第15話 北へと続く道
雪が本格的に解け始めた四月の終わり頃。王城ではいつものように朝食が振る舞われていた。
しかし、そこにテオドールの姿はなく、食器の当たる音だけが静かに響いていた。
「ああ、そうだ。皆に伝えておくことがある」
思い出したかのように言ったベイザルは、手に持つ食器を置き、話を切り出した。
「北の雪解けが本格化したことで、キャバリア峡谷道が使えるようになった。それにより、北方諸国の新しい大使がそろそろ着任するそうだ」
その話を聞き、ウルスラが「もうそんな時期でしたか……」と呟く。
「そこでソフィア。お前に送迎を任せたい」
「わ、わたしが……ですか……?」
困惑気味のソフィアに、ベイザルは「ああ、頼む」と頷く。ソフィアはしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように答えた。
「わかりました……そのお役目、ぜひわたしにお任せください」
力強い返答に、ベイザルは「そうか! 受けてくれるか!」と満足げな表情を浮かべる。
そのやり取りを見ていたハシムが、静かに口を開いた。
「陛下、もしよろしければ、私も同行してもよろしいでしょうか?」
皆の視線がハシムに集まる。
「殿下が?」
「ええ。我が帝国と北方諸国は同盟国です。ならば大使の送迎も、皇子としての務めかと……」
ハシムの説明を聞き、ベイザルは「はは、なるほど。確かにそうかもしれないな」と納得したように頷いた。
「ソフィア、お前はどうだ? 殿下と一緒でも構わないか?」
「もちろん構いません。殿下はわたしの婚約者でもありますから……」
ソフィアが少し頬を染めながらも間髪入れずに答えると、それを見たティナは、少しむくれながら静かにスープを啜った。
「そうか、それならば良い。殿下、頼みましたぞ!」
「ええ、お任せください」
ハシムの力強い返答を受け、ベイザルは満足げに椅子に座り直した。
翌日、朝日が昇り始めた頃。王城前は出立の支度で忙しなく動く者たちで溢れていた。
ハシムは働く部下たちを見守りながら、的確に指示を飛ばしていく。
「ふぁああ……。朝から早いですね、殿下……」
あくびをしながらカタリナが声をかけてきた。
「ああ、お前か。見送りなんて殊勝な真似、お前にできたんだな」
「ぐっ……。殿下はいつも一言余計なんですよ……」
「悪かった。お前と朝に会うのが珍しくて、ついな」
そう言い残し、ハシムは指示を出しながらその場を離れた。それを見送ったカタリナは、再び大きなあくびを漏らす。
「どうせ昨日も夜更かしをしていたのでしょう。不摂生な生活をしていると背が伸びませんよ、カタリナ」
ライラがフウカのように、いつの間にか背後に現れた。
「ライラか……。いきなり背後から現れないでよ、フウカじゃないんだから。……というか、さっき背が云々言ってたけど! もう成人してるから伸びないって!」
「ああ、そうでしたね。あなたを見ていると、つい忘れてしまいます」
「あんたら、わざとでしょ……まったく……」
毒づいたカタリナがふと前を見ると、ライラがハシムの姿をじっと見つめていた。
その「恋する乙女」のような表情に、カタリナは思わず呟く。
「あんたも、ハシムが関わらなければ普通の女の子なのにね……」
「何か言いましたか?」
ライラが満面の笑みで振り返ると、カタリナは必死に首を振って誤魔化した。
「準備完了しました、殿下」
アンジェがスレイや近衛兵と共に整列し、報告する。
「よろしい」
ハシムが兵たちの前に立つと、背後からソフィアが声をかけた。
「お早いですね、殿下」
「おはようございます、ソフィア様」
ハシムが胸に手を当てて一礼する。
「もう準備されたのですか? まだ時間は大丈夫そうですが……」
「問題ありません。いつでも出発できます。どうぞお乗りになってください」
ハシムが馬車へ促すが、側にいた王国兵が「姫様の馬車はあちらに……」と割って入った。
「その必要はありません。ここは殿下のご厚意に甘えましょう」
ソフィアはそう告げると、ハシムにエスコートされるまま、帝国の馬車へと乗り込んだ。
それを見た王国兵が苛立ちからハシムを睨みつけるが、アンジェが満面の笑みで間に割り込み、無言で牽制する。王国兵は気圧されたように目を逸らし、持ち場へと戻っていった。
出立の支度をする従者の中に、あくびをするキュリーの姿をライラは見つけた。
「おはようございます。眠そうですね、キュリー」
「ああ……ライラさん……。おはようございます……」
「実は昨夜、ソフィア様が北方諸国について色々知っておきたいと仰って、図書室で勉強されていたのです。本探しをお手伝いしていたら、気がつくと朝に……」
「なるほど、それで眠そうだったのですね」
キュリーは今にも寝落ちしそうに頷く。ライラは、そこにエイナルの姿がないことに気づいた。
「もしかして、エイナルさんは……」
「うん、もう歳だからね。寝落ちして起きられそうになかったから、置いてきた」
予想通りの答えに、ライラは苦笑いを浮かべるしかなかった。
ハシムとソフィアが同じ馬車に乗り込んだのを確認し、アンジェが合図を送る。
一団は北を目指し、王城を出立した。馬車が朝方の王都を進むと、市内は朝市の準備をする人々で活気づいていた。
「こんな朝早くに、もう人がいるのですね……」
「ええ。この時間は朝市が開かれるはずですから、その準備でしょう」
ソフィアは興味深そうに窓の外を覗き込んでいる。
「実はわたし……朝市に行ったことがないんです。ティナは行ったことがあるそうなのですが、父上が危ないからと……。こんなに近くなのに、行けないなんて……」
「それでしたら、私と一緒に行くのはどうでしょう?」
ハシムの提案に、ソフィアが顔を上げた。
「殿下と一緒に……ですか?」
「ええ。私と一緒ならば、陛下も納得されるかもしれません。言うだけならタダです。一度伺ってみましょう」
「はい。その際はぜひ、ご一緒させてください」
二人はそう約束し、馬車は北へと進み続ける。
北の国境を目指す道中、ソフィアはハシムに尋ねた。
「殿下は、北方諸国についてどれほどご存知なのですか?」
「そうですね……知っているというより、行ったことがありまして」
「殿下は、北方諸国に行かれたことがあるのですか?」
「ええ。実は二年ほど大陸諸国を放浪しておりまして。その際、北方諸国には半年ほど滞在していました」
「なるほど……。北方諸国は、どのような国でしたか?」
「雪深く、鎖国同然の国でしたから、法も文化も想像とはかなり違いました。それでも、春の収穫祭などの祭典も多く、とても充実した日々でしたよ」
「それは楽しそうですね。私もいつか行けたらいいのですが……」
寂しげなソフィアに、ハシムが問いかける。
「ソフィア様は外国に行かれたことは?」
「いえ、まだありません……。この先もあるかどうか……」
「王族という立場では、そう簡単にはいかないかもしれません。ですが、婚姻によりレークランドと我が帝国は友好国になりました。いずれ帝国に招待されるでしょう」
ハシムはそう言うと、ソフィアの前に片膝をつき、その手を取った。
「その際はぜひ、私に案内させてもらえませんか?」
「ぜひ!」
ソフィアは頬を染め、嬉しそうに頷いた。
王都を発って一時間ほど経った頃。ハシムは、正面で眠そうに揺れるソフィアの姿を捉えた。
「眠いのでしたら、寝ていただいても構いませんよ」
「い、いえ……殿下の前で寝顔を晒すなど……」
「昨夜まで勉強されていたのでしょう? 無理はなさらないでください」
なおも意地を張るソフィアに対し、ハシムは「それでしたら、こうしましょう」と言って、自らシートに仰向けに寝転がった。
「で、殿下!?」
「姫様が寝ないというのであれば、私が先に寝ることにします」
ハシムが寝息を立て始めると、ソフィアは「殿下……?」と恐る恐る顔を覗き込んだ。
その寝顔を間近で見つめていると――。
「という感じは、いかがでしょう?」
ハシムが片目だけを開けて笑うと、ソフィアは驚いて後ずさった。
「で、殿下……。起きていらしたのですね……」
「いえ、本当に寝ることもできました。もし寝顔を見られたくないのであれば、もう一度寝ますが、いかがされます?」
「い、いえ、お気遣いなく……」
気恥ずかしそうに答えたソフィアが、ふと疑問を口にする。
「それで殿下は……その、どこでも寝ることができるのですか?」
「ええ、士官学校時代に習得しまして」
「士官学校の出身なのですか?」
「ええ。中退しましたが」
「中退? なぜそのようなことに?」
ハシムは少し沈黙した後、意を決して口を開いた。
「士官学生時代も第四皇子として公務をしていました。そんな中、ある国の大使の送迎を任されたのですが……」
言い淀むハシムに、ソフィアが心配そうな表情を見せる。
「無理はしないでください……話したくないのであれば……」
「いえ、大丈夫です。結果だけ言えば、私が原因で送迎は失敗し、それが原因で戦争になりました。そして、その戦争が私の初陣でもあります」
衝撃の告白に、ソフィアは言葉を失った。
「結果的に戦争には勝ちましたが、原因を作った私は追放処分となり、士官学校を中退。諸国を放浪することになった……というわけです」
「そんなことが……」
「追放はされましたが、あの二年間は得難い経験となりました」
「そうでしたか……。もしよければ、放浪していた頃のお話を聞かせてくださいませんか?」
「ええ、喜んで」
ハシムは静かに語り始めた。
しかしその後、ハシムの話を聞きながら、安心したソフィアが深い眠りに落ちてしまったのは言うまでもない。




