「雪と手紙」 雪と根
十二月の最終週、可児に雪が積もった。
朝、根古が事務所を開けると、世界が白くなっていた。
山も川も道も屋根も、全部白い。音が消えている。雪が降ると町が静かになる。その静けさが、根古は嫌いではない。
ヤマトが窓枠に乗って、雪を見ている。
「寒いぞ」根古は言った。
ヤマトは動かない。雪だけを見ている。
根古はコーヒーを淹れた。一人で飲んだ。
今日は澪が来るのが少し遅い。昨夜、遅くまでいたから寝坊しているのかもしれない。
根古は窓の外を見た。
雪の可児が、朝の光を受けて白く輝いている。
ヤコブ・ネコがこの町に来たとき、こんな景色を見たのだろうか。雪の可児を見て、ここに根を張ろうと思ったのだろうか。
根古には分からない。でも悪くない選択だったと思う。
午前中、加藤敬三が来た。
雪の中を歩いてきたらしく、肩が白くなっている。
「兄貴から連絡があった」加藤は言った。
「どうでしたか」
「来月、また来ると言っている」加藤は椅子に座った。「医者が許可を出してくれたらしい。心臓の状態が、少し安定してきたと」
「良かったです」
「根古のおかげだ」加藤は言った。「兄貴が言っていた。可児に来て、田村さんの息子に会えて、昌也さんの墓に参れて??何かが楽になったと。心臓まで楽になった気がする、と」
「医者が聞いたら怒りそうですね」根古は言った。
「そうだな」加藤は少し笑った。「でも本人がそう言っているんだから仕方ない」加藤は根古を見た。「根古、俺からも礼を言わせてくれ」
「加藤さん、俺は動いただけです」
「動いてくれたのが大事なんだ」加藤は言った。「三十年間、俺は何も知らなかった。兄貴が生きているのも知らなかった。田村さんのことも知らなかった。根古が動かなければ、何も変わらないままだった」
「手紙が来なければ俺は動いていません」根古は言った。
「その手紙を書かせたのは、昌也さんだ」加藤は言った。「昌也さんが敬二に根古の息子を頼れと言っていたから、兄貴は手紙を書いた」加藤は少し間を置いた。「つまり全部、昌也さんが仕組んだ」
「そこまで考えていたかどうかは分かりません」
「考えていたと思う」加藤は言った。「あの人は無口だったけど、深く考える人だった。俺はよく知っている」
昼前に、田村誠が来た。
農家らしい大きな体で、事務所の入口に立った。
「根古さん、少し時間がありますか」田村は言った。
「どうぞ」根古は椅子を勧めた。
「父の件で、一つ報告に来ました」田村は座った。「先日、DNA鑑定の結果が出ました。遺骨は父、田村正一で間違いありませんでした」
「そうですか」
「先週、お墓に入れました」田村は言った。「三十年かかりましたが、ちゃんと弔えました」田村は根古を見た。「根古さん、一つお願いがあります」
「何ですか」
「父の墓参りに来ていただけますか」田村は言った。「根古さんが動いてくれたから、父が見つかった。ぜひ来てほしいんです」
「行きます」根古は言った。
「加藤敬二さんにも、声をかけてもらえますか」田村は言った。「来月、また来るそうですね」
「加藤さんから聞きましたか」
「さっき電話がありました」田村は言った。「あの人、来月来たときに一緒に父の墓参りをしたいと言っていました」
「それは良かった」根古は言った。
「根古さん」田村は少し間を置いた。「父が消えてから三十年間、俺はずっとこの土地を守ってきました。父が命を懸けて守ろうとした土地です。安藤家に取られないようにして、ずっと守ってきた」
「今も守っていますか」
「守っています」田村は言った。「来年から、息子と一緒にやっていく予定です。息子が農業を継いでくれると言ってくれた」田村は根古を見た。「父の土地に、次の代が根を張ります」
根古は少し考えた。
「それは良い話です」根古は言った。
「ヤコブという人も、この町に根を張ったと聞きました」田村は言った。「西野牧師から聞きました。根古さんの家の起源の話を」
「西野は話が早いな」根古は言った。
「良い話だと思いました」田村は言った。「この町には、根を張った人間がたくさんいる。だからこの町は深いんだと思います」
夕方、雨が混じり始めた。
雪が少し解けて、道が滑りやすくなっている。
根古は実家に寄った。
仏間に線香を立てた。
「今日もいろんな人が来た」根古は言った。「加藤さんが来た。田村さんが来た。みんな、礼を言いに来た。でもお前が動いていなければ、俺は動いていない。礼はお前に言うべきだと、全員に伝えた」
線香の煙が上がった。
「ヤコブのことを、お前はどう思っていたんだろう」根古は言った。「曾祖父にあたる人間が、ユダヤ系ドイツ人だと知って??驚いたか。それとも最初から知っていたか」
ヤマトが根古の隣に来た。
「俺は今日まで知らなかった」根古は言った。「でも知ってみると??不思議と違和感がない。なぜか自分の話のような気がする。血の記憶というものがあると、モーシェさんが言っていた。そういうことかもしれない」根古は少し間を置いた。「親父、お前は本当に無口な男だった。でも??お前が黙って守ってきたものが、全部ここに繋がってきた。それが今年一年の話だった」
夜、太田から連絡が来た。
「根古、今夜来いよ。みんないるから」
「また集まっているのか」
「自然に集まった」太田は言った。「年末だし、今年の締めくくりだ」
ラクカに着くと、今年一年で根古と関わった人たちが集まっていた。
温泉仲間、工藤と秋月、澪と江戸川、鳴海、雨月と平、木下千恵、山本彩織、神崎。
そして今夜は特別な顔も来ていた。
片桐レナードと西野薫が並んで来た。
モーシェ・吉田と節子も来た。節子が節子手作りのイスラエルのお菓子を持ってきた。
虎之助と奈緒も来た。虎之助は今日も絵筆を持っていた癖が出て、手に墨がついている。
そして加藤敬三が来た。
「全員揃ったな」太田は言った。
「全員ではありません」根古は言った。「加藤敬二さんはいません。ダニロもいません。有村さんも桐生さんもいません。フェルナンドさんも??」
「フェルナンドです」
ドアが開いた。
フェルナンド村田が入ってきた。派手なシャツ姿で、手にケーキの箱を持っている。
「また来たのか」根古は言った。
「年末ですから」フェルナンドは笑った。「それに??根古さん、今年の締めくくりはここしかないでしょう」
全員が席に着いた。
太田がコーヒーとお茶を配り始めた。
節子のお菓子が回った。虎之助が一つ食べて、懐かしそうな顔をした。モーシェが節子の手を握った。
片桐が西野に何か言っていた。西野が笑っていた。
工藤と秋月が手帳を見ながら話していた。来年もここに来るという計画を立てているらしい。
澪と江戸川と鳴海が、何か笑いながら話していた。
神崎がヤマトを抱いていた。ヤマトが神崎の膝で丸くなっている。
雨月と平が、静かにコーヒーを飲んでいた。
加藤敬三が携帯を見ていた。岐阜の敬二にメッセージを送っているのかもしれない。
フェルナンドが立ち上がった。
「一つだけ話させてください」フェルナンドは言った。
全員が静かになった。
「今年、可児で起きたことを振り返ると??五十年前の炎、雨と暗号、金庫と絵筆、紅葉と記憶、雪と手紙」フェルナンドは言った。「五つの話が、この町で起きました。全部、根古さんが動いた話です」
「俺だけじゃない」根古は言った。
「そうですね」フェルナンドは言った。「みなさんが動いた話です。でも??全部、根古さんが中心にいた。根古さんがいなければ、どれも動かなかった」
「買いかぶりです」根古は言った。
「買いかぶりではありません」フェルナンドは根古を見た。「根古さん、あなたはヤコブ・ネコの子孫です。この町に根を張ることを選んだ男の子孫です。あなたが動けるのは、その根っこがあるからです。そしてその根っこが、この町に来たすべての人々と繋がっていた」
全員が根古を見た。
「……フェルナンドさん、お前は本当に話が長い」根古は言った。
笑いが起きた。大きな笑いだった。
夜が更けてきた頃、モーシェが根古の隣に来た。
「根古さん」モーシェは言った。「来年、イスラエルに来ますか。ヤコブの記録を読みに」
「考えています」根古は言った。
「来てください」モーシェは言った。「私も一緒に行きます。ヤコブについて、私が知っていることを話します。モサドの記録にあることを、全部話します」
「モーシェさんの体は大丈夫ですか」
「八十三歳です」モーシェは言った。「でも??イスラエルに帰る理由があれば、体も動きます」
「神崎さんも行くと言っています」根古は言った。
「それは心強い」モーシェは言った。「賑やかになりますね」
「賑やかすぎるかもしれません」根古は言った。
「良いことです」モーシェは言った。「ヤコブも喜ぶと思います」
夜十一時過ぎ、人々が帰り始めた。
片桐とモーシェが並んで帰った。二人の老人が、雪の夜道を歩いていく。
虎之助と奈緒が帰った。虎之助は帰り際に根古に言った。「来年また、個展をやります。ぜひ来てください」
「行きます」根古は言った。
「廃工場の絵も飾ります」虎之助は言った。「あなたの後ろ姿の絵も」
「恥ずかしいです」根古は言った。
「恥ずかしくない」虎之助は笑った。「良い絵です」
最後に残ったのは、根古と太田だけだった。
毎回こうなる。
太田がカウンターを拭きながら言った。「今年はどんな年だったか」
「長い年でした」根古は言った。
「たくさんの人が来た」太田は言った。「たくさんのものが動いた」
「そうですね」
「根古」太田は言った。「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は疲れないのか」太田は言った。「毎回こんなことになって、疲れないのか」
根古は少し考えた。
「疲れます」根古は言った。「でも??動かないともっと疲れます」
「それは何度も聞いた」太田は言った。「でもそれだけじゃないだろう」
根古はコーヒーを一口飲んだ。
「この町が好きだからかもしれません」根古は言った。「この町にいる人間が好きだからかもしれません」
「それだけか」
「それだけです」根古は言った。「それで十分な気がします」
太田はカウンターを拭き終えて、根古の向かいに座った。珍しいことだ。
「俺もこの町が好きだ」太田は言った。「この店が好きだ。ここに来る人間が好きだ。だから毎日開けている」
「同じですね」根古は言った。
「同じだ」太田は言った。「根古、来年もここに来い」
「来ます」根古は言った。「毎日来ます」
「毎日は来すぎだ」太田は言った。
「そうですね」根古は笑った。「でも来ます」
終章 大晦日の可児
十二月三十一日、大晦日の可児は雪が止んでいた。
夜、根古は一人で木曽川沿いを歩いた。
ヤマトがついてきた。今夜は外を歩きたいらしい。
川沿いの堤防を歩いた。雪が積もっている。足跡が残る。自分の足跡の後ろに、ヤマトの小さな足跡が続いている。
遠くで除夜の鐘が鳴り始めた。
根古は立ち止まった。
川を見た。木曽川の水が、冬の月明かりを受けて静かに流れている。
今年一年のことを考えた。
五十年前の炎。片桐とモーシェと西野と、父が守ってきた秘密。
雨と暗号。モーシェとダニロと、ボリスの遺した証拠。
金庫と絵筆。虎之助とエルンストと、七十年越しの美術品の帰還。
紅葉と記憶。桐生と神崎と、三十年前の密約の決着。
雪と手紙。加藤敬二と田村正一と、ヤコブ・ネコという根古家の起源。
全部、この町の話だった。
全部、父が関わっていた話だった。
そして全部、根古という名前が中心にあった。
除夜の鐘が続いている。
ヤマトが根古の足元に来て座った。
「百八つ鳴るのか」根古はヤマトに言った。「数えるか」
ヤマトは答えない。
「数えなくていいか」根古は言った。「どうせ途中で分からなくなる」
川が流れている。
根古はヤコブのことを考えた。昭和初期、遠いドイツからこの町に来た男。根古という苗字を作った男。穏やかで無口で、困っている人間を放っておけない男。
その血が、父に伝わって、根古に伝わった。
「ヤコブ」根古は川に向かって言った。「あなたがこの町に来てから、何十年も経ちました。あなたの子孫が今、この町で探偵をやっています。毎年いろんなことが起きます。毎年動いています。疲れることもあります。でも??この町が好きです。あなたが根を張った町が、好きです」
川が静かに答えるように、少し波を立てた。
「来年も動きます」根古は言った。「何が来ても動きます。それがヤコブから伝わってきたものだとすれば??悪くない遺産だと思います」
鐘が百八つ鳴り終わった。
新しい年が来た。
根古は川から視線を上げた。
夜空に星が出ていた。
雪雲が切れて、冬の星が澄んで見えた。
ボリスが好きだった星と、同じ星だ。ダニロがウクライナで見ている星と、同じ星だ。ヤコブがドイツで見ていた星と、同じ星だ。
「同じ星を見てきたんだな」根古は静かに言った。
ヤマトが根古を見上げた。
「来年も同じ星が出る」根古は言った。「そのたびに、誰かが何かを見ている。そしてたまに、誰かがこの町に来る。俺はまた動く」
ヤマトは一声、小さく鳴いた。
翌朝、元日の可児は晴れた。
青い空に白い山が映えている。
根古が事務所を開けると、澪がもう来ていた。
「あけましておめでとうございます」澪は言った。
「おめでとう」根古は言った。
「今年も来ていいですか」澪は言った。
「好きにしろ」根古は言った。
「弟子として来ていいですか」澪は言った。
「弟子ではない」根古は言った。
「でも根古さんから学んでいます」澪は言った。
「それは止められない」根古は言った。
澪は笑った。
ヤマトが机に乗ってきた。
根古はコーヒーを淹れた。
窓の外に、元日の可児が広がっている。
白い山、青い空、静かな町。
ヤコブが根を張った町。昌也が黙って守った町。根古が動き続ける町。
携帯が鳴った。
加藤敬三からだ。
「根古、あけましておめでとう」加藤の声は明るい。「兄貴から連絡があった。来月、必ず行くと言っている。心臓の具合が良いそうだ」
「それは良かったです」
「田村さんとの墓参り、楽しみにしていると言っていた」加藤は言った。「根古も来るだろう」
「行きます」根古は言った。
「そうか」加藤は言った。「良い年になりそうだ」
「そうですね」根古は言った。
電話を切ると、また携帯が鳴った。
モーシェからだ。
「根古さん、あけましておめでとうございます」モーシェの穏やかな声だ。「新しい年が来ましたね」
「おめでとうございます」
「イスラエルの件、来年の春はどうですか」モーシェは言った。「桜が終わったくらいの時期に、一緒に行きませんか」
「考えます」根古は言った。
「ぜひ来てください」モーシェは言った。「ヤコブの記録が待っています。そして??テルアビブの春は美しいですよ。根古さんに見せたい景色があります」
「分かりました」根古は言った。「考えます」
「それは来るということですね」モーシェは笑った。
「考えます」根古は繰り返した。
モーシェがまた笑った。
電話を切った。
澪がコーヒーを持ってきた。
「根古さん、今年も何か来そうですか」澪は言った。
「来るでしょう」根古は言った。「この町では、必ず来る」
「何が来ますか」
「来てから分かります」根古は言った。「来たら動く。それだけです」
「それだけですか」澪は言った。
「それだけです」根古は言った。「でもそれで十分です」
澪は少し笑った。
ヤマトが根古の膝に乗ってきた。
元日の光が、事務所に差し込んでいる。
可児の新しい一年が、静かに始まった。
??可児探偵録・第五章「雪と手紙」 了
??可児探偵録・第一部 完
あとがきにかえて
根古親司、五十八歳。黒猫ヤマトと二人で、可児の小さな事務所に座っている。
一年間、五つの章にわたって動いた。
五十年前の炎を掘り起こし、雨の中で暗号を解き、雪の廃工場で金庫を開け、紅葉の中で記憶を追い、雪の山道で三十年前の真実を見つけた。
その全部の根っこに、ヤコブ・ネコがいた。
この町に根を張ることを選んだ男が、何十年も後の子孫に、動く理由を残していた。
根古は今日も事務所を開ける。
依頼が来れば動く。来なければ、ラクカでコーヒーを飲む。
それだけだ。
でもこの町では、必ず何かが来る。
根古はそれを知っている。そしてヤマトも知っている。
可児探偵録・第二部、近日。




