「雪と手紙」 死者からの手紙
十二月に入って最初の週、可児に雪が降った。
朝起きると、窓の外が白くなっていた。山の稜線が雪で縁取られ、町全体が静かになっている。
根古は事務所の窓から雪を見た。ヤマトが窓枠に乗って、落ちてくる雪を目で追っている。
「寒いぞ」根古は言った。
ヤマトは聞いていない。雪だけを見ている。
澪が来る前に、根古はコーヒーを淹れた。一人で飲む朝のコーヒーが好きだ。静かで、余計なことを考えなくていい時間だ。
携帯が鳴った。
加藤敬三からだ。自動車屋の加藤、六十歳の温泉仲間だ。
「根古」加藤の声が、いつもと違う。低く、震えている。「少し来てもらえるか。変なものが届いた」
加藤の自動車屋は、可児市内の国道沿いにある。
根古が着くと、加藤は作業場の隅に立っていた。いつもは大きな声で笑う男だが、今日は小さく見える。
手に封筒を持っている。
「これが届いた」加藤は封筒を根古に渡した。「今朝、郵便受けに入っていた」
封筒を見た。
宛名は加藤敬三。差出人の欄に、名前がある。
根古は差出人の名前を読んだ。
加藤 敬二
「敬二というのは」根古は言った。
「俺の兄だ」加藤は静かに言った。「三十年前に死んだ」
作業場の隅の小さな事務所で、加藤が話した。
根古は黙って聞いた。
「敬二は俺の双子の兄だ」加藤は言った。「三十年前、交通事故で死んだ。俺が三十歳のとき。葬式もした。墓もある」
「双子だったんですか」根古は言った。「知りませんでした」
「誰にも言っていなかった」加藤は言った。「言いにくい事情があった」加藤は封筒を見た。「でも今朝、この手紙が届いた。死んだはずの兄の名前で」
「中を読みましたか」
「読んだ」加藤は言った。「でも??根古に先に見せたかった。一人では抱えきれない」
根古は手紙を取り出した。
便箋一枚。几帳面な字だ。
敬三へ。
三十年ぶりに書く。生きている。ずっと隠れていた。でも体が悪くなった。もう長くないかもしれない。死ぬ前に、お前に会いたい。そして??昔のことを話さなければならないことがある。母さんだけが知っていることだ。根古という探偵を頼れ。その男が動いてくれるはずだ。
敬二より
根古は手紙を読んだ。
また自分の名前が出てきた。
「お母さんはご存命ですか」根古は言った。
「生きている。八十三歳だ。市内の老人ホームにいる」加藤は言った。「ただ??認知症が進んでいて、話せる日と話せない日がある」
「敬二さんの名前を聞いたとき、何か思い当たることはありますか」根古は言った。
「事故が、本当に事故だったかどうか??」加藤はゆっくり言った。「ずっと引っかかっていた。でも三十年、誰にも言えなかった」
「なぜですか」
「言えない事情があった」加藤は根古を見た。「根古、俺の家の話は、可児の古い話と繋がっている。面倒なことになるぞ」
「面倒な話が来たら動きます」根古は言った。「それが俺の仕事です」
加藤は少し間を置いてから、頷いた。
根古は事務所に戻り、澪に手紙のコピーを見せた。
澪は読んで、顔を上げた。
「また根古さんの名前が手紙に出てきた」澪は言った。
「この町では毎回そうなる」根古は言った。
「敬二さんはどうやって根古さんの名前を知ったんでしょう」澪は言った。「三十年隠れていた人間が、なぜ根古さんを知っているんですか」
「それが最初の謎だ」根古は言った。「加藤の双子の兄が、三十年前に死んだことにして隠れていた。なぜそうしなければならなかったか。そして今、根古を頼れと手紙に書いた。誰かから俺の話を聞いたはずだ」
「お母さんの房子さんが知っているかもしれません」澪は言った。
「会いに行く」根古は言った。「ただし??認知症が進んでいると加藤が言っていた。話せる日と話せない日がある」
「運次第ですね」澪は言った。
「運を引き寄せるしかない」根古は言った。
昼過ぎ、根古と加藤は老人ホームを訪ねた。
可児市内の静かな施設だ。木漏れ日苑とは別の場所だ。
受付で加藤が面会を申し込んだ。
廊下を歩きながら、加藤が小声で言った。「今日、話せるといいんだが」
「最近はどうですか」
「先週は割と良かった。でも一昨日は俺の顔を見て、誰だと言った」加藤は少し顔を曇らせた。「それが辛い」
「ここには頻繁に来ているんですか」
「週に一度は来ている」加藤は言った。「親父が早くに死んで、ずっと母さんと二人で生きてきた。敬二が死んでからは特に」
部屋に入ると、房子は窓際の椅子に座っていた。
八十三歳、小さな体。白髪を丁寧にまとめている。加藤敬三に少し似た顔だ。
加藤が近づいた。「母さん、俺だ。敬三だ」
房子はゆっくり振り返った。
加藤を見た。
それから根古を見た。
根古と目が合った瞬間、房子の目が変わった。
「昌也さんの息子さんですか」房子は静かに言った。
加藤が息を呑んだ。
根古は一歩前に出た。「根古親司といいます。昌也の息子です」
「やはり」房子は言った。「顔が似ている」
「母さん、今日は分かるか」加藤は慎重に聞いた。
「分かる」房子は言った。「今日は頭が晴れている。いつもこうじゃないが、今日は大丈夫だ」房子は根古を見た。「来てくれると思っていた。敬二が手紙を送ったんでしょう」
「届きました」根古は椅子を引いて、房子の前に座った。「話を聞かせてもらえますか」
房子は窓の外の雪を見てから、話し始めた。
「敬二と敬三は双子です」房子は静かに言った。「一卵性双生児。そっくりだった。見分けがつかないくらい。でも性格は違った。敬三は明るくて、敬二は静かだった」
「双子のことを、誰にも言わなかった理由は」根古は言った。
「言えない事情がありました」房子は根古を見た。「敬二は三十年前、ある事件に巻き込まれました。巻き込まれたというより??見てしまった。見てはいけないものを」
「何を見たんですか」
「この町の古い話です」房子は言った。「可児の土地の話。戦後から続いている話」房子は少し間を置いた。「根古さん、あなたのお父さんの昌也さんも、その話を知っていました」
また父の名前が出た。
「父がどう関わっていたんですか」根古は言った。
「昌也さんは、敬二に逃げる場所を教えてくれました」房子は言った。「三十年前、敬二が危ない目に遭いそうになったとき、昌也さんが助けてくれた。逃げろ、俺が死んだことにしてやると言って」
「父が」根古は静かに言った。
「昌也さんは黙って動く人でした」房子は言った。「敬二が生きているのを知っていたのは、昌也さんと私だけです。敬三にも言わなかった。言えば敬三が苦しむと思って」
「三十年間、敬二さんはどこにいたんですか」
「それは敬二から直接聞いてください」房子は言った。「私が知らないことも多い。でも??根古さん、一つだけ言えることがあります」
「何ですか」
「敬二が見てしまったもの、それがこの町の最後の秘密です」房子は根古を真っ直ぐ見た。「昌也さんが死ぬまで守ってきたものと、同じ根っこにある話です」
老人ホームを出ると、雪がまた降り始めていた。
加藤は無言で歩いた。根古も黙ってそばにいた。
駐車場に着いたところで、加藤が立ち止まった。
「根古」加藤は言った。「兄が生きていた。三十年間」
「そうです」
「お前の親父が助けていた」
「そうなります」
「なぜ俺に言わなかった」加藤は静かに言った。怒っているのか悲しんでいるのか、分からない声だ。「兄が生きていると知っていれば??俺は三十年、違う生き方をしていたかもしれない」
「昌也さんは、あなたを守るために言わなかったんだと思います」根古は言った。
「守る」加藤は繰り返した。「俺を守るために、兄が死んだことにした」加藤は雪の空を見た。「その事情を聞かなければならない」加藤は根古を見た。「根古、兄を探してくれるか」
「探します」根古は言った。「手紙の消印を調べます。どこから出したか分かれば、そこから辿れます」
事務所に戻ると、工藤から電話が入っていた。
工藤は横浜にいるはずだが、またもや早い。
「根古さん、また可児に行っていいですか」工藤は言った。
「なぜですか」
「秋月さんから連絡が来ました。根古さんが動き始めたと言って」
「秋月はどこで知るんですか」根古は言った。
「さあ」工藤は言った。「でも秋月さんの感は外れません。来ていいですか」
「好きにしてください」根古は言った。
夜、根古は手紙の消印を確認した。
岐阜市内の消印だ。可児から車で一時間ほどの距離だ。
澪が調べていた。
「岐阜市内で加藤という苗字で調べましたが、多すぎて絞れません」澪は言った。「でも??一つ面白いものを見つけました」
「何ですか」
「岐阜市内に、加藤自動車という小さな修理工場があります」澪は言った。「経営者は加藤という男です。でも正式な登録名がない。事業登録を調べると、名前の欄が空欄に近い状態です」
「意図的に名前を隠している」根古は言った。
「そう思います」澪は言った。「それと??その工場、三十年前に開業しています」
根古は少し目を細めた。
「加藤敬二が岐阜市内で自動車工場をやっていた。弟と同じ仕事をしていた」根古は言った。
「そうなると思います」澪は言った。「根古さん、明日岐阜に行きますか」
「行きます」根古は言った。「加藤さんも連れて行く」
その夜遅く、根古は実家の仏間に線香を立てた。
今日は少し長く話した。
「また出てきた」根古は言った。「加藤敬二という男を、三十年前にお前が助けていた。死んだことにして、逃がしていた。その理由を俺はまだ知らない」根古は線香を見た。「でも必ず辿り着く。お前が黙って守ってきたものを、今回も俺が動く」
ヤマトが根古の膝に乗ってきた。
「重い」根古は言った。
ヤマトは動かない。
「分かった」根古は言った。「いていいい」
雪の夜、可児が静かに白くなっていた。




