第16話 北国からの使者
王都を発って五時間ほど経った頃、ソフィアが目を覚ました。
「お目覚めですか、姫様?」
ハシムの声に、ソフィアは慌てて起き上がり衣服を整える。
「で、殿下……。お見苦しい姿をお見せしてしまい……」
謝りかけるソフィアに、ハシムは「いえ、とても可愛らしい寝顔でしたよ」と微笑む。その言葉に、彼女は瞬時に頬を染めた。
「その……申し訳ありません。殿下が色々お話をされていたにも関わらず、寝てしまうなんて……」
向き直って改めて謝罪するソフィアに、ハシムは穏やかに首を振った。
「いえ、私としては寝てくださって安心しました」
「安心……ですか?」
「ええ。眠気を我慢するのは辛いですし、寝られる時に寝るのが一番ですから。それに、これから大使と会うのです。眠いままでは仕事にならないでしょう? そういう意味でも、休んでいただけたのは僥倖でした」
ハシムの気遣いに、ソフィアは深く頭を下げる。
「そうでしたか……。お気遣い、感謝いたします……。ところで殿下、王都を発ってどれくらいでしょうか?」
「およそ五時間……といったところでしょうか」
ハシムがそう返すと、彼は背後にある小窓を軽く叩いた。
「アンジェ、そろそろ着く頃か?」
小窓から馬車の手綱を握るアンジェが顔を出し、前方を指差す。
「もうすぐですよ」
ハシムが窓を覗き込むと、その先にはキャバリア山脈を山頂まで二つに割ったような、巨大な峡谷へと続く道が伸びていた。
「キャバリア峡谷……。いつ見ても不思議な地形ですね」
いつの間にか隣で小窓を覗き込んでいたソフィアが、感嘆の声を漏らす。
「ええ、自然に出来たとは思えない景色ですね……」
二人はしばらくの間、その壮大な景色に見入っていた。
国境門に到達し、一行は北の地への玄関口に降り立った。
ハシムはソフィアの手を取り、優しくエスコートする。
「どうぞ、ソフィア様」
「ありがとうございます、殿下」
馬車を降りたソフィアが辺りを見回すと、吐き出す息が白く濁った。
「まだ、この辺りは寒いのですね……」
「そうですね。ですが、熱意のある者も居るようです」
ハシムの視線の先には、長い列を成す馬車があった。
「殿下、あれは?」
「北方諸国に向かう商人たちです。キャバリア峡谷道が通れるのは一年のうち六ヶ月程。彼らにとってはその期間だけが商機なのです。一日でも早く商売を始めようと、こうして集まっているのですよ」
「なるほど。国境門の周りが宿場町として発展しているのは、そのためなのですね」
「ええ。我が帝国も小麦の収穫が終われば、すぐに北方諸国へ送らねばなりません。収穫期は多忙を極めます。だからこそ、北への玄関口を持つレークランドとは、必ず友好国でなければならないのです」
ソフィアはしばらく思案した後、静かに口を開いた。
「実は私……婚姻同盟の重要性について、あまり深く考えていませんでした。ですが殿下のお話を聞き、ようやく理解できました。同盟は二カ国だけの問題ではなかったのですね」
「ええ。帝国と王国が結ばれれば、北方諸国を含めた事実上の『三国同盟』となります。北方諸国もこの婚姻を歓迎するでしょう。私とソフィア様で出向くことには、それだけの意義があるのです」
ソフィアは「やはり、そうでしたか……」と頷くが、ふとある疑問が浮かび、恐る恐る尋ねた。
「あの、殿下……。もしも、同盟が成立しなくなった時は、どうなるのでしょうか……?」
ハシムは少し考えた後、真剣な眼差しで答える。
「前提条件によりますが、今の帝国が求めているのは『安定』……つまりは安全保障です。レークランドには、北方諸国との交易路の安全を確保してもらわねばなりません。本来、護衛は帝国軍の仕事ですが、友好国でない地で軍を動かすことはできません。その代わりに王国軍や傭兵が守るわけですが……」
ハシムの言葉が、少し鋭さを帯びた。
「もし、北方諸国への大事な穀物を守れぬほど治安が悪化したり、あるいは『荷留』などの妨害が行われたりすれば……我ら帝国は北方諸国と共に直ちに、レークランドへと戦争を仕掛けるでしょう」
ソフィアは言葉を失った。その様子を見たハシムは、すぐに柔和な表情に戻る。
「もちろん、これは極論です。ベイザル王も重要性は理解されていますし、婚姻同盟が破棄されるほどの事態など早々起こりません。ですからどうか、安心してください」
俯くソフィアの手に、ハシムはそっと自身の手を添える。
「殿下……、私は……」
「重荷に思う気持ちは分かります。ですから、その半分を私に背負わせてくださいませんか? 『夫』としても、どうかお願いします」
「……ありがとうございます、殿下。少し、心が軽くなった気がします」
ソフィアは顔を上げ、ようやく笑顔を見せた。
「いやぁ~、相思相愛って感じだねぇ」
二人のやり取りを見ていたアンジェが茶化すと、隣のライラが淡々と応じる。
「そうですね」
感情の籠もらない返事に、アンジェが苦笑いした。
「やけ起こさないでね?」
「……私がそのようなことをする人間に見えますか?」
ライラが満面の笑みを向けると、アンジェは「思ってないから!」と必死に弁明した。
「いやぁ、ライラは怒らせないに限るね」
アンジェが冷や汗を拭いながらスレイの元へ歩み寄る。
「そう思うなら、最初から怒らせなければいいでしょうに……」
スレイが呆れ顔で応じると、アンジェは「いやいや、あれは一種の愛情表現なんだよ」と笑った。スレイは「理解できませんね」と首を傾げる。
「ところでスレイ、同盟が破棄されることってあると思う?」
不意の問いに「突然なんですか……」と困惑しつつ、スレイは少し考え込んでから答えた。
「可能性としてはいくつかあります。一つは同盟に利点を見出せなくなった時。もう一つは、婚姻当事者の関係悪化でしょう」
「へぇ……。それじゃあ、帝国とレークランドの同盟も破綻する可能性があるの?」
「あり得ませんね。前者の場合、北方諸国を巻き込んだ三国同盟の利点はあまりに大きい。後者についても、あの二人を見れば関係悪化など想像もつきません」
スレイの視線の先では、ハシムとソフィアが仲睦まじく談笑していた。
「確かに、言われてみればそうだね」
「ええ。それよりも、同盟が破綻するとしたら『ウェルシュとレークランド』の方でしょう」
アンジェが「それはどうして?」と聞き返す。
「ウェルシュが北方諸国と同盟を結んでも、帝国以上の利点は提示できません。それに、ウェルシュの王子が噂通りの人物なら、関係悪化による破綻は十分にあり得ます。何より……」
スレイは言葉を継いだ。
「ベイザル王は北方を安定させるために二カ国同盟を狙ったのでしょうが、帝国とウェルシュの関係を考えれば、いずれどちらか一方を選ばざるを得なくなる……。つまり、破綻は目に見えています」
「そっか。でもまぁ、どっちを選ぶかなんて、分かりきってるけどね」
アンジェの半笑いの言葉に、スレイも静かに頷いた。
談笑するハシムたちの元に、一人の衛兵が近づいた。
「お待ちしておりました、ソフィア様。北方諸国の大使がお待ちです」
案内されたのは、国境門にある応接室だった。
中では厚手のコートを着込んだ紳士が立ち上がり、手袋を脱いで手を差し出した。
「初めまして、ソフィア王女。北方諸国の大使を務めております、スヴェンと申します」
「こちらこそ、よろしくお願いします、スヴェン大使」
ソフィアがその手を握ると、スヴェンは傍らの人物に気づき目を細めた。
「おや、そちらの方は……?」
「ご紹介します。アンダルシア帝国のハシム皇子殿下です」
ハシムが一歩前に出て、胸に手を当て一礼する。
「初めまして大使。ハシム・フォン・アンダルシアと申します」
「おお、ハシム殿下でしたか! レークランドへお越しとは聞いておりましたが、わざわざのお出迎え、感謝いたします」
「北方諸国は我が帝国の同盟国。私が出向くのは道理というものです」
「はは、殿下は実直でいらっしゃる。さあ、どうぞお座りください」
スヴェンに促される中、ソフィアは大使の背後に控える一人の青年が気になった。
「大使……そちらの方は?」
「ああ、彼は護衛隊長のゼインです。ゼイン、挨拶を」
促された青年が一歩前に出た。
「護衛隊長のゼインと申します。姫様、初めまして。……そして殿下、お久しぶりです」
「久しぶり? ゼイン、お前は殿下と知り合いだったのか?」
スヴェンの驚きに、ゼインは「ええ」と短く答えた。
「大使、実は半年ほど北方諸国に滞在した折、色々ありまして……。ゼインとはその時からの腐れ縁なのです」
ハシムの説明に、スヴェンは「なるほど」と得心したように頷いた。
ゼインはソフィアにも手を差し出し、二人は短い握手を交わした。
その後の応接室では、和やかなお茶会が始まった。
「これが北方諸国の菓子ですか……」
「ええ。ブドウやベリーを練り込み、帝国から届いた小麦で作った日持ちのする菓子です。殿下もどうぞ」
ハシムは勧められた菓子を一口食べ、紅茶で流し込む。
「とても美味しいですよ、大使」
「それは良かった。王族の皆様にもぜひご賞味いただきたい」
「ええ、父も兄たちも必ず気に入るでしょう」
ソフィアも満足げに微笑んだ。
「おっと、忘れるところでした。ベイザル王への献上品もございます」
スヴェンの合図で、ゼインが丁重にある箱を運んできた。
「大使、これは?」
箱の中には、藁に守られた二本のワイン瓶が収められていた。
「北方諸国のワインですか」
ハシムが感心した声を出す。
「殿下、ご存知なのですか?」
「ええ、飲んだ事はありませんが、北方諸国の『冬越ワイン』は極めて希少だと聞き及んでいます」
「左様でございますか。これなら父上も喜ばれるでしょう」
その後も、大使が持ち込んだ北方の品々を囲み、談笑の花が咲いた。
出発の準備に取り掛かる頃、ハシムとゼインは二人きりで言葉を交わしていた。
「久しぶりだな、ゼイン」
「お前もなハシム。……いや、皇子殿下と言った方がいいか?」
ゼインが大袈裟な身振りで一礼してみせると、ハシムは苦笑する。
「やめてくれ、そういう仲じゃないだろう」
「はは、すまん。ついな」
ハシムは、普段ソフィアに見せるものとは違う、友人としての笑みを零した。
「随分と丸くなったな、あの『狂犬』だったゼインが……」
「流石に成人してまで、あの頃のままじゃいられないさ」
そこへ、ソフィアが不思議そうに尋ねてくる。
「仲がよろしいのですね。お二人はどのような出会いをされたのですか?」
ハシムは顎に手を当て、昔を懐かしむように話し出した。
「あまり、いい出会いとは言えませんね」
「確かに。最初はハシムのことを『闇商人』だと疑っていたからな」
「闇商人……ですか?」
驚くソフィアに、ゼインが説明する。
「北方諸国は鎖国状態ですから、持ち出し可能な品は厳格に決まっています。そのため、時折闇商人が密輸を目論んで価値ある品を嗅ぎ回るのですよ」
「私は商会の営業として聞き回っていたのですが、そこでゼインに難癖をつけられまして……」
「難癖って……。まぁいい、とにかくそれが始まりだ」
ソフィアは目を輝かせた。
「その後も色々とお話がありそうですね」
「ええ。ですが、立ち話でする内容でもないな。また機会があれば。ソフィア様、それでよろしいですね?」
ハシムの問いに、ソフィアは元気よく頷いた。
「隊長、大使がお呼びです」
「殿下、アンジェ隊長が用があると……」
呼び出しを受け、ハシムとゼインはソフィアを残してその場を離れた。
二人の背中を見送りながら、ソフィアが小声で呟く。
「殿下のあのようなお顔、初めて見ました……」
「殿下も年相応の顔をすることくらい、あるでしょう」
背後にいたキュリーの言葉に、ソフィアが振り向く。
「聞いていたのですか、キュリー」
「はい、聞こえてしまいました。殿下もまだ十八ですから。歳の近い相手には、あんな顔も見せるのでしょう」
ソフィアは少し考え込み、ぽつりと漏らした。
「私も早く、殿下に相応しい大人に……」
「ソフィア様はそのままでも良いと、私は思いますよ」
キュリーの慰めに、ソフィアは少しむくれて複雑な表情を浮かべた。
「なにやら騒がしいですね」
キュリーの視線の先では、商人らしき者たちが激しく言い争っていた。
「仲裁しに行ってください」
ソフィアが衛兵に命じるが、衛兵は戸惑いを見せる。
「ですが、姫様の側を離れるわけには……。ティナ様の件もあり、陛下からは厳命に……」
「王家の一員としての命令です。仲裁してきなさい。必要ならば、我が名を出すことも許します」
毅然としたソフィアの態度に、衛兵は驚きつつも一礼し、その場を離れた。
「格好良かったですよ、ソフィア様。エイナルが居たら号泣していますね」
キュリーに褒められ、ソフィアは自慢げに腰に手を当てて胸を張った。
「あの小さいのが、この国の第三王女だな?」
「ああ。頼んだぞ」
建物の影から、怪しげな人影が二人を覗き込んでいた。
起きるはずもない、そして歴史に残ることのない、異例づくしの「王女誘拐事件」の幕開けであった。




