第19話 静寂の夜
その日の夜、事後処理を終えたハシムたちは国境門へと帰還した 。
すでに日は沈みきり、一帯を冷ややかな月明かりが照らし出している 。
「はぁ……ようやく寝られる……」
馬を降りたスレイが力なくぼやくと、背後からアンジェが声をかけ、その肩に腕を回した 。
「夜はまだまだこれからだよ、スレイくん」
「今からですか……? 勘弁してくださいよ……」
「まあまあそう言わずに。今夜はアタシの奢りだぞ」
スレイは「いや、その金って……」と小声でツッコミを入れかけたが、結局は諦めた様子でアンジェに連れ去られていった 。
「帰ってきたか、ハシム」
国境門の詰所からゼインが姿を現し、出迎える 。
馬を降りたハシムは「ああ、終わらせてきた」と短く応じ、ゼインと拳を合わせた 。
「一応報告は聞いたが……。本当に返り血すら無いとは、一体どんな戦いをしたんだ?」
ゼインの問いに、ハシムは「それは後で話す」とだけ言い残し、詰所の奥へと足を進めた 。
一番奥の部屋の前には、ライラが静かに佇んでいた 。
「お待ちしておりました、殿下」
ライラが深く頭を下げると、ハシムはその前で立ち止まった 。
「姫様はこの部屋に?」
「はい。お休みになられています」
ハシムは自身の身だしなみを整え、ライラに目配せを送る 。
ライラが扉をノックし、「殿下がお着きになりました」と告げた 。
「どうぞ、お入りになってください」
部屋の中から応じたのはキュリーだった 。
ハシムが部屋に入ると、正面のベッドには静かな寝息を立てるソフィアの姿があった 。
「殿下、お待ちしておりました……」
キュリーは椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる 。
彼女に促されるまま、ハシムはベッド脇の椅子に腰を下ろした 。そこには、あどけない表情で眠るソフィアがいた 。
「ソフィア様は、寝てしまわれたようですね」
「はい。殿下が帰還されるまで起きていると仰っていましたが……」
安らかな寝顔を見つめながら、ハシムは自分が守り抜いたものの尊さを、静かに噛みしめていた 。
その時、気配を察したのかソフィアがうっすらと目を開けた 。
「キュリー……?」
寝ぼけ眼のソフィアは、視界がはっきりするにつれ、目の前の人物が誰であるかに気づき、驚きに目を見開いた 。
「で、殿下! 戻ってこられたのですね……」
彼女は慌てて起き上がり、乱れた髪を指先で整える 。
「殿下を待つと決めていたのに、寝てしまうなんて……。顔向けできません」
「どうかそのようなこと、仰らないでください。私にとって、ソフィア様が安心して眠れる……それだけで、この手を血に染めた甲斐があります」
ハシムは視線を落とし、自身の手のひらを見つめた 。そこへ、ソフィアがそっと自分の手を重ねる 。
「殿下だけにこの重荷を背負わせるつもりはありません。どうか、顔を上げてください」
顔を上げたハシムの目に、優しく微笑むソフィアが映った 。
「ありがとうございます、ソフィア様。これで私も、少し前に進める気がします」
「お力になれたら幸いです」
ハシムがその手を握り返すと、ソフィアもまた慈しむように握り返した 。
やがて安心したソフィアが再び深い眠りに落ちた後も、ハシムはしばらくその手を握り続けていた 。
「ありがとうございます、殿下」
その様子を見守っていたキュリーが、静かに声をかけた 。
「いえ、大したことはしていませんよ」
「いいえ。殿下が助けてくれなければ、ソフィア様も私も……」
最悪の事態を思い出したのか、キュリーは自身の腕を掴んで身を震わせる 。
そんな彼女の肩に、ライラがそっと優しく手を置いた 。
「大丈夫ですよ、キュリー。もうあなたを傷つける者は居ません」
「ありがとうございます、ライラさん……」
キュリーは一筋こぼれた涙を、静かに指で拭った 。
しばらくして、部屋の扉が控えめにノックされた 。
「俺だ、ゼインだ」
ハシムが立ち上がり、入り口へと向かう 。
「悪いな、取り込み中だったか?」
「いや、大丈夫だ。それで、何の用だ?」
「ああ。実は大使がお前を呼んでいてな」
ハシムは眠るソフィアを一瞥し、思考を巡らせる 。
その様子を見たゼインは、「もし姫様の側に居たいなら、俺から断りを入れておくが……」と提案したが、ハシムは首を振った 。
「必要ない。大使に会おう」
ハシムはキュリーに後を託し、ゼインの案内でスヴェン大使の部屋へと向かった 。
部屋に入ると、スヴェン大使は勢いよく立ち上がり、ハシムの両手を強く握りしめた 。
「おお殿下! ご無事でしたか! どこも怪我はされていませんか!!」
「大丈夫です大使、どうかご心配なく……」
大使の過剰な心配に少し引きつつも、ハシムは笑顔で応じた 。
「さあ、殿下。景気づけに一杯どうぞ!」
大使が小さなグラスに並々と注いだのは、強烈な匂いを放つ酒だった 。
ハシムが意を決してそれを一気に飲み干すと――。
「ぐっ……!!」
あまりの刺激に激しく咳き込むハシムに、背後に立つゼインが笑いながら背をさする 。
「北方でよく飲まれている酒です。かなり強いですから、気付け薬としても使う代物でして。殿下もこれを飲み、生きていることを実感されたのでは?」
大使のその言葉に、ハシムは一瞬言葉を失い、やがて静かに口を開いた 。
「……そうですね。命のやり取りをしてから、命というものが曖昧になっていたかもしれません」
寂しげな表情を見せるハシムの肩を、ゼインが叩く 。
「咽せるのも生きてる証ってことだ」
ハシムはその気遣いを噛みしめるように目を閉じると、再び顔を上げた 。
「大使、もう一杯いただけますか?」
「ええ、何杯でも」
今度はゼインも交え、しばらく飲み交わすのだった
その後、酔い潰れた大使を部屋に残し、ハシムとゼインは近くの宿酒場へと足を運んだ 。
店内は、南北を行き交う商人たちで活気に満ち溢れている 。
「嬢ちゃん、エール二杯」
ゼインが注文を通すと、ハシムは店内の喧騒を眺めた 。
その視線の先には、大騒ぎしているハシムたちの部下の姿がある 。
「俺たちの部下か……。あっちに合流するか?」
「冗談はやめてくれ。お前と静かに飲む方がいい」
ハシムの言葉に、ゼインは少し嬉しそうな表情を見せた 。
「しかし、お前と飲むならライラ嬢ちゃんも一緒にいて欲しかったが……」
「ふっ、あいつは人前で酔うようなヤツじゃない。それは叶わないな」
「そう言いながら、お前も酔ったライラ嬢ちゃんも見たいんじゃないか?」
ゼインの問いに、酔うライラの姿を一瞬想像してしまったのか、思わず無言になってしまう
「はは、お前もまだまだ青いな。酔った嬢ちゃんが何を言うのか、それを想像したんだろ?」
図星といった様子で、ハシムはゼインを睨み返す
「そんなに睨むなよ……。というか、まだ曖昧な関係を続けてるのか?いい加減覚悟決めたらどうだ?」
「勝手なことを言うな」
「第四皇子って立場なら、誰を側室に選ぼうが咎められないだろ?」
「…………」
問いかけに無言を貫く様子を見て、ゼインが口を開く
「なるほどな、側室すら嫌か」
その言葉にハシムが鋭い眼光を向けると「すまん、俺が悪かった。もう終わりだ」そう口したゼインは、降伏したように手を上げる
直後酒が運び込まれ、会話は次第にそして「強さ」の定義へと移っていく 。
「しかし、二十人と戦ってかすり傷すらないとはな。もうお前に勝てる奴なんていないだろ」
「そんなことはない。今回は相手が烏合の衆だっただけだ」
ハシムは謙遜したが、ゼインは「十分すごいと思うが」と笑いながらエールを流し込む 。
「俺はそれほど強くはない。搦め手で強く見せているだけだ。武力だけで言えば、アンジェや兄のオズマ、各国の豪将たちには及ばない」
「だが、もうすぐ一人の強者が戦局を変えるような時代は、終わるかもしれないな……」
ハシムは、ゼインの傍らに立てかけられた、布に包まれた「棒状の何か」へと視線を向ける
「一人の農民が強者を倒す日も、そう遠くない。その舞台はいずれ俺が用意する」
酔いの回ったゼインは半信半疑だったが、ふと思い出したように声を低めた 。
「なぁハシム……。お前が前に言ってた、滅ぼしたいって国。帝国だったりしないよな?」
ハシムは無言でエールを口に運ぶ 。
「国を滅ぼせば、お前は自由の身になる。そうなれば、結婚相手も自由に選べる……。まさか、そんなことのために国を滅ぼそうなんて考えてないよな?」
ハシムは依然として無言を貫き、その瞳に宿る真意を読み解くことはできなかった 。
喧騒に包まれた酒場の中で、その一角だけが奇妙な静寂に支配されたまま、夜は深まっていくのだった




