36 涙の雫
※『不思議の国のアリス』のネタバレを含みます。あらかじめご了承下さい。
「女王さま!わたし、ちょっと質問したいことがあります!」
ラクラミキオアラがガブリエラに視線を向けて言いました。
「なにかしら?ラクラミキオアラ。何でも訊いてちょうだい」
「さっき、アリスだけじゃなくてトカゲのビルにも会ったんですけど、『不思議の国のアリス』って夢オチじゃないですか。夢の中で出てきたキャラクターでも、宝石箱から出てきてもらえるんですか?」
「うふふ…いい質問ね、ラクラミキオアラ。その通りよ。夢でも、たとえば『モモ』の中でジジが語った物語の登場人物でも、本人が"よし、出てやるか"と思えば、出てきてもらえるわ。ただ、出せないキャラクターもいるわよ」
「えっ。それは、どういうキャラクターですか?」
「たとえばね、フランツ・カフカの作品『変身』は、主人公のグレゴール・ザムザがある日とつぜん、虫になってしまうお話だけど、虫になった姿で彼に出てきてもらおうとしても、それは無理なの」
「どうしてですか?」
「作者であるカフカの中に、"あの虫は、絵に描いて欲しくないし、実物として出現させて欲しくない"という強い思いがあって、彼の死後もその思念が霊魂のような形で残っているからよ。彼は、読者ひとりひとりが自由に虫の姿を想像することを望んでいたの。児童が読むことも想定して書かれたファンタジー作品の場合は、作者が"子供たちの夢なら、なんでも叶えてあげたい"と思っていた場合が多いから、出てきてもらえることが多いのよ。だけど、そういう作品の作者だって、"ひとりひとり、自由に想像して欲しい"という気持ちは持っているから、誰が出しても同じドロシーやモモが出てくるわけじゃないのよ。いま、ここにいるドロシーとモモは、ラクラミキオアラのために出てきてもらったドロシーとモモだから、半分は、あなたの心が育てたドロシーとモモなの。残りの半分は作者の心が育てたのよ。キャラクターというのは、そうやって作者と読者の心がひとつになって、はじめて生まれるものなのよ。作者が読者を信じていなかったら決して生まれないし、その逆も同じなの」
ラクラミキオアラは、とても真剣な眼差しで女王の顔を見つめて、話を聴いていました。女王は、さらに話を続けました。
「『物語の宝石箱』の仕組みはとても複雑で、作ったラドゥ自身ですら全てを説明することは出来ないのだと、わたしの祖母は言っていたわ。それは、ラドゥが祖母に語ったことよ。登場人物に出てきてもらうための条件も、はっきり分かっているわけではないの。この宝石箱自体が、ひとつの"謎"なのよ。ラドゥは、こう言っていたらしいわ。"もしもこの宝石箱の持ち主が、いじめたり、暴力をふるったりするために物語の登場人物を呼び出そうとしたら、そのときは持ち主の方が宝石箱に吸い込まれて、永遠に闇の中を漂うことになるだろう"と」
女王の言葉を聴き、部屋の中にいた誰もが沈黙しました。ラクラミキオアラは、あらためて宝石箱の中を覗き込みました。どこまでも続くふかい闇のなかで、さっき見たときと同じように、かぞえ切れないほどの物語の星が、やさしく、静かに、きらきらと輝いていました。それは、ひとつひとつの物語の作者が人生の中で流した、うつくしい涙の雫のようだと、ラクラミキオアラは思いました。




