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黒田の影

 翌朝、根古が事務所に着くと、澪がすでに来ていた。

 机の上にメモが並んでいる。夜のうちに調べていたらしい。

「黒田省吾の動きを調べました」澪は言った。「昨日の夕方、名古屋に入っています。新幹線の記録を??」

「どうやって調べた」

「江戸川さんに聞きました」

 根古は少し考えた。江戸川勉、二十五歳の若い探偵が可児に事務所を開けてから二週間経つ。いつの間にか澪と情報交換している。

「続けろ」

「名古屋のホテルに泊まっています。今朝、可児方面に車で向かったという情報があります」

「もうこっちに来ているのか」根古は言った。「早い」

「桐生さんが可児にいると分かったからだと思います」澪は根古を見た。「根古さん、黒田は桐生さんを黙らせに来たんでしょうか」

「あるいは文書を取りに来た」根古は言った。「神崎さんが文書を持っていると、黒田側が知っていれば」

「どこかに情報が漏れていますか」

「可能性がある」根古は煙草を取り出した。「昨日、ラクカで神崎さんとフェルナンドさんと話した。見ていた人間がいたかもしれない」


 根古はフェルナンドに電話した。

「神崎さんの居場所は安全ですか」

「昨夜から別の場所に移しました」フェルナンドはすぐ答えた。「CABINのセーフハウスです。場所は言えませんが、安全です」

「黒田が可児に来ています」

「把握しています」フェルナンドの声が少し固くなった。「根古さん、黒田は一人ではないと思います。護衛を連れているはずです」

「何人くらいですか」

「黒田が使う人間は、だいたい二人から三人です。民間の警備会社の人間です。ただ??元警察や自衛隊出身者が多い。素人ではない」

「分かりました」根古は言った。「桐生さんの安全も確認してください」

「雨月警部補に話を通します」


 可児署に向かうと、雨月がすでに動いていた。

 桐生の部屋の前に制服警官が一名立っている。

「黒田の件、フェルナンドさんから連絡が来ました」雨月は言った。「桐生さんの警護を強化しました」

「助かります」根古は言った。「黒田が可児に来た目的は二つだと思います。桐生さんを黙らせること、そして文書を手に入れること」

「文書は神崎さんが持っているんですよね」

「フェルナンドさんが保護しています」

「では黒田は手が出せない」雨月は言った。「桐生さんも警護している。根古さん、黒田は次にどこを狙うと思いますか」

 根古は少し考えた。

「有村さんです」根古は言った。「有村さんは内閣府の人間で、桐生さんの同僚です。黒田から見れば、もう一つの不安要素だ」

「有村さんに連絡しますか」

「俺がします」


 有村に電話した。

「根古さん」有村はすぐ出た。「黒田が可児に来たのは把握しています」

「身の安全は大丈夫ですか」

「一人で動いています。問題ありません」有村は言った。声が少し硬い。

「一人では危ない」根古は言った。「どこにいますか」

「言えません」有村は言った。「根古さん、私は自分で動けます。心配しないでください」

「有村さん」根古は言った。「あなたが心配なのではありません。あなたが黒田に捕まれば、こちらの動きが読まれる。それが困ります」

 電話の向こうで少し沈黙があった。

「……可児駅の近くのカフェにいます」有村はやがて言った。

「今から行きます」


 可児駅近くのカフェに有村がいた。

 窓際の席で、ノートパソコンを開いている。根古が入ると、素早く周囲を確認した。職業的な動きだ。

 根古は向かいに座った。

「内閣府から何か連絡はありましたか」根古は言った。

「今朝、上司から電話がありました」有村は言った。「可児から帰れと言われました。桐生の件は内部で処理する、と」

「従いますか」

「従いません」有村は根古を見た。「私は今、個人として動いています。組織の指示には従えない」

「その判断で、あなたのキャリアは終わるかもしれません」根古は言った。

「分かっています」有村は静かに言った。「でも??桐生が三年間調べてきたことを、ここで止めるわけにはいかない」

「三年間というのは」根古は言った。「桐生さんが調査を始めたのは最近のことだと聞きました」

「桐生の調査は最近です」有村は言った。「でも??神崎さんの調査から数えれば三年間です」有村は根古を見た。「私は神崎さんのことを、退職前から知っていました。公安で黒田を調べていた人物として。退職後も、どこかで動いているだろうと思っていました」有村は少し間を置いた。「桐生に神崎さんの情報を流したのは、実は私です」

 根古は少し止まった。

「桐生さんに神崎さんを繋げたのは、あなたですか」

「はい」有村は言った。「神崎さんが一人で限界に来ていると分かっていました。内閣府の中で信頼できる人間を探した結果、桐生を選びました。二人を繋ぎました」

「あなたも最初から動いていたんですね」

「そうです」有村は根古を見た。「だから今更止まれません」


 そのとき根古の携帯が鳴った。

 澪からだ。

「根古さん、黒田が動きました」澪は言った。「江戸川さんからの情報です。黒田の車が可児署の近くを通過しました。一度通り過ぎて、戻ってきたそうです」

「署を確認している」根古は言った。「桐生さんがそこにいると分かっている」

「どうしますか」

「雨月に伝えてくれ。すぐ行く」根古は有村を見た。「一緒に来てください」


 可児署に戻ると、雨月がすでに外を確認していた。

「黒田の車、署から五十メートルの場所に止まっています」雨月は言った。「中に三人います」

「黒田本人がいますか」

「確認できません。窓ガラスが濃い色です」

「動く気ですか」根古は言った。

「署に直接来るとは思えません」雨月は言った。「でも??桐生さんをここから動かすタイミングを狙っているかもしれません」

「動かす必要はありません」根古は言った。「桐生さんはここにいる。黒田を先に動かします」

「どうやって」雨月は言った。

「黒田に会いに行きます」根古は言った。

 雨月と有村が顔を見合わせた。

「直接対話するんですか」有村は言った。

「交渉です」根古は言った。「黒田は文書を取り戻したい。桐生さんを黙らせたい。でも今、どちらも手が届かない状況です。追い詰められた人間は焦る。焦った人間は判断を誤る。その前に話をしたほうが、互いのためになる場合がある」

「黒田は話し合える人間ですか」有村は言った。

「会ってみなければ分かりません」根古は言った。


 根古は一人で署の外に出た。

 黒田の車に向かって歩いた。

 五十メートルの距離を、ゆっくり歩いた。車の中の人間が気づいているはずだ。

 車の前に立った。

 しばらく待った。

 後部座席のドアが開いた。

 男が降りてきた。六十一歳、背が高い。白髪の混じった頭、深い皺。元官僚らしい、整った立ち居振る舞いだ。でも目が鋭い。

「根古さんですか」黒田省吾は言った。

「そうです」根古は言った。「話しましょう」


 近くの公園のベンチで、根古と黒田が向き合った。

 護衛の二人は離れたところに立っている。

 十月の公園、紅葉した木々が風に揺れている。

「あなたが探偵だとは思いませんでした」黒田は言った。「もっと大きな組織が動いていると思っていた」

「大きな組織も動いています」根古は言った。「でも今日は俺が来ました」

「CABINですか」

「関係しています」根古は言った。「黒田さん、単刀直入に聞きます。平成六年の文書の件、どうするつもりですか」

 黒田は根古を見た。動じた様子がない。

「その文書は存在しません」黒田は静かに言った。

「存在します」根古は言った。「神崎さんが持っています。CABINも確認しました」

 黒田は少し間を置いた。

「神崎が可児にいるのか」黒田は言った。

「います」根古は言った。「黒田さん、もう手が届かない場所にあります。桐生さんも保護されています。今からどう動いても、文書が公になるのは止められません」

「そうとも限らない」黒田は言った。

「止める方法があると思っているなら、考え直したほうがいい」根古は静かに言った。「三十年前の密約が公になるのと、これ以上動いて罪を重ねるのと、どちらが得ですか」

 黒田は公園の木々を見た。

 しばらく黙っていた。

「根古さん」黒田はやがて言った。「あなたは何者ですか。ただの地方の探偵が、なぜここまで踏み込んでくる」

「依頼があれば動きます」根古は言った。「それだけです」

「依頼人は誰ですか」

「桐生さんです」根古は言った。「あの人が根古を探せと言って可児に来た。それが依頼です」

 黒田は根古を見た。

「たったそれだけの理由で」黒田は言った。

「それで十分です」根古は言った。


 黒田は長い間、根古を見ていた。

 六十一年生きてきた男の目だ。官僚として、権力の中で動いてきた人間の目だ。

 その目が、少しだけ揺れた。

「根古さん」黒田は静かに言った。「私は三十年前、間違いを犯しました。でもその間違いを正す機会を、ずっと逃してきた。正すより、隠し続けることを選んだ」

「なぜですか」

「怖かったからです」黒田は言った。「一度隠すと、また隠さなければならなくなる。それが三十年続いた」黒田は公園の地面を見た。「もう疲れました」

 根古は黙って聞いた。

「弁護士を呼ぶ前に、一つだけ聞かせてください」黒田は言った。「神崎という女は、三年間一人で動いてきたんですか」

「そうです」

「なぜそこまでするんですか」黒田は言った。

「やりかけた仕事を放っておけなかったと、本人が言っていました」根古は言った。

 黒田は目を閉じた。

「そうですか」黒田は静かに言った。「私にはできなかったことを、あの人はやってきた」


 その夜、黒田は雨月の前で話した。

 弁護士を呼んだ。それでも話した。

 三十年前の密約のこと。関わった人間のこと。資金の流れのこと。

 雨月と平が記録した。

 話し終えたのは深夜だった。

 黒田は疲れた顔をしていたが、どこか軽くなったように見えた。

 根古はそれを廊下から見ていた。


 深夜、フェルナンドから連絡が入った。

「黒田が話しましたね」フェルナンドは言った。「CABINとして把握しています。根古さん、どうやって黒田を動かしたんですか」

「話しただけです」根古は言った。

「それだけですか」

「それだけです」

「根古さんは不思議な人ですね」フェルナンドは言った。「権力を持った人間が、なぜかあなたの前では素直になる」

「買いかぶりです」根古は言った。「疲れた人間が、誰かに話したかっただけです」

「それを引き出すのが、あなたの力じゃないですか」フェルナンドは言った。

 根古は答えなかった。


 その夜遅く、神崎綾乃からメッセージが来た。

黒田が話したと聞きました。根古さん、ありがとうございます。三年間、この日を待っていました。

 根古は少し考えてから返信した。

お疲れ様でした。あとはフェルナンドさんに任せてください。

 しばらくして返信が来た。

一つ聞いていいですか。根古さんはなぜ、こんなに動けるんですか。疲れないんですか。

 根古は少し考えた。

 それから返信した。

疲れます。でも動かないともっと疲れます。

 既読がついた。

 しばらくして、短い返信が来た。

分かりました。私も続けます。




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