記憶の帰還
翌朝、根古が可児署に着くと、雨月が待っていた。
顔色が少し悪い。夜通し仕事をしていたからだ。それでも目が澄んでいる。
「黒田の供述、整理しました」雨月は言った。「警察庁に報告します。ただし??警察庁の要職にある人物が関与しているため、直接報告ではなく、別ルートを使います」
「どんなルートですか」
「検察です」雨月は言った。「警察を通さずに検察に直接持ち込む。フェルナンドさんからもそう助言がありました」
「平さんはどうしていますか」根古は言った。
「今朝から書類整理しています」雨月は少し笑った。「あの人は疲れを顔に出さない。昨夜も私より長く働いていました」
「頼りになる人ですね」
「本当に」雨月は言った。「根古さん、桐生さんの様子を見てきますか。今朝から記憶がかなり戻っているようです」
桐生の部屋に入ると、桐生は窓の外の紅葉を見ていた。
振り返った顔が、二日前とは別人のように変わっていた。目に力が戻っている。
「根古さん」桐生は立ち上がった。「おはようございます」
「おはようございます。記憶は戻りましたか」
「ほとんど戻りました」桐生は言った。「薬を盛られたのは、東京の居酒屋です。黒田の関係者と思われる人物に誘われました。気づいたときには御嵩の山の中にいました」
「どうやってここまで来たか分かりますか」
「ぼんやりとですが」桐生は言った。「タクシーに乗った記憶があります。運転手に可児と言ったと思います。それだけが頭にあった。根古を探せ、可児に行け、と」
「誰の声でしたか」
「神崎さんの声でした」桐生は言った。「薬を盛られる二ヶ月前に言われた言葉が、頭に残っていたんだと思います。もし何かあれば、可児の根古を頼れ、と」
「体は大丈夫ですか」
「大丈夫です」桐生は根古を見た。「根古さん、黒田が話したと聞きました」
「昨夜、雨月警部補の前で話しました」
「三十年前のことを」
「全部ではないかもしれませんが、核心は話したと思います」根古は言った。「桐生さん、もう少し休んでください。あとはフェルナンドさんと有村さんが動きます」
「私も動きたいんです」桐生は言った。「この件を追い始めてから半年以上経ちました。やっとここまで来た。最後まで見届けたい」
「見届けられます」根古は言った。「ただし??今日一日だけ休んでください。明日から動けばいい」
桐生は少し考えてから頷いた。「分かりました」桐生は根古を見た。「根古さん、一つ聞いていいですか」
「何ですか」
「なぜそんなに動いてくれるんですか。私はあなたに何もしていない。依頼料も払っていない」
「あなたが可児に来た」根古は言った。「それだけで十分です」
昼前に、有村が事務所に来た。
昨日より顔色がいい。少し眠れたのかもしれない。
「内閣府から正式な連絡が来ました」有村は言った。「桐生の件、調査を開始するという通知です。黒田の供述が検察に届いたことで、動かざるを得なくなったようです」
「上からの待てという指示は」根古は言った。
「撤回されました」有村は静かに言った。「警察庁の要職にある人物も、今朝から事情聴取されています。組織の中で、急速に動きが変わっています」
「有村さんのキャリアは大丈夫ですか」根古は言った。
「分かりません」有村は言った。「でも??正直に言えば、今はどうでもいい気がしています」
「そんなことはない」根古は言った。「あなたはまだ三十四歳です。これから先が長い」
「根古さんに言われると、妙に説得力があります」有村は少し笑った。「なぜですか」
「さあ」根古は言った。「コーヒーを飲んでいってください。澪が入れます」
「いただきます」
澪がコーヒーを出しながら、有村に聞いた。
「有村さん、これからどうするんですか。東京に戻りますか」
「もう少しここにいます」有村は言った。「桐生の回復を確認してから戻ります」
「可児、どうでしたか」澪は言った。
「不思議な町ですね」有村は窓の外を見た。「小さな町なのに、深い。来るたびに何か出てくる気がします」
「フェルナンドさんと同じことを言っています」澪は言った。
「そうですか」有村は笑った。「あの人とは意見が合わなさそうですけど、その点は同じですね」
夕方、フェルナンドから連絡が入った。
「根古さん、文書の件、正式に動き始めました」フェルナンドは言った。「CABINとして検察に資料を提出しました。国会への情報提供も準備しています。マスコミには??もう少し手順を踏んでから」
「神崎さんは」根古は言った。
「安全な場所にいます。必要な証言の準備をしてもらっています」フェルナンドは言った。「根古さん、神崎さんが一つ頼みたいことがあると言っています」
「何ですか」
「あなたに会いたいと言っています。CABINのセーフハウスに来てもらえますか」
「場所を教えてください」
フェルナンドが指定した場所は、可児市内の古いアパートだった。
外から見ると普通の建物だ。でも中に入ると、ドアが二重になっている。
神崎が小さな部屋で座っていた。
根古が入ると立ち上がった。昨日より顔が明るい。
「来てくれましたか」神崎は言った。
「用件を聞きましょう」
「二つあります」神崎は根古の前に座った。「一つは??ありがとうございます。黒田を動かしてくれた。三年間諦めなかったのは正しかったと、昨夜初めて思えました」
「礼はフェルナンドさんに言ってください。俺はただ話をしただけです」
「あなたが話したから黒田は動いた」神崎は根古を見た。「それはあなたの力です。認めてください」
根古は何も言わなかった。
「もう一つは」神崎は続けた。「これが終わったら、どこかに落ち着かなければならないと思っています。三年間、定住せずに動いてきました。でもそろそろ、どこかに根を下ろしたい」
「可児はどうですか」根古は言った。
神崎は少し驚いた顔をした。
「この町にですか」
「悪い町ではありません」根古は言った。「西野さんの教会があります。太田さんのラクカがあります。騒がしいこともありますが??居心地は悪くないはずです」
「根古さんもいますね」神崎は言った。
「それが良いかどうかは分かりません」根古は言った。
神崎はかすかに笑った。「考えてみます」
その夜、ラクカに人が集まった。
今日は誰かが呼んだわけではない。自然に集まってきた。
工藤と秋月、澪、江戸川、鳴海、雨月、平、有村。フェルナンドも来た。
温泉仲間も何人か来た。太田がカウンターでコーヒーを淹れ続けた。
桐生も来た。
雨月が許可した。今夜だけ、ということで。
桐生は入口で少し立ち止まった。見知らぬ人間がたくさんいる。でもすぐに温かい空気を感じたのか、中に入った。
澪が席を案内した。
「桐生さん、コーヒーとお茶、どちらがいいですか」
「お茶をいただけますか」桐生は言った。「胃が少し弱っていて」
「分かりました」澪は言った。「ゆっくりしてください。ここは安全です」
桐生は周囲を見回した。
「不思議な場所ですね」桐生は言った。「こんなに違う人間が、同じ場所に集まっている」
「毎回こうなります」工藤が言った。「根古さんが動くと、気づいたらみんなここにいる」
「俺が呼んでいるわけではない」根古は言った。
「でも根こそぎ呼び寄せる力がある」秋月が言った。
笑いが起きた。
夜が更けてきた頃、桐生が根古の隣に来た。
「根古さん、一つ聞いていいですか」桐生は言った。
「どうぞ」
「神崎さんはどこにいますか」
「安全な場所にいます」根古は言った。「会いたいですか」
「はい」桐生は言った。「二ヶ月前に一度だけ会って、それきりです。あの人が動いていなければ、この件は始まらなかった。直接礼を言いたい」
「フェルナンドさんに頼みます」根古は言った。「明日、会えるかもしれません」
「ありがとうございます」桐生は少し間を置いた。「根古さん、あなたがいる可児という町、すごい場所ですね」
「普通の町です」根古は言った。
「普通じゃないです」桐生は言った。「東京では、こんな場所は見たことがない。みんながみんなのことを気にかけている。それが自然に出てくる」
「昔からの付き合いが多いからでしょう」根古は言った。
「あなたが中心にいるからだと思います」桐生は言った。
「俺は端にいます」根古は言った。「中心は太田さんの店です」
太田がカウンターから根古を見た。
「そうだぞ」太田は言った。「ここが中心だ」
また笑いが起きた。
翌朝、根古は実家の仏間に寄った。
線香を立てた。
「また動いた」根古は言った。「今度は内閣府の話だった。三十年前の密約が、ようやく動き始めた」根古は線香の煙を見た。「神崎さんという女が三年間、一人で動いてきた。桐生さんという男が半年間調べてきた。それが可児で繋がった」
ヤマトが根古の隣に来た。
「お前に似た猫がいたら、神崎さんに紹介するんだがな」根古は言った。「一人で動いてきた人間には、猫が必要だ」
ヤマトは根古を見た。
「冗談だ」根古は言った。「お前は俺のだ」
ヤマトは満足そうに根古の膝に乗った。
三日後、桐生が東京に戻った。
有村も一緒だ。
可児駅で、根古と澪が見送った。
「また来ていいですか」桐生は言った。
「好きにしてください」根古は言った。
「今度は仕事じゃなく来たいです」桐生は言った。「ただ温泉に入りに来たい」
「可児に温泉はたくさんあります」澪が言った。「根古さんの温泉仲間に混ぜてもらえますよね、根古さん」
「勝手に決めるな」根古は言った。
「いいですか」桐生は根古を見た。
「……来れば分かります」根古は言った。
桐生は笑った。
有村が根古に頭を下げた。
「根古さん、ありがとうございました」有村は言った。「私、内閣府を続けるかどうか、まだ分かりません。でも??何かを続けるとしたら、根古さんの動き方を参考にします」
「参考にならないものを参考にしてください」根古は言った。
「なります」有村は言った。「絶対に」
電車が来た。
二人が乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、桐生が窓から根古を見た。何か言おうとしたが、言えなかった。
代わりに、深く頭を下げた。
電車が動き始めた。
根古は電車が見えなくなるまで、そこに立っていた。




