「雪と手紙」 三十年ぶりの顔
翌朝、根古と加藤は岐阜市内に向かった。
助手席の加藤は無口だった。いつもは賑やかな男だが、今日は一言も喋らない。窓の外の雪景色を見ている。
根古も黙って運転した。
名古屋方面への幹線道路から外れ、岐阜市内の古い住宅街に入った。澪が調べた住所を頼りに進む。
細い路地の奥に、小さな自動車工場が見えてきた。
トタン屋根の建物。駐車場に古い車が二台。看板には「加藤自動車」とだけある。屋号だけで名前がない。
根古は車を止めた。
「着きました」根古は言った。
加藤は工場を見た。
動かない。
「大丈夫ですか」根古は言った。
「分からん」加藤は静かに言った。「三十年前に死んだと思っていた人間に会いに来た。どんな顔をすればいいか分からん」
「顔のことは考えなくていいです」根古は言った。「会えば分かります」
「そうか」加藤は言った。「そうだな」
加藤がドアを開けた。根古も降りた。
工場の引き戸をノックした。
しばらくして、中から物音がした。
引き戸が開いた。
男が出てきた。
六十歳。加藤敬三と同じ顔だ。でも少し痩せている。髪が薄い。目の下に深い隈がある。体が悪いと手紙に書いていたのは本当だ。
男は加藤を見た。
加藤は男を見た。
鏡を見ているような二人が、雪の降る路地に立っていた。
誰も何も言わなかった。
十秒か、二十秒か。
加藤が先に動いた。
一歩前に出て、男の肩を掴んだ。それだけだ。言葉はなかった。
男、加藤敬二は目を閉じた。
根古は少し離れて立っていた。
工場の中の小さな事務所に、三人が入った。
石油ストーブが一台。椅子が三つ。机の上に工具が散らばっている。
敬二がお茶を入れた。震える手で湯飲みを三つ出した。
「体が悪いと手紙に書いていた」加藤は言った。「どこが悪いんだ」
「心臓だ」敬二は言った。「来年まで持つかどうか、と言われている」
「なぜもっと早く連絡しなかった」加藤の声が少し上ずった。「三十年だぞ。三十年間、俺は兄貴が死んだと思って生きてきた」
「分かっている」敬二は言った。「お前に連絡できない事情があった。でも??死ぬ前に一度だけ会いたかった」
「事情というのは」根古は言った。
敬二は根古を見た。「あなたが根古さんですか」
「そうです」
「昌也さんに似ている」敬二は言った。「顔が特に」
「よく言われます」
「昌也さんには世話になった」敬二は湯飲みを持った。「三十年前、あの人がいなければ俺は今ここにいない」敬二は根古を見た。「息子さんに礼を言える日が来るとは思っていなかった」
「礼より、事情を話してください」根古は言った。「三十年前に何があったか」
敬二が話し始めた。
加藤は黙って聞いた。時折目を閉じたが、遮らなかった。
「三十年前、俺は可児でトラックの運転手をしていた」敬二は言った。「夜間の配送が多かった。ある夜、御嵩の外れの山道を走っていたら??道の脇に車が止まっていた。様子がおかしかったから、車を止めた」
「何があったんですか」根古は言った。
「二人の男が、何かを埋めていた」敬二は静かに言った。「山の土を掘って、大きな袋を埋めていた。俺が近づいたら気づかれた。男たちが走ってきた。俺は逃げた」
「袋の中身は」根古は言った。
「分からない。でも??」敬二は少し間を置いた。「一人の男の顔を見てしまった。その男を知っていた」
「誰でしたか」
「当時の可児署の刑事だった」敬二は言った。「三枝道雄という男だ。地元では知られた人物だった」
根古は黙って聞いた。
「翌日から、俺は追われ始めた」敬二は続けた。「見知らぬ男たちが、俺の家の周りをうろついていた。怖くなって、昌也さんに相談した」
「父とはどんな関係でしたか」根古は言った。
「配送の仕事で付き合いがあった。信頼できる人だと思っていた」敬二は言った。「昌也さんは話を聞いて、すぐ言った。一度死ね、と」
「一度死ね」根古は繰り返した。
「そうだ」敬二は言った。「偽の事故を作れ。別の場所で別の名前で生きろ。俺が手を打つ、と言ってくれた」敬二は根古を見た。「昌也さんは知り合いを通じて、俺の死亡届を処理してくれた。そして岐阜に逃げる段取りをつけてくれた。金も少し用意してくれた」
「母親だけには知らせたのか」根古は言った。
「それは俺が決めた」敬二は言った。「母さんだけには言いたかった。昌也さんも、それだけは認めてくれた」
「敬三さんには」根古は言った。
「言えなかった」敬二は加藤を見た。「お前に言えば、お前が動く。お前が動けば、危ない目に遭う。俺のせいでお前が傷つくのが怖かった」
加藤は黙っていた。目が赤くなっている。
「三枝道雄は今どこにいますか」根古は言った。
「引退して、可児市内にいると聞いた」敬二は言った。「六十四歳のはずだ。あの男が何を埋めていたか??三十年間、俺は考え続けた」
「袋の大きさは」根古は言った。
「大人一人が入るくらいの大きさだった」敬二は静かに言った。
事務所が静まり返った。
石油ストーブが小さく燃えている。
加藤が初めて口を開いた。
「人間を埋めていたのか」加藤は静かに言った。
「そうだと思う」敬二は言った。「三十年間、そう思い続けた。でも証拠がない。場所も??あの山道のどこかだとしか分からない」
根古は少し考えてから言った。「三枝道雄という名前、聞いたことがあります」
「どこでですか」敬二は言った。
「第一章で安藤家の件を調べていたとき、周辺の人間として名前が出ていた」根古は言った。「当時の可児署の刑事で、安藤家と繋がりがあったという話があった。深く調べなかったが??」
「安藤家」敬二は少し目を見開いた。「知っています。あの一族は可児で長い間、裏で力を持っていた」
「三枝と安藤家は繋がっていた可能性がある」根古は言った。「三十年前に埋めたものが何か??三枝本人に聞くしかない」
「あの男が話すとは思えません」敬二は言った。
「話すかどうかは、会ってみなければ分からない」根古は言った。「敬二さん、もう少し体が持ちますか。可児に来られますか」
敬二は根古を見た。
「行きます」敬二は言った。「三十年待ったんだ。もう少しくらい動ける」
帰り道、加藤は少し口が動くようになってきた。
「根古」加藤は言った。
「何ですか」
「お前の親父は、本当に変な男だな」
「そうですね」
「人の兄を三十年間匿っておいて、一言も言わない」加藤は言った。「腹が立つのか、感謝すべきなのか、分からん」
「両方でいいと思います」根古は言った。
「そうか」加藤は雪の道を見た。「昌也さんに礼を言いたかったな。直接」
「墓に言いに行けばいいです」根古は言った。「喜ぶと思います」
「お前の親父の墓か」加藤は言った。「連れて行ってくれるか」
「いつでも」
加藤は少し黙ってから言った。「根古、兄貴が戻ってきたのは、お前のおかげだ」
「俺は何もしていません」根古は言った。「敬二さんが手紙を書いた。それだけです」
「でも手紙に根古の名前を書いたのは、昌也さんのおかげだ」加藤は言った。「昌也さんが敬二に根古の息子を頼れと言っていたんだろう」
「そうかもしれません」根古は言った。
「つまり全部、お前の親父が仕組んだ」加藤は静かに言った。「三十年前から」
根古は雪の国道を見た。
父がどこまで考えていたのか、根古には分からない。
でも今、こうして加藤の隣を走っている。
それだけで、何かが伝わっている気がした。
事務所に戻ると、工藤と秋月が来ていた。
今回は本当に早い。昨日電話して、今日もう来ている。
「新幹線で来ました」工藤は言った。「秋月さんが急げと言って」
「三枝道雄という人物を調べてほしい」根古は言った。「元可児署の刑事、六十四歳。現在は可児市内にいるはずです」
「すぐ動きます」工藤は手帳を出した。
「もう一つ」根古は言った。「三十年前、御嵩の山道で起きた不審な出来事の記録を調べてほしい。行方不明者や変死体の記録です」
「当時の記録を調べるのは難しいですが??」工藤は言った。
「秋月さんなら、警視庁時代のルートで調べられますか」根古は秋月を見た。
「やってみます」秋月は言った。「岐阜県警に知り合いがいる。古い記録なら、残っているかもしれない」
夕方、雨月から連絡が入った。
「三枝道雄の件、把握しました」雨月は言った。「可児市内の旧市街に住んでいます。退職後は静かに暮らしているようです。ただ??」
「ただ」根古は言った。
「三枝は退職後も、特定の人物と繋がっているという情報があります。安藤家の関係者です」雨月は言った。「安藤賢造が逮捕された後も、別の安藤家の関係者と連絡を取っている形跡があります」
「安藤家はまだ動いているのか」根古は言った。
「根は深い」雨月は言った。「根古さん、三枝に会いに行くつもりですか」
「はい」
「一人では行かないでください」雨月は言った。「私も一緒に行きます」
「警察が来ると、三枝が警戒します」根古は言った。
「私服で行きます」雨月は言った。「それに??根古さん、今回の件は可児署として放っておけない案件になってきました。三十年前の不審な出来事が、安藤家と繋がっているなら」
「分かりました」根古は言った。「明日の朝、一緒に来てください」
夜、根古はラクカに寄った。
今日は温泉仲間に話を聞きたかった。
太田、長曾我部、松平、西野が来ていた。
「三十年前、御嵩の山道で何か変なことがあったという話を聞いたことがありますか」根古は言った。
全員が考えた。
松平が口を開いた。「三十年前というと??うっすら覚えていることがある」
「何ですか」
「御嵩の山道で、一人の男が行方不明になったという話だ」松平は言った。「俺が神社に赴任してきた頃だから、三十年以上前かもしれない。地元の男で??名前は覚えていないが、若い男だったと聞いた」
「どんな人間でしたか」
「確か??安藤家と揉めていた男だと聞いた」松平は静かに言った。「土地の問題で安藤家と争って、ある日突然いなくなった。事故か失踪か分からない、という話だった」
長曾我部が頷いた。「俺も似たような話を聞いたことがある。でも誰も深く調べなかった。あの頃の安藤家は、誰も逆らえなかった」
「それが三十年前に埋められた可能性がある」根古は言った。
全員が黙った。
太田がカウンターを拭きながら言った。「根古、これは大事だぞ。もし本当に人が埋められていたなら??」
「動きます」根古は言った。「それが俺の仕事です」
夜遅く、根古は神崎に電話した。
可児に越してきて二週間の神崎は、すぐ出た。
「夜遅くにすみません」根古は言った。「三枝道雄という人物を知っていますか。元可児署の刑事です」
「知っています」神崎は即座に言った。「安藤家と繋がっていた人物として、私の調査資料に名前があります。ただし三年前の資料です。今の状況は分かりません」
「三十年前の記録に関わっている可能性があります」根古は言った。「明日、三枝に会いに行きます」
「根古さん」神崎は言った。「三枝は安藤家の秘密を多く知っている人間です。追い詰められると、何をするか分からない。気をつけてください」
「分かりました」根古は言った。「神崎さん、ユキは元気ですか」
「元気です」神崎は少し柔らかい声になった。「今、膝の上にいます。重いです」
「ヤマトも重い」根古は言った。「猫というのは、みんな重い」
「そういうものですか」神崎は言った。
「そういうものです」根古は言った。「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
根古は電話を切って、窓の外を見た。
雪がまた降り始めていた。
可児の夜が、静かに白くなっていく。
ヤマトが根古の膝に乗ってきた。
「明日は大事な日になる」根古は黒猫に言った。「三十年前に埋められたものが、あるとすれば??それを掘り起こす日だ」
ヤマトは根古の顔を見た。
「お前の重みが、今日は心強い」根古は言った。
ヤマトは答えない。ただ根古の膝の上で、静かに目を閉じた。
三十年ぶりの兄弟の再会、加藤敬二が目撃した衝撃の場面、そして三枝道雄と安藤家の繋がりが浮かび上がりました。




