え入れようとしていた。
馬車が止まり、出入り口に階段が置かれる。扉を開けたアンジェは、大げさな手振りで跪いた。
「どうぞ、殿下」
彼女の芝居がかった態度に呆れつつ、ハシムは一段ずつゆっくりと階段を降りる。
馬車を降りたハシムは、眼前の男に一礼した。
「国王陛下、お招きにあずかり参上いたしました。アンダルシア帝国第四皇子、ハシム・フォン・アンダルシアと申します」
完璧な礼節を前に、髭を蓄えた小太りの男が両手を広げて歓迎する。
「よくぞ参られた、ハシム皇子殿下! 心より歓迎いたしますぞ!」
この男こそ、レークランド王ベイザルその人であった。
「では早速、こちらへ」
ベイザル王に促され、ハシムは整列した兵の間を進む。その後ろに従者たちが続いた。
列の最後尾では、アンジェが頭の後ろで手を組みながら、隣のカタリナに囁いている。
「重装鎧なんて初めて見たわ。動きづらくないのかな?」
「今の帝国軍は軽装化が進んでいますからね。帝国で鎧を着るのは、式典時の近衛兵くらいでしょう」
カタリナが歩きながら本に目を落としていると、フウカが半笑いで口を挟んだ。
「アンジェはいつも痴女みたいな格好で、恥ずかしくないの?」
「誰が痴女だ! あれは機動性重視! あんたの格好だってアタシと大して変わらないじゃない!」
怒るアンジェに対し、フウカは涼しい顔で反論する。
「あれは機能性重視」
「服なんて、どうでもいいじゃないですか」
「ダサ私服のあんたが言うなよ……」
興味なさげなカタリナにアンジェが言い返すと、カタリナは声を荒らげた。
「私の私服はダサくない!」
「いやはや、賑やかな従者の方々ですな」
ベイザル王が苦笑いを見せると、ハシムも苦笑を浮かべて答える。
「ええ……とても『頼もしい』従者たちですよ」
ハシムは皮肉を込めて答え、後ろの面々に無言の圧力を送った。
流石にはしゃぎすぎたと悟ったのか、アンジェたちは一瞬で大人しくなった。そんな一行の様子を、遠くから見つめる者たちがいた。
「あれが帝国の皇子……、私の婚約者……」
テラスから一行を見つめる少女が呟く。
「大丈夫、心配しないでソフィア。いざという時はあたしが守ってあげるから!」
ソフィアの横に立つ快活そうな少女が、彼女の肩に手を置いた。
「相手がクソ男なら、あたしがぶん殴ってやる!」
力こぶを作って見せる少女。お世辞にも頼もしいとは言い難かったが、ソフィアは笑顔で応えた。
「ありがとうございます、ティナ姉様」
その笑顔を見て、ティナは安堵の表情を浮かべる。
「でも案外、かっこいい人かもよ、皇子。どこぞの王子と違ってさ」
ティナが頭の後ろで手を組んでいると、後ろから「こら」と声がし、頭を軽く小突かれた。
「イリーナ姉様!」
ソフィアが駆け寄り、イリーナと呼ばれた女性に甘える。イリーナは優しくソフィアの頭を撫でた。
小突かれたティナが不満げに口を尖らせる。
「別に、いいじゃないですか」
「正式な婚姻はまだとはいえ、我が夫となる方です。あまり侮辱はしないように」
イリーナに捕捉され、ティナは適当な返事を返した。
「はいはい、分かりましたよ」
イリーナは呆れつつも、妹たちの無邪気さを愛おしく感じていた。
「姫様方、そろそろお着替えを」
背後には、鋭い視線を送る侍女たちが整列していた。その圧力には勝てないのか、ティナも大人しく従う。
ふと、イリーナが視線を横に向けると、数枚離れたテラスに立つ一人の男が見えた。自分たちの兄であり、この国の第一王子テオドールである。
『王国にも、帝国にも、この国は渡さない』
いつか兄が漏らした言葉を、イリーナは思い出していた。
ここからでは彼の表情までは窺い知れないが、兄が何を考えているのか、彼女は一抹の不安を覚えていた。
その頃、ハシムたちが案内された大広間では、晩餐会の準備が慌ただしく進んでいた。
「殿下、今宵はこの大広間にて晩餐会を催したく存じます」
そう告げた王の側近が耳打ちをすると、王は「ああ、分かった。そっちで何とかしてくれ」と応じ、一礼した従者を下がらせた。
王は一度ため息をつき、すぐさま表情を切り替えて言った。
「皇子殿下! 宴席の準備にはまだ時間がかかります。まずは一度、お部屋でお休みいただきたい」
「分かりました。そうさせていただきます、陛下」
ハシムが答えると、王の合図で一人の従者が前に出た。
「ではお部屋へご案内いたします、ハシム皇子殿下」
そうして案内された部屋は、非常に豪勢な造りだった。
「何かあれば、我々使用人にお申し付けください」
言葉とともに扉が閉められ、室内にはハシムと従者四人が残された。
「一番乗り!」
「ずるい!」
アンジェが真っ先にベッドへ飛び込み、続いてフウカも飛び込んだ。
「不敬ですよ! 殿下を差し置いて飛び込むなんて!」
ライラが腰に手を当てて叱りつける。
「いや、不敬以前に行儀の問題でしょ……。それに殿下はベッドに飛び込んだりしないでしょ……」
カタリナが呆れて言うと、ハシムが口を開いた。
「皆、少し良いか」
いつの間にか、バルコニー側の椅子に腰掛けていたハシム。逆光で表情は見えないが、ふざける空気ではないことは皆に伝わった。
アンジェとフウカもベッドから降り、ハシムと向き合う。
「今更、改めての命令はしない。それぞれが《成すべきを成せ》。それだけだ」
その言葉に、皆が黙って頷いた。
「じゃあ、私はやるべきことをやるよ」
フウカがそう言って、バルコニーの手すりに足をかける。
「下見をするなら、侵入者騒動だけは起こすなよ」
「分かってるって!」
子供を叱るようなハシムの声に、余計なお世話と言いたげなフウカを、ライラが呼び止めた。
「フウカ、晩餐会までには戻るように」
「えっ……」
フウカが絶望的な声を出す。
「私も出るわけ? その晩餐会とやらに」
「当然です」
ライラは満面の笑みで頷いた。
「皇子の従者ならば当然の義務です。皆様全員に出てもらいますよ」
圧力を感じる笑みに、ハシム以外の全員がたじろぐ。
「礼儀作法、私が仕込んだ通りにできるか、しっかり確かめさせてもらいましょう……」
「シシリー」
ライラが手を叩くと、扉が開いてシシリーと呼ばれたメイドが姿を現した。
「シシリー、全員分のドレスを用意しなさい」
「はい、ライラメイド長!」
指示と同時に、部屋の外から次々と衣装が運び込まれる。
「アタシは晩餐会なんて出ないし、ドレスなんて着られないって言ったじゃん!」
「護衛隊長が殿下の側を離れるわけにはいかないでしょう?」
騒ぐアンジェを笑顔で諭すと、彼女は意気消沈して黙り込んだ。
「ちょっと、殿下からも何とか言ってよ」
「無理だ。教育形態に移行したライラは、私にも制御できん」
カタリナの小声の訴えに、ハシムは諦め顔で答える。
「あんた、主人でしょ……」
落胆するカタリナへ、笑顔のライラが振り向いた。
「カタリナ? 貴女は特に猫背ですから、キツめに締めないといけませんね」
カタリナが小さな悲鳴を上げた。フウカはその悲惨な状況を見届けた後、手すりを越えて難なく着地し、逃げるように去っていった。
日が沈みかける頃、大広間では晩餐会が始まっていた。
豪勢な料理や酒が振る舞われ、集まった有力者たちが踊りや談笑に興じている。
会場の隅では、不慣れなドレスに身を包んだアンジェたちが、ひっそりと佇んでいた。
「嫌だなぁ、この格好……」
「今更言わないで。恥ずかしいのはあんただけじゃないんだから」
アンジェの愚痴にカタリナが応じる。その横では、フウカが皿に盛られた料理を詰め込むように食べていた。
「あんた、よくこんな時に食べられるわね……」
「だって、食べられる時に食べとかないと損じゃん」
呆れるカタリナを他所に、フウカは口の周りを汚しながら食べ続ける。
「はぁ……本が恋しい……」
「晩餐会に本を持ち込めるわけないだろ。馬鹿か?」
アンジェの指摘に、カタリナが反論する。
「本を読んだことのないあんたよりは馬鹿じゃないわよ!」
「本くらい読んだことあるし! 『狼の大冒険』とか!」
「それ、ほぼ絵本じゃない!」
取っ組み合いになりそうな勢いで睨み合う二人と、食べ続けるフウカ。彼女たちは色々な意味で会場の注目を集めていた。
盛り上がる会場に、突然大きな声が響き渡った。
「アンダルシア帝国第四皇子、ハシム様ご来場です!」
音楽が切り替わり、皆の視線が中央の大階段へ集まる。
そこには、礼服に身を包んだハシムが、一段ずつゆっくりと降りてくる姿があった。少し後ろにはライラが付き従っている。
「あれが帝国の第四皇子……」
「あの褐色肌……異邦の血を継いだ庶出の皇子と聞いたが……」
「あんな異邦人の血が、高貴な王族に流れるとは嘆かわしい……」
ハシムの登場に、参列者たちは口々に言葉を漏らす。その声を耳にし、カタリナたちは苦い表情を浮かべた。
「アンジェ、殺気が漏れてるわよ。我慢なさい。フウカ、あんたも」
カタリナの指摘に、目を細めて周囲を睨んでいた二人が我に返る。
「ごめんごめん。何も知らないくせに、なんて思ってないから」
アンジェたちの様子に、カタリナも思わず小声で呟いた。
「殿下とライラは西方系、アンジェは南方大陸、フウカは東方系……みんな、苦労するわね……」
大陸中央で未だ根強い白人至上主義に、カタリナは嫌気が差していた。
「お待ちしておりましたぞ、殿下! 私、帝国大使を務めておりますフリックと申します」
階段を降りたハシムに、細身の男が声をかけてきた。ハシムは握手を交わしながら言葉を返す。
「大使、婚姻同盟の件では色々と手間をかけさせたな」
「とんでもない。私はただ、両国の平和には同盟が必要不可欠と考え、成すべきことを成したまでにございます」
「それができるのは、ごく一部の者だけだ。よくやったな、大使」
ハシムの労いの言葉に、大使は深々と頭を下げ、感嘆の表情を浮かべた。
「あの大使、随分な役者ですね。実際、彼が果たした役割なんてほとんど無いくせに」
「大使なんて、お偉いさんと握手するのが仕事だもんな」
カタリナが軽蔑の目を向け、アンジェが半笑いで同意する。
ハシムの周囲には、親帝国派の貴族や商人が人集りを作っていた。彼らが一人一人対応している最中、再び大声が響く。
「ベイザル王陛下、ご来場です!」
音楽が変わり、視線が再び階段へ。王は王妃の手を引き、ゆっくりと降りてきた。その後ろに第一王子と三姉妹が続く。
「ベイザル陛下!」
「王妃様は相変わらずお美しい……」
「テオドール様だわ!」
「やはり王女三姉妹は華やかさが違いますな」
王族の登場に、会場は称賛の声に包まれる。その様子を見たアンジェが不機嫌そうに漏らした。
「殿下の時とは、大違いだな」
「まあ一応、この国を統治する王族だしね。国を滅ぼしていないだけで、十分賢王なんじゃない?」
皮肉混じりのカタリナの言葉が聞こえたのか、数人の参列者が彼女を睨みつける。流石にまずいと思ったのか、彼女は視線を逸らしてグラスの酒を煽った。
「早速、囲まれているようですな、殿下!」
階段を降りたベイザルが声をかけると、ハシムを囲んでいた人々は一礼して下がった。
王が近づこうとすると、側近が「陛下、先に挨拶を……」と遮る。
「分かっておるわ。これくらい良いであろう、全く……」
渋々といった顔でグラスを受け取り、ベイザルは会場の中央へと向かった。他の王族もそれに続く。
「皆! よくぞ参った! 今宵は存分に食べ、飲み、踊り明かそう! 王国に永遠の繁栄を!」
王の掛け声に合わせ、会場の全員がグラスを掲げた。
「王国に繁栄を!」
一斉に響き渡る声の中、ハシムたちも無言でグラスを掲げた。
王の登場で熱気が増す会場の端で、ハシムは従者たちと合流した。
「帝国の皇子を歓迎する席で、『帝国と王国』ではなく『王国』に繁栄を、ですか。随分な国ですね」
「それがこの国の本音なのでしょう。同盟を結んでもなお、自国の利益を最優先するという」
不満げなカタリナの言葉に、ライラが冷静に応じる。
「別に悪いことではない。誰もが自国の利益を優先するのは、帝国とて同じだ。わざわざ咎めることでもないさ」
グラスを傾けるハシムのもとへ、王が近づいてくる。
「殿下! 晩餐会は楽しんでおられますかな? 何か入り用があれば、何なりとお申し付けください!」
「それには及びません、陛下。酒も料理も、十分に楽しませていただいております」
ベイザル王の勢いに若干押されつつも、ハシムは卒なく答えた。
「しかし、殿下は噂とは随分と違いますな」
その言葉に、ハシムは眉を動かした。
「噂とは?」
「いやぁ……ご本人を前に言うのは……」
言い淀む王に、ハシムは続けた。
「構いません。《庶出》の第四皇子という立場上、不確かな噂には慣れております」
「そ、そうですか? それならば……」
ベイザル王は一つ咳払いをし、遠慮がちに切り出した。
「あくまで噂なのですが……殿下は問題を起こした使用人をその場で切り捨てたり、馬車の前を塞いだ子供を斬り捨てた、などと……もちろん、あくまで噂だというのは分かっておりますが!」
慌てて弁明する王を、ハシムはなだめた。
「ええ、よく分かっていますよ」
その背後で、ライラたちが密かに囁き合う。
「なあ、馬車のやつって……」
「ええ。殿下の初陣での出来事が、ねじ曲がって伝わったのでしょう」
アンジェの耳打ちに、ライラが小声で答えた。
「あ、忘れるところでした! 殿下に我が家族を紹介せねば!」
王は近くにいた女性を手招きした。
「ウルスラ、こっちだ! ご紹介します。我が妻、ウルスラです!」
紹介された女性は、非常に美しい容姿をしていた。
「初めまして殿下、ウルスラと申します。以後、お見知りおきを……」
ハシムは丁寧な一礼をする王妃の前に跪くと、その手を取り、手の甲に静かに口づけをした。
「どうだ、美しいだろう! 我が宝なのだ!」
「陛下……殿下の前です。あまり失礼なことを……」
「すまんすまん、お主を見るとつい自慢したくなってしまってな!」
王の惚気ぶりに若干引きつつも、ハシムは微笑んだ。
「夫婦円満は、何よりの宝だと存じます」
「いい言葉ですな、殿下!」
王に背中を強く叩かれ、ハシムは少し咽せた。そんな様子を、王の後ろから見つめる視線があった。
「おお、来たな我が娘たちよ」
王に促され、三人の娘たちが前に出る。
「初めまして、殿下。長女のイリーナと申します」
イリーナはドレスの裾を持ち、優雅に一礼した。
「初めまして、殿下! 次女のティナです! よろしくね!」
ティナはウインクを交えながら少し不格好に一礼し、王夫妻を当惑させた。
「は、初めまして殿下……三女のソフィアと申します……」
ぎこちないながらも懸命に一礼したのは、人形のように可憐な少女だった。
「初めまして、姫様方。アンダルシア帝国第四皇子ハシムと申します」
ハシムが三人の前で深々と跪いて返礼すると、三人は驚きに目を丸くした。
ソフィアは、先ほどハシムが王妃にした口づけを思い出したのか、思わず手を後ろに隠した。
「我が娘たちも、帝国の皇子相手ともなるとタジタジだのう」
「ええ……以前訪れた隣国の王子があれでしたから、尚更……」
王妃が言いかけると、ベイザル王が手で制し、それ以上の言葉を飲み込ませた。
「殿下! もう一人、紹介させていただきたい!」
王が手招きした青年がハシムの前に立つと、無言で鋭い視線を向けた。
「挨拶せぬか、テオドール!」
促された青年は不本意そうに一礼した。
「ベイザルが長子、テオドールと申します……もう行ってもいいでしょうか、父上」
「もう少しくらい何かないのか!」
憤る王に対し、テオドールは「ありません」とだけ返した。
去り際にテオドールはハシムを一度睨みつけると、諌める王を無視して去っていった。
「いやぁ、我が息子ながら無愛想で申し訳ない」
「いえ……」
露骨な敵意を向けられ、胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
「ところで陛下、一つ伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、何でも聞いてくれ、殿下!」
ハシムは以前から抱いていた疑問を口にした。
「私の婚約者となる方は、どなたなのでしょうか?」
予想外の質問だったのか、王は一瞬硬直した。
「聞いておられなかったのですか!」
「はい。実のところ婚姻同盟の話を受けてから一月ほどで発ったため、お名前すら……」
慌てた様子の王は、ある人物に視線を向けた。
「そ、そうでしたか……それならば改めてご紹介を」
王の言葉に反応し、一歩前に出たのは三女のソフィアだった。
「よ、よろしくお願いします……殿下……」
ハシムは黙り込んで思案し、ソフィアに尋ねた。
「失礼ながらソフィア様、おいくつでいらっしゃいますか?」
「今年で……十三になります」
見た目からの予想通りではあったが、ハシムは少し頭を抱えた。
「陛下、この国における成人は十五からでしたね?」
「ええ、その通りです、殿下」
王は慌てて言い訳を並べ始めた。
「殿下、どうか誤解しないでいただきたい。成人前とはいえ、ソフィアが婚約者として不適格というわけではないのだ」
「ええ、それは分かっています。ただ……成人までの二年間、正式な婚姻が結べないとなると……」
当然の疑問をぶつけるハシムに、王は強く主張した。
「もちろん分かっております! ゆえに、殿下には二年間我が国に滞在していただき、その間にソフィアとの仲を深めていただきたいと考えておるのです!」
「……陛下がそう仰るのであれば」
王の熱に押される形で、ハシムは承諾した。
「それは良かった!」
王は満足げにハシムの肩を叩く。納得しきれないものはあったが、今は受け入れるべきだとハシムは判断した。
王族との顔合わせを終え、再び従者たちと合流する。
「十三歳を嫁がせるなんて、イカれてるね、この国」
「上流社会ではありがちな話ですが、いざ目の当たりにすると受け入れ難いですね……」
料理を頬張るフウカに、カタリナが応じる。
「しかし、どうして三女のソフィアなんだ? 長女か次女なら成人は迎えているだろうに」
アンジェが当然の疑問を口にした。
「長女は隣国の王子との婚姻が決まっていますし、次女に関しては……色々と噂があるようです」
ライラが答えると、アンジェが聞き返す。
「噂?」
「なんでもティナ王女は剣技を磨き、狩りに明け暮れるなど、王女とは思えない振る舞いをされるそうで」
そう語りながら、ライラはフウカの汚れた口を拭いてやる。
「それは頼もしい姫様だね。アタシと気が合いそうだ」
「アンジェ、もし手合わせすることになっても手加減してあげてくださいね。流石に貴女ほどではないでしょうから」
アンジェは「分かってるって」と不貞腐れながら食べ続けた。
「しかし、色々問題を抱えていそうな一族ですね。特に長男のテオドールは殿下に露骨な敵意を向けてきましたし。あれは同盟を歓迎していない目でしたよ」
少し酔った様子のカタリナが、頬を赤くして指摘する。
「仕方ないさ。二人の外の人間が一族入りしようとしているんだ。危機感を覚えるのも無理はない。私も同じ立場なら、ありとあらゆる手を尽くすだろう」
ハシムも酒を飲み干し、静かに語る。
「殿下、その『あらゆる手』が問題なんですよ。きっとあの王子、婚姻を破綻させるために色々仕掛けてきますよ」
「それならば、こちらも全力を尽くすだけだ。王子一人の手に阻まれる私ではない」
ハシムは力強く言い切ると、グラスに残る酒を飲み干すのだった
「殿下、少々よろしいですかな?」
それから少しして、再び王が声をかけてきた。
「実は……我が娘ソフィアと踊っていただけないかと思いまして」
王の後ろには、恥ずかしそうにするソフィアが立っていた。
「もちろんです、陛下」
ハシムが答えると、ソフィアは小声で応じた。
「よ、よろしくお願いします……殿下……」
ハシムはソフィアの手を取り、会場の中央へ。
「お目汚しですが、どうかご覧あれ」
ハシムの言葉を受けた王の合図で音楽が始まる。
「どうか、私にお任せください。ソフィア姫」
ハシムが耳元で囁くと、ソフィアは頬を赤らめて頷いた。音楽に合わせ、二人のダンスが始まる。
身長差こそあるものの、ハシムの巧みなリードで流麗な動きを見せる二人に、誰もが注目した。
「とてもお上手ですよ、ソフィア姫」
「あ、ありがとうございます……」
再び頬を赤らめるソフィア。その光景を見ながら、ライラは複雑な表情を浮かべていた。
「ライラも、一緒に踊りたいと思う?」
「なぜそのようなことを聞くのですか?」
微笑むライラに対し、フウカが直球を投げる。
「だって、怒ってるみたいに見えるから」
アンジェとカタリナが「禁句だ」とばかりにフウカを制止した。
「あっち行こう、フウカ! まだ料理が残ってるぞ!」
二人に連行されていくフウカを見送った後、一人残ったライラは呟いた。
「こんな我儘、許されない……私には果たすべき一族の使命があるのですから……」
自分を戒めるように、彼女は拳を強く握り込んだ。
「聞いちゃダメなの?」
連れて行かれた先で、フウカが不満そうに尋ねる。
「ダメに決まってるでしょ。あんたも、殿下とライラが互いに重い感情を向け合ってるのは分かってるでしょ?」
「それが恋愛的なものかまでは分からないけれど……」
カタリナが複雑そうに答えると、アンジェが適当に返した。
「でも、好きなら好きって言っちゃえばいいじゃん」
「あんたね……色恋っていうのはそんな単純なものじゃないのよ」
カタリナが釘を刺す。
「今の殿下には婚約者がいるの。メイドとの色恋なんて許されないの」
「そんなの、無視すればいいのに」
フウカは納得いかない様子で、独り言のように呟いた。
「お上手でしたよ、ソフィア姫」
「あ、ありがとうございました、ハシム殿下……」
曲が終わり、二人が一礼すると会場から拍手が沸き起こった。
息を弾ませ頬を染めたソフィアはハシムを見つめていたが、王の声で我に返る。
「皆様! 素晴らしい踊りを見せてくれた我が娘と婿殿に、今一度大きな拍手を!」
再びの拍手に王は満足げに頷き、言葉を継いだ。
「さて! まだまだ踊り足りぬ者はどうぞ前へ! 今宵は踊り明かそうではないか!」
晩餐会の熱気は、まだ冷めそうになかった。
大広間二階のテラス。夜風に当たるハシムに、ライラが声をかけた。
「殿下、酔っておられますね?」
手すりに寄りかかるハシムは、「ああ、少しな……」と空を見上げたまま沈黙した。
「殿下、私で良ければ何でもお聞きします。それがメイドの務めですから」
その言葉にハシムは安堵し、口を開いた。
「何、難しいことを考えていたわけではない。ただ……悩みが尽きないと思っただけだ」
ライラはしばらく考え込み、意外な答えを返した。
「良いことではありませんか?」
「悩むことがか?」
「『人生とは悩むことだ』……ある偉人が言ったかもしれない言葉です」
ハシムは思わず吹き出した。
「ふっ、何だそれは」
場の空気が和らぐ。
「確かにそうかもな。悩むことで、生きているという実感が湧くのかもしれない」
ハシムはライラを見据え、真剣な眼差しで続けた。
「追放はされたが、私が果たすべき大望は変わらない。ならば悩みなど些細な問題か……」
「ええ、その通りです。殿下は大望を果たさなければなりません」
ハシムは覚悟を新たにした。
「成すべきを成す。そのためには、やはりこの国にはいずれ、帝国と同じく消えてもらわなければならない。その時が来るまでに、力を蓄える」
「はい、ハシム皇子殿下」
そう答えたライラが深く頭を下げた。そんな二人のやり取りを、壁の影でソフィアが聞いていた。
「皇子殿下、貴方は……」
アンダルシア帝国第四皇子ハシムは、北の小国レークランド王国へと追放された。地位も権力も失った彼だったが、やがてその名を歴史に深く刻むことになる。
帝国暦四九八年三月。
雪解けの北国にて、皇子ハシムの大望を果たすための途方もない旅が、今始まった。




