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「雪と手紙」 可児の最後の秘密

 十二月の第三週、可児に本格的な雪が降った。

 朝から降り続けて、昼には町全体が白くなった。山も、川も、屋根も、全部白い。

 根古は事務所の窓から雪を見ながら、考えていた。

 加藤敬二が帰った。田村誠が父を見つけた。三枝道雄が話した。安藤家の最後の糸が、また一本切れた。

 でも何かが引っかかっていた。

 母の房子が言った言葉が、頭の中に残っている。

敬二が見てしまったもの、それがこの町の最後の秘密です。昌也さんが死ぬまで守ってきたものと、同じ根っこにある話です。

 同じ根っこ。

 根古はその言葉を、何度も考えていた。

 片桐レナードのこと。モーシェ・吉田のこと。エルンスト・キリシマのこと。田村正一のこと。加藤敬二のこと。

 全部、父が関わっていた。

 全部、この町の話だ。

 でも根っこはどこにあるのか。


 午前中、根古は西野薫を訪ねた。

 教会は雪の中で静かに立っていた。

 西野は礼拝堂で聖書を読んでいた。根古が入ると、顔を上げた。

「来ると思っていた」西野は言った。

「またか」根古は言った。「お前はいつも来ると思っている」

「いつも来るから」西野は本を閉じた。「何を考えているんだ」

「房子さんが言っていた」根古は言った。「可児の最後の秘密という言葉を使った。父が守ってきたものと同じ根っこにある話だと」

「そうか」西野は静かに言った。

「西野、お前は何か知っているか」根古は言った。

 西野は少し間を置いた。

「知っていることがある」西野は言った。「でも長い話だ。座れ」


 西野が話し始めたのは、自分の父親の話からだった。

「俺の父は、この町で牧師をしていた」西野は言った。「俺の前の代だ。戦前から戦後にかけて、この町にいた。父から聞いた話がある」

「何ですか」

「戦時中、この町に一人の男が来た」西野は言った。「外国人だ。ユダヤ系のドイツ人で、迫害を逃れて日本に来た。父の教会に助けを求めてきた」

「エルンスト・キリシマですか」根古は言った。

「違う」西野は首を振った。「エルンストより前の話だ。もっと古い話だ。昭和初期の話だ」

 根古は少し前のめりになった。

「その男の名前は」根古は言った。

「ヤコブ・ネコといった」西野は静かに言った。

 根古は動かなかった。

「ネコ」根古は繰り返した。

「日本語で書けば、根古だ」西野は根古を見た。「その男は日本に来て、この町で生きることを選んだ。日本名を作った。根古という苗字にした。木に根を張る、古い土地に生きる、という意味を込めて」


 根古は椅子に座ったまま、動けなかった。

 ヤコブ・ネコ。根古という苗字の起源。

「つまり」根古はゆっくり言った。「俺の苗字は、ユダヤ系ドイツ人が作った名前なのか」

「そうだ」西野は静かに言った。「ヤコブはこの町に根を張り、日本人の女性と結婚した。子供が生まれた。その子供の子供が??」

「昌也か」根古は言った。

「そうだ」西野は言った。「根古という家は、ユダヤ系ドイツ人を起源に持つ一族だ。ただしヤコブ自身が、誰にも言うなと命じた。日本で生きるためには、日本人として生きなければならない。自分の出自は墓まで持っていけ、と」

「父は知っていたのか」

「昌也さんは知っていた」西野は言った。「俺の父から聞かされた。だから昌也さんは、エルンストやモーシェや、ユダヤ系の人々が困っていると聞いたとき、放っておけなかった。血の繋がりではないかもしれないが、根っこが同じだと感じていた」

 根古は天井を見た。

「同じ根っこ」根古は言った。「房子さんが言っていた言葉だ」

「そうだ」西野は言った。「根古家の秘密と、この町に流れてきた人々の話は、同じ根っこにある。ヤコブが作った根古という苗字が、その象徴だ」


 根古はしばらく黙っていた。

 西野も黙っていた。

 教会の外で、雪が降り続けている。

「父はなぜ俺に言わなかったんですか」根古はやがて言った。

「昌也さんが言っていた」西野は静かに言った。「息子には言わないと。息子が知れば、息子が動く。動けば、危ない目に遭う。知らないほうが安全だと」

「また同じ理由か」根古は言った。「加藤敬二の件でも、田村の件でも、全部同じ理由で黙っていた」

「昌也さんはそういう男だった」西野は言った。「息子を守るために、全部黙っていた。でも??」

「でも」

「俺に一つだけ言っていた」西野は根古を見た。「息子はいつか動く。その時が来たら、話してやってくれ、と」

「その時が来たとお前が判断したのか」

「今日、お前が来た」西野は言った。「来ると思っていた。そしてこれが最後の話だと思った」

 根古は西野を見た。

「お前は何年前から知っていたんですか」根古は言った。

「昌也さんが死んだとき、全部聞いた」西野は言った。「五年前から、お前が来る日を待っていた」

「五年間待ったのか」根古は言った。

「あなたのペースがあると思って」西野は穏やかに言った。「急かすのは違うと思った」


 根古は教会を出た。

 雪の中を歩いた。どこに行くとも決めずに、ただ歩いた。

 ヤコブ・ネコ。根古という苗字を作ったユダヤ系ドイツ人。

 根古は自分の手を見た。

 この手の中に、ヤコブの血が流れているのか。薄まっているかもしれないが、どこかに残っているのかもしれない。

 エルンストと片桐とモーシェと、みんながこの町に来た。みんなが父に頼った。父が黙って動いた。

 その根っこが、ヤコブ・ネコだったのか。

 根古は木曽川に向かって歩いた。

 川沿いの堤防に出た。雪が積もっている。川が白く縁取られている。

「ヤコブ」根古は静かに言った。「あなたがこの町に来なければ、俺はいなかった。あなたが根古という苗字を作らなければ、俺は根古でなかった」

 川が静かに流れている。

「この町に根を張った人間が、また根を張る人間を引き寄せた」根古は言った。「それがこの町の話だったんだな」


 事務所に戻ると、レヴィ・中村から電話が入っていた。

 テルアビブからだ。

「根古さん、一つ報告があります」レヴィは言った。「美術品の返還が一件、完了しました。フェルドマン家の絵です。テルアビブで正式な返還式がありました」

「そうですか」根古は言った。

「根古さん、一つ聞いていいですか」レヴィは言った。「個人的な質問です」

「どうぞ」

「根古という苗字、由来をご存知ですか」

 根古は少し止まった。

「最近、聞きました」根古は言った。

「そうですか」レヴィは言った。「実は??私の組織のデータベースに、ヤコブ・ネコという名前が登録されています。昭和初期に日本に来たユダヤ系ドイツ人です。可児市内で生涯を終えた」

「知っています」

「その子孫が可児にいると分かったのは、今年の春でした」レヴィは言った。「根古さん、あなたがその子孫です」

「分かりました」根古は言った。

「一つだけ伝えたいことがあります」レヴィは静かに言った。「ヤコブは生前、自分の記録を残していました。それがイスラエルの記録機関に保管されています。いつか子孫が読みにきてくれることを願って書いた記録です」

「どんな内容ですか」

「読まなければ分かりません」レヴィは言った。「でも根古さん、あなたにはその権利があります。いつか読みに来てください」

「考えます」根古は言った。

「急ぎません」レヴィは言った。「ヤコブは気長な人だったようです。七十年以上待ちましたから、もう少し待てます」


 夕方、根古はモーシェに電話した。

 節子が出て、すぐにモーシェに替わった。

「根古さん」モーシェは穏やかな声で言った。「今日は何かありましたか」

「ヤコブ・ネコという名前を聞いたことがありますか」根古は言った。

 電話の向こうで、モーシェが静かに息を吸った。

「知っています」モーシェは言った。「昭和初期にこの町に来たユダヤ系ドイツ人です。モサドの記録にも残っています。この町に来た最初のユダヤ系の人物として」

「俺の曾祖父にあたる人物です」根古は言った。

 長い沈黙があった。

「根古さん」モーシェはやがて言った。「そうでしたか。昌也さんと話していたとき、何か繋がりを感じていましたが??そういうことでしたか」

「父は知っていたんですね」

「おそらく」モーシェは言った。「昌也さんが私たちを助けてくれたのは??ただの人の良さだけではなかったかもしれません。血の記憶というものがあります。理屈では説明できないが、何かが動く。昌也さんにも、そういうものがあったのかもしれません」

「血の記憶か」根古は言った。

「そうです」モーシェは言った。「根古さん、あなたも同じです。なぜこんなに動けるのか、自分でも分からないでしょう。でも??動く理由は、ずっと昔からあなたの中にある」

 根古は少し間を置いた。

「モーシェさん、一つ聞いていいですか」根古は言った。

「どうぞ」

「ヤコブという男は、どんな人物でしたか」

「記録によれば」モーシェは静かに言った。「穏やかで、無口で、困っている人間を放っておけない男だったそうです」

 根古は少し目を閉じた。

「父に似ています」根古は言った。

「あなたにも似ています」モーシェは言った。


 夜、ラクカに根古の仲間たちが集まった。

 今日は根古が呼んだ。珍しいことだ。

 温泉仲間全員、工藤と秋月、澪と江戸川、鳴海、雨月と平、神崎、木下千恵。

 全員が揃ったところで、根古は話した。

 ヤコブ・ネコのこと。根古という苗字の起源のこと。父が知っていたこと。西野が五年間待っていたこと。

 誰も口を挟まずに聞いた。

 話し終えると、しばらく静かだった。

 松平が最初に口を開いた。「俺の神社の石灯籠の下にボリスの証拠が埋まっていて、廃工場にエルンストの美術品が隠れていて、御嵩の山道に田村さんが眠っていて??全部この町の話だった」

「そして根古家の起源が、その全部と繋がっていた」長曾我部が言った。

「根古という苗字が、この町の話の根っこだったんだ」西野が静かに言った。

「だから根古は動けた」太田がカウンターから言った。「血の中に、動く理由があった」

「買いかぶりです」根古は言った。

「買いかぶりではない」秋月が言った。「事実だ」


 神崎が根古の隣に来た。

「根古さん、イスラエルに行きますか。ヤコブの記録を読みに」

「分かりません」根古は言った。「でも??いつか行くかもしれません」

「私も行きたいです」神崎は言った。「一緒に行けますか」

「考えます」根古は言った。

「ユキも連れて行けますか」神崎は言った。

「猫は飛行機に乗れません」根古は言った。

「そうですね」神崎は笑った。


 工藤が根古の前に来た。

「根古さん、一つ言っていいですか」工藤は言った。

「どうぞ」

「俺が横浜から可児に来たのは、療養のつもりでした」工藤は言った。「でも今は??この町にいる理由が、療養とは別のところにある気がしています」

「どんな理由ですか」

「根古さんがいるから来る」工藤は言った。「それだけです。でもそれが、十分な理由な気がしています」

「療養は終わったんですか」根古は言った。

「いつの間にか終わっていました」工藤は笑った。

「横浜に帰れます」根古は言った。

「でもまた来ます」工藤は言った。

「分かっています」根古は言った。


 夜が更けて、人々が帰り始めた。

 最後に残ったのは、根古と太田だけだった。

 太田がカウンターを拭きながら言った。「根古、お前の苗字に、そんな話があったとはな」

「俺も今日知りました」

「ヤコブという男は、この町に根を張ることを選んだ」太田は言った。「それから何十年も経って、お前が生まれた。そしてお前も、この町に根を張っている」

「根を張っているつもりはありません」根古は言った。「ただいるだけです」

「それが根を張るということだ」太田は言った。「どこかに行こうとせずに、ただいる。それだけで根は張れる」

 根古は少し考えた。

「そうかもしれません」根古は言った。

「そうだ」太田は断言した。「ヤコブもそうだったんだろう。昌也さんもそうだった。そしてお前もそうだ」


 根古が事務所に戻ると、ヤマトが机の上で待っていた。

 線香を立てた。

「全部聞こえていたか」根古は言った。「ヤコブという男の話だ。お前の苗字の起源だ。いや、俺の苗字か」根古は線香の煙を見た。「昌也さん、お前は全部知っていた。ヤコブのことも、敬二のことも、田村さんのことも。全部黙って持っていた」根古は少し間を置いた。「でも俺に伝わった。ゆっくりと、少しずつ。お前が動いてきたことが、全部俺に伝わってきた」

 ヤマトが根古の膝に乗ってきた。

「ヤコブは穏やかで無口で、困っている人間を放っておけない男だったそうだ」根古は言った。「お前と同じだな、と言ったら怒るか」

 線香の煙が、静かに上がった。

「怒らないな」根古は言った。「そういう男だったから」

 雪の夜、可児が深く静まり返っていた。




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