第10話 鹿狩り
帝国暦四九八年、四月。
雪解けの春風が吹く頃、ハシムはベイザル王の誘いを受け、鹿狩りへと赴いていた。
「どうです殿下、素晴らしい景色でしょう」
「ええ。やはりキャバリア山脈の壮大さは唯一無二ですね」
馬に乗り小高い丘に立つハシムの視界には、雄大な山々を背にした広大な草原が、はるか彼方まで広がっていた。
「ははは、そうですな。この山脈からもたらされる富は、何者にも代え難い」
「左様ですね、陛下」
絶景を前に語り合う二人。その後ろから、呆れたような声が掛かる。
「殿下も父上も、本来の目的をお忘れではありませんか?」
ティナだった。ベイザルが愉快そうに振り返る。
「そんなことはないぞ、ティナ。今日の鹿狩りは殿下との固い約束だからな」
「そうなのですか、殿下?」
問いかけられたハシムは、少し申し訳なさそうに苦笑した。
「ええ、以前から何度も、お誘いを受けまして……」
「早く言ってくだされば、わたしからもお誘いしたのに。まったく父上は……」
「すまんすまん、驚かせようと思ってな」
いたずらっぽく笑うベイザルに、ティナは小さくため息をつく。
「まあいいでしょう。父上に隠し事が多いのは、今に始まったことではありませんから」
その言葉にベイザルは一瞬ビクリとし、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「と、とにかく! 今日は狩りに相応しい日和だ。殿下、楽しみましょう!」
誤魔化すように声を張り上げるベイザルに従い、一行は丘を下っていった。
丘の麓で馬を降り、狩りの支度を整えていると、ハシムが一人の人物の接近に気づいた。
「陛下、あの方は……?」
視線の先、犬を連れた外套姿の男が近づいてくる。
「おお、ガイウスではないか」
ガイウスと呼ばれた壮年の男は、頭の外套を脱いでその場に跪いた。
「お久しぶりです、陛下」
「紹介しよう。こちらは王家御用達の狩人、ガイウスだ」
「ガイウスと申します。以後お見知りおきを、皇子殿下」
「こちらこそ、よろしくおねがいする」
差し出された手をハシムが掴み、ガイウスが立ち上がる。
「あ、ピーターだ!」
ティナが声を弾ませ、ガイウスの連れていた猟犬に抱きついた。
「ティナ様もお久しぶりでございます」
「久しぶりだね、ガイウス!」
犬とじゃれ合うティナを見ながら、ベイザルが肩をすくめる。
「すまんな、急に呼び出して。ティナがどうしても狩りをしたいと言うもので」
「父上だって乗り気だったじゃないですか!」
反論する娘ととぼける父。二人が言い合いを始めると、ガイウスが穏やかに割って入った。
「まあまあ、お二方。今日は良き日和です。存分に楽しみましょう」
諭された二人が顔を見合わせ、ようやく矛を収める。そこへ、馬車から降りた王妃ウルスラが歩み寄った。
「殿下、お見苦しいものをお見せして申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず」
ハシムが丁寧に返す中、ガイウスも王妃の前で再び跪いた。
「これは奥方様、お久しぶりでございます」
「ガイウス。あなたも元気そうで何よりです。隠居生活は順調ですか?」
「はい、奥方様」
ハシムはその言葉に興味を引かれ、問いかける。
「隠居ということは、以前は狩人ではなかったのですか?」
「ええ。以前は王国軍で近衛兵の隊長を務めておりました」
「なるほど、ただ者ではないと思っていましたが、元軍人でしたか」
「はは。今や、ただの老人ですよ」
謙遜するガイウスの肩を、ベイザルが叩いた。
「何を言う。未だ弓の腕は衰えてなかろう? 今日も存分に見せてもらうぞ。……では、始めるとしよう。例のモノを」
ベイザルの指示で、使用人が装飾された箱から豪奢な石弓を取り出す。
「どうだ殿下、これは特注品なのだ」
「これは……見事なものですね」
ハシムが感心して声を漏らす一方で、ティナは呆れたような視線を向ける。
「父上に実によくお似合いの、派手な石弓ですね」
「お前も欲しくなっただろう? そんな質素な弓など、もうやめたらどうだ」
「これは手作りの弓です! 父上の下品な石弓と一緒にしないでください!」
「下品とは失礼な!」
再び始まった親子喧嘩を、ウルスラが「いい加減になさい」となだめる。その様子を眺めていたガイウスが、ふとハシムの手元に目を止めた。
「ところで殿下は、何を得物になさるのですか? 弓も石弓もお持ちでないようにお見受けしますが……」
その言葉に、ベイザルたちもハシムに視線を移した。
「ああ、お見せしていませんでしたね。私の得物はこれです」
ハシムが右腕に巻き付けていた紐を解くと、それは長く垂れ下がり、地面に届いた。
「紐……?」
不思議そうに呟くティナに、ハシムが説明する。
「今は使われることも少ないので、ご存知ないかもしれませんね。……投石紐というモノになります」
「スリング……、ですか」
ガイウスが驚きの声を上げ、ティナは「図鑑でしか見たことがない……」と呟いた。
「随分と渋い物を使われるのですね、殿下」
「実のところ、これが一番得意なのです。皇族らしくないので普段は使いませんが、持ち運びに便利ですし、弾の補充も容易ですから」
ハシムは足元の石を拾い、器用に放り上げて見せた。
「なるほど、合理的だ。殿下らしい得物かもしれませんな」
ベイザルは納得したように頷いた。
「では改めて、狩りへ向かうとしよう」
各自が荷物を持ち、立ち上がる。見送るウルスラが、祈るように手を合わせた。
「皆様、どうかお気をつけて」
「ウルスラ。そなたも同行してほしかったが、致し方あるまい。戻った時、そなたが淹れた茶を楽しみにしておるぞ」
「はい、陛下。大物を連れてのお帰り、心よりお待ちしております……」
ウルスラにベイザルは頷いてみせる。直後、ティナが元気に宣言し、馬に飛び乗る。
「行きましょう、殿下! ピーター、行くよ!母上も、大物を連れて帰って来ますから、楽しみにしていて下さい!」
猟犬を連れて駆け出すティナを追い、ハシムも馬に跨る。去り際、ウルスラから静かな声が掛かった。
「殿下……どうか、娘をよろしくお願いします」
ハシムは自身の胸を軽く叩き、「お任せあれ」と答えて地を蹴った。
「我らも負けてられないな、征くぞガイウス」
「はい陛下」
こうしてベイザルたちも狩りへと出かけ、ウルスラとライラたち使用人たちが、残るのみとなる
「さて、わたしたちはお茶会の支度と参りましょうか・・・。いずれ疲れ果てて戻って来るでしょうから・・・」
「かしこまりました、王妃様」
ライラ含む使用人らがそう答えると、慌ただしく支度を始めるのだった
ハシムとティナは少し進んだ場所で馬を茂みに隠し、徒歩で獲物を探していた。
「さて殿下、まずは何を狙いましょうか?」
ハシムは周囲に目を凝らし、視界の奥に揺れる耳を見つけた。
「小手調べに、あのウサギはどうでしょう?」
「いいですね。まずは殿下からどうぞ」
ハシムは頷き、腰の袋から石を取り出した。
「そのあたりの石を使うわけではないのですね」
「ええ。緊急時以外は、特別に削り出した石を使います。……あまり回しすぎると音で気づかれます。素早く放つのがコツです」
ハシムが投石紐を三回ほど鋭く旋回させた。紐が放たれると、放たれた石は一直線に飛び、ウサギの頭部を正確に貫いた。
短い悲鳴が上がり、獲物は動かなくなる。
「お見事です」
ティナの拍手に、ハシムは安堵の息を漏らした。
「上手くいったようです」
二人は茂みから立ち上がり、仕留めた獲物へと歩み寄った。
「外傷がほとんどありませんね」
「衝撃で仕留めるものですから。頭部に当たれば即死、あるいは昏倒させられます」
ハシムは短剣を抜き、鮮やかな手つきでトドメを刺した。その様子を神妙な顔で見守っていたティナが、弓を握り直す。
「次はわたしの番ですね」
「私は一旦、この獲物を馬に括り付けてきます」
「分かりました。ならわたしは先に奥へ行って、大物を仕留めちゃいますね」
「あまり深追いはしないでください。何が起きるか分かりませんから」
心配するハシムに、ティナはむくれ顔で返した。
「子供じゃありませんから。それに、ピーターもいますし」
誇らしげに吠える猟犬に背中を押され、ティナは林の奥へと消えていった。
ハシムはその後ろ姿を見送り、独り言のように呟いた。
「……フウカ」
音もなく、背後にフウカが現れる。
「何か用? ハシム」
「追跡しておけ」
「……ウサギを?」
「はは、面白い冗談だ。姫の方だ、分かっているだろう?」
冷ややかな視線に、フウカは渋々といった表情を浮かべて姿を消した。
「さて、本当に何もなければいいが」
ハシムは獲物を手に、馬の方へと戻っていった。
ハシムと別れたティナは、慎重に獲物を探していた。
「次こそは……」
引き絞り、放った矢は、しかし標的をわずかに逸れて背後の木に突き刺さった。
逃げていく獲物にティナが肩を落としたその時、ピーターが鋭く吠えて走り出した。
「ピーター、待って!」
犬を追った先で、ティナはある痕跡を見つけた。
「これ……鹿の足跡だわ。それも、かなり大きい……」
胸の高鳴りを感じながら、ティナは追跡を決意した。
やがて、茂みの先に立派な角を持つ雄鹿の姿を捉える。
「見つけた……。あれを仕留めれば、父上も殿下も驚くに違いない……」
一呼吸おき、矢を番える。精神を研ぎ澄まし、渾身の一矢を放った。
矢は雄鹿の胴体に命中したが、手応えが浅い。鹿はそのまま林の奥へと逃げ出した。
「追うよ、ピーター!」
吠える猟犬を追い、獣道を駆け抜ける。逃がすまいと必死に走るティナの視界で、突如として鹿が跳躍した。
「あっ……」
鹿が飛び越えた先は、深い窪地になっていた。
気づいた時には、もう遅い。
勢いを殺しきれず、ティナの体は宙を舞い、斜面を転がり落ちた。
必死に何かを掴もうとするが、斜面を滑り落ちる勢いは止まらない。
鈍い衝撃。
突き出ていた岩に頭を打ちつけ、視界が急速に暗転していく。
「あぁ……」
意識が遠のく中、遠くで響くピーターの吠え声だけが、頭の中に木霊していた。




