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紅葉の終わり

 十一月に入る前の週、可児の山は最後の色づきを見せていた。

 赤と黄と茶が混じり合い、朝の光を受けて燃えるように輝いている。根古はこの景色が好きだ。派手すぎず、しかし確かに美しい。

 事務所の窓から山を見ながら、根古はコーヒーを飲んだ。

 ヤマトが窓枠に乗って、同じ方向を見ている。

「お前も紅葉が好きか」根古は言った。

 ヤマトは答えない。ただ山を見ている。


 フェルナンドから連絡が入ったのは、朝九時だった。

「根古さん、一つ報告があります」フェルナンドは言った。「黒田省吾、昨夜正式に逮捕されました。背任と官職濫用の疑いです。警察庁の要職にある人物も、今朝から事情聴取が始まっています」

「動いたか」根古は言った。

「検察が動きました」フェルナンドは言った。「神崎さんの文書と黒田の供述が、決め手になりました。三十年かかりましたが、ようやく動いた」

「神崎さんは」

「安全です。証人として保護されています。証言の準備を進めています」フェルナンドは少し間を置いた。「根古さん、今回の件、CABINとして根古さんに感謝しています。あなたがいなければ、こうはならなかった」

「フェルナンドさん、俺は動いただけです」

「それが大事なんです」フェルナンドは言った。「毎回同じことを言いますが、毎回本当のことです」


 昼前に、雨月が事務所に来た。

 珍しい。雨月が事務所に来るのは、たいてい何かある時だ。

「どうしましたか」根古は言った。

「報告に来ました」雨月は言った。「黒田の件、愛知県警と検察が主導することになりました。可児署は協力という立場です」

「雨月さんが動いてくれたから、ここまで来た」根古は言った。

「私は記録を取っただけです」雨月は言った。「根古さんが黒田を動かした。そこが一番大事な部分でした」

「互いに動いたということにしましょう」根古は言った。

 雨月は少し笑った。「そうします」雨月は続けた。「もう一つ報告があります。警察庁の要職にあった人物、名前が出てきました。退職届を提出したそうです。事情聴取の前に」

「逃げようとした」

「でも検察は認めなかった」雨月は言った。「粛々と進みます」

「雨月さん、平さんによろしく言ってください」根古は言った。「今回も動いてもらいました」

「伝えます」雨月は立ち上がった。「根古さん、一つ個人的なことを言っていいですか」

「どうぞ」

「この仕事をしていて良かったと思える瞬間があります」雨月は根古を見た。「今回の件は、そういう瞬間の一つでした」

「雨月さんはまだ若い」根古は言った。「これからもっとそういう瞬間が来ます」

「そうなるように動きます」雨月は頷いた。


 夕方、西野薫が事務所に来た。

 珍しい。西野がここに来るのは初めてだ。

「どうしたんですか」根古は言った。

「神崎さんから連絡がありました」西野は言った。「根古さんに伝えてほしいことがあると」

「何ですか」

「可児に住むことにしたそうです」西野は穏やかに言った。「来月から、この町に引っ越してくる」

 根古は少し間を置いた。

「そうですか」

「私の教会の近くにアパートを借りるそうです」西野は言った。「一人で長い間動いてきた人間が、ようやく根を下ろす場所を見つけた。良かったと思います」

「西野さんが引き寄せたんですか」

「私は場所を紹介しただけです」西野は言った。「根古さん、神崎さんが一つ聞いてほしいことがあると言っていました」

「何ですか」

「猫を飼いたいと言っています」西野は少し笑った。「一人で動いてきた人間には猫が必要だと、誰かに言われたそうです」

 根古はヤマトを見た。

 ヤマトが根古を見た。

「俺は何も言っていません」根古は言った。

「でも言いましたよね」澪が奥から出てきた。「一人で動いてきた人間には猫が必要だと」

「聞いていたのか」

「事務所は狭いです」澪は言った。「根古さん、木下先生に相談してみてください。良い猫の縁故があるかもしれません」

「勝手に話を進めるな」根古は言った。

 西野が静かに笑っていた。


 その夜、太田から電話が入った。

「根古、ラクカに来いよ。みんな集まっとる」

「誰が集まっているんですか」

「来れば分かる」

 根古はヤマトを事務所に残して、ラクカに向かった。


 ラクカのドアを開けると、温かい空気が出てきた。

 温泉仲間が全員いた。長曾我部、松平、加藤、ロドリゲス、ムハンマド、織田、西野。工藤と秋月もいた。澪と江戸川もいる。鳴海も来ている。木下千恵も来ていた。山本彩織も来ていた。

 そして、桐島虎之助と奈緒がいた。テルアビブから帰ってきたのだ。

「帰ってきたんですか」根古は虎之助に言った。

「昨日帰りました」虎之助は言った。顔が明るい。皺の奥の目が、前より柔らかくなっている。「太田さんがここに来いと言ってくれたので」

「テルアビブはどうでしたか」根古は言った。

「良かった」虎之助は静かに言った。「フェルドマンさんの孫娘に会いました。八十歳の方です。絵を見て、泣いていました。長い時間、絵を抱いていました」虎之助は根古を見た。「父の絵が、ちゃんと帰れました」

「良かったです」

「根古さん」虎之助は言った。「フェルドマンさんの孫娘が言っていました。絵を守ってくれた人に、ありがとうと伝えてくれと」

「エルンストさんと、あなたに言っているんです」根古は言った。

「私だけではありません」虎之助は根古を見た。「あなたにも、です」


 太田がカウンターからコーヒーとお茶を配り始めた。

 全員が席に着いた。

 ロドリゲスがタブレットを持っているが、今日は撮影していない。

「何の集まりですか」根古は太田に言った。

「特に理由はない」太田は言った。「根古が動くと、みんなここに来る。だから呼んだ」

「それだけですか」

「それだけだ」太田は言った。「根古、お前が動いた後は、ここに集まるのが習慣になっとる。知らなかったか」

「知らなかった」

「鈍い男だ」加藤が言った。

「俺は探偵だ。人の感情を読むのは得意じゃない」根古は言った。

「それは嘘だ」秋月が言った。「黒田を動かしたのは、あんたが感情を読んだからだろう」

「あれは話をしただけです」

「その話し方が大事なんです」工藤が言った。

 笑いが起きた。


 夜が更けてきた頃、虎之助が根古の隣に来た。

「根古さん、一つ見せたいものがあります」虎之助はスマートフォンを出した。「テルアビブで撮った写真です」

 画面に、八十歳の老女が絵を抱いている写真があった。川沿いの町の絵だ。老女は目を閉じている。

「フェルドマンさんの孫娘です」虎之助は言った。「七十年間待っていた。絵が帰ってきた瞬間の顔です」

 根古は写真を見た。

 老女の顔に、七十年分の何かが凝縮されている。悲しみとも喜びとも違う、もっと深いものだ。

「良い写真です」根古は言った。

「これを見せたかった」虎之助は言った。「根古さんのおかげで、この顔が見られました」

「エルンストさんが最初に守った」根古は言った。「あなたが七十年守った。俺はただ扉を開けただけです」

「その扉を開けることが、一番難しかった」虎之助は言った。


 夜十時過ぎ、人々が帰り始めた。

 工藤と秋月が最後に残った。

「明日、横浜に帰ります」工藤は言った。

「また来るんでしょう」根古は言った。

「そうなると思います」工藤は笑った。「秋月さんが来ると言えば、私もついてきます」

「俺は関係ない」根古は言った。

「大いに関係あります」秋月が言った。「あんたがいるから来る。それだけだ」

 根古は何も言わなかった。

 太田がコーヒーをおかわりしながら、静かに笑っていた。


終章 十一月の空

 十一月の最初の朝、可児の山は葉を落とし始めた。

 赤かった木々が茶色になり、少しずつ裸になっていく。でも根古はこの季節も嫌いではない。木が葉を落とした後の、すっきりした景色が好きだ。

 根古は事務所を開けた。

 ヤマトが机の上で待っていた。

「早起きだな」根古は言った。

 ヤマトは根古を見た。何か言いたそうな顔をしている。

「腹が減ったのか」根古は言った。

 ヤマトは答えない。ただ根古を見ている。

「分かった」根古は言った。「飯にしよう」


 朝食を終えてしばらくすると、澪が来た。

「根古さん、神崎さんからメッセージが来ています」澪はスマートフォンを差し出した。

根古さん、可児に着きました。荷物を運び終えました。落ち着いたら挨拶に行きます。神崎

「来たか」根古は言った。

「嬉しくないんですか」澪は言った。

「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう話ではない」根古は言った。

「顔が少し緩んでいます」澪は言った。

「気のせいだ」根古は言った。

 ヤマトが根古の顔を見上げた。

「お前も黙れ」根古は言った。


 昼過ぎに、木下千恵から連絡が来た。

「根古さん、良い縁故がありました」千恵は言った。「子猫が三匹、里親を探しています。黒猫が一匹います。二ヶ月の女の子です」

「神崎さんに話しておきます」根古は言った。

「根古さんも見に来ませんか」千恵は言った。「ヤマトの妹分ができるかもしれません」

「ヤマトに妹分は要らない」根古は言った。

「ヤマトさんが決めることですよ」千恵は笑った。


 夕方、神崎が事務所に来た。

 リュックを背負っていない。手ぶらだ。三年間、ずっとリュックを背負って動いてきた人間が、手ぶらで来た。それだけで何かが変わったのが分かった。

「根古さん」神崎は言った。「来ました」

「どうぞ」根古は椅子を勧めた。

 神崎は座った。ヤマトが神崎の足元に来た。昨日より警戒が薄い。

「落ち着きましたか」根古は言った。

「まだ少し慣れません」神崎は言った。「定住するのが久しぶりで、荷物を広げることに戸惑っています」

「すぐ慣れます」根古は言った。

「そうですか」神崎は少し周囲を見た。「この事務所、思ったより小さいですね」

「十分な広さです」

「でもヤマトさんがいて、澪さんがいて、工藤さんが来て、秋月さんが来て??どうやって全員入るんですか」

「何とかなります」根古は言った。「この町はいつも何とかなります」

 神崎は少し笑った。


 神崎が帰った後、澪が言った。

「根古さん、神崎さん、良い人ですね」

「そうかもしれません」

「可児に来て良かったと思います」澪は言った。「根古さんがいるから、みんな来ますよね」

「西野さんが言ったのと同じことを言う」根古は言った。

「西野さんも正しいですよ」澪は言った。「根古さん、一つ聞いていいですか」

「何だ」

「根古さんはこの町が好きですか」

 根古は少し考えた。

「好きです」根古は言った。「ただ??この町が好きなのか、この町にいる人間が好きなのか、分からなくなることがある」

「どちらでもいいんじゃないですか」澪は言った。「どちらも同じことだと思います」

 根古は澪を見た。

「たまに鋭いことを言うな」根古は言った。

「弟子ですから」澪は言った。

「弟子ではない」

「でも根古さんから学んでいます」

「勝手に学ぶのは止められない」根古は言った。

 澪は笑った。


 夜、根古は実家の仏間に寄った。

 線香を立てた。

「第四章が終わった」根古は静かに言った。「今回は記憶の話だった。記憶を奪われた男が、可児に来た。三年間記憶を持ち続けた女が、ここで根を下ろした。三十年間隠してきた男が、ようやく話した」根古は線香の煙を見た。「全部、記憶の話だった」

 ヤマトが根古の隣に来た。

「お前は覚えているか」根古はヤマトに言った。「最初に事務所に来た日のことを」

 ヤマトは根古を見た。

「俺は覚えている」根古は言った。「段ボール箱に入って、事務所の前に置いてあった。生後一ヶ月くらいだった。雨の日だった。どこの誰が置いたか、今も分からない」根古はヤマトの頭を撫でた。「それからずっと、お前はここにいる」

 ヤマトは目を細めた。

「良い記憶だ」根古は言った。


 数日後、可児市内の小さなアパートで、神崎綾乃は段ボール箱を開けていた。

 三年分の荷物は、思ったより少ない。でも一つ一つに、三年間の重みがある。

 木下千恵の動物病院から連れてきた子猫が、段ボール箱の中に入って丸くなっていた。

 黒猫の女の子だ。まだ名前がない。

「何という名前にしようか」神崎は子猫に言った。

 子猫は神崎を見た。

「ヤマトが男だから??女の子らしい名前がいいな」神崎は考えた。「ユキ。どうですか」

 子猫は答えない。でも丸くなったまま、目を細めた。

「ユキにします」神崎は言った。

 窓の外に、十一月の可児の空が広がっていた。

 葉を落とした木々の向こうに、山の稜線が見える。

 神崎は窓を少し開けた。

 冷たい空気が入ってきた。でも不思議と、温かく感じた。


 根古の事務所に、今日も澪が来た。

 ヤマトが机の上にいる。

 コーヒーを入れながら、澪が言った。

「根古さん、次はどんな依頼が来ますか」

「来てから考える」根古は言った。

「でも必ず来ますよね」

「来るかもしれない」

「絶対来ます」澪は言った。「この町では、必ず何かが起きる」

「起きたら動く」根古は言った。「それだけだ」

 澪は笑った。

 ヤマトが窓の外を見た。

 十一月の可児の空は、高く澄んでいた。



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