元公安の女
翌朝六時、神崎から場所の指定が来た。
メッセージアプリ経由だ。送信後すぐにアカウントが消えた。
御嵩の旧道、鷺田の旧宅から北に二百メートル。廃屋の手前の柿の木。七時。一人で来てください。
根古は工藤に場所だけ伝えた。
「一人で行きますか」工藤は言った。
「指定通りに動く」根古は言った。「ただし、三十分待って俺から連絡がなければ、雨月に電話してくれ」
「分かりました」工藤は言った。「気をつけてください」
「毎回同じことを言う」
「毎回心配するので」
旧道を歩いた。
朝の空気が冷たく澄んでいる。紅葉した木々が朝日を受けて、山全体が燃えているように見えた。
柿の木が見えてきた。葉が落ちて、オレンジ色の実だけが枝に残っている。
木の下に人影があった。
女だ。
四十代前半、地味な服装。リュックを背負っている。髪を後ろで結んでいる。顔立ちは整っているが、疲れている。三年間、ずっと動いてきた人間の疲れだ。
「根古さん」女は言った。
「神崎さんですか」
「はい」神崎綾乃は根古を見た。「一人ですね。ありがとうございます」
「指定通りに動きました」根古は柿の木の下に近づいた。「話しましょう」
二人で廃屋の陰に入った。
風を避けられる場所だ。神崎はリュックから水筒を出し、根古に渡した。温かいお茶だ。
「用意がいいですね」
「長い間、野宿に近い生活をしています」神崎は言った。「準備しないと生きていけない」
「三年間ですか」
「はい」神崎は壁に背を預けた。「退職してすぐ、黒田の調査を再開しました。組織の力は使えない。一人でやるしかなかった」
「なぜそこまでするんですか」根古は言った。「三年間、一人で動くのは並大抵のことではない」
神崎は少し間を置いた。
「公安にいたとき、黒田の調査を担当しました」神崎は静かに言った。「三ヶ月かけて証拠を集めた。これで動けると思った。でも上から調査中止の命令が来ました。理由は言われなかった」
「黒田の影響が公安まで届いていた」
「そう思います」神崎は言った。「中止命令の後、私の担当案件が全部別の人間に引き継がれました。事実上の左遷です。それで退職しました」
「退職後、一人で動いた」
「やりかけた仕事を放っておけなかった」神崎は根古を見た。「根古さん、あなたも似たような性格じゃないですか。やりかけたことを途中でやめられない」
「そうかもしれません」根古は言った。「極秘文書を持っていると言いましたね」
「はい」神崎はリュックを開けた。中から防水の袋を取り出した。「これです」
袋の中に、書類の束が入っていた。
根古は受け取って、一枚目を見た。
平成六年の日付。通産省の公文書の形式。タイトルは「エネルギー資源確保に関する特別調査報告書」とある。
「内容は何ですか」根古は言った。
「日本のエネルギー政策に関する機密情報を、特定の外国企業に提供する契約書です」神崎は言った。「平成六年当時、通産省内の一部のグループが、中国系のエネルギー企業と密約を結んでいました。日本の原子力政策の詳細、エネルギー備蓄の実態、将来的な政策の方向性??これらを見返りの資金と引き換えに提供していた」
「国家機密の売却だ」根古は言った。
「そうです」神崎は言った。「その契約書に署名した人間の一人が、黒田省吾です」
「他には誰が」根古は言った。
「当時の通産省の幹部、三名です。うち二名はすでに亡くなっています。一名は現在も官庁に関係する仕事をしています」神崎は根古を見た。「その一名が、警察庁の要職についています」
「だから警察庁からの指示で、調査が止められた」根古は言った。
「そうです」神崎は頷いた。「黒田だけの問題ではない。三十年前に作られた密約が、今も生きている。今も資金が動いている。そして今の日本のエネルギー政策の一部が、その密約の影響を受けています」
根古は書類を丁寧に戻した。
「桐生さんはこの文書の存在を掴んだんですね」
「はい」神崎は言った。「私が桐生さんに情報を渡しました。内閣府の中に、信頼できる人間がいると聞いていました。桐生さんに接触して、文書の存在を教えました」
「直接会ったんですか」
「二ヶ月前に一度だけ。それ以降は連絡を絶っていました。桐生さんが証拠を掴んで、動き始めたのは知っていました。でも三日前に??」神崎は少し顔を曇らせた。「桐生さんの動きが突然止まったのが分かりました。それで黒田側がやったと思いました」
「なぜ俺の名前を桐生さんに教えたんですか」
「もしもの時に備えて」神崎は言った。「二ヶ月前に桐生さんに会ったとき、言っておきました。何かあったら、可児の根古を頼れ。その男なら動いてくれると」
「なぜそのときに動いてくれると思ったんですか」根古は言った。
「あなたのことをずっと調べていました」神崎は根古を真っ直ぐ見た。「第一章から第三章まで、あなたが動いてきた案件を追いました。どれも権力に屈せず動いている。そして??昌也さんの息子だということも知っていました」
「また父の話が出てくる」根古は言った。
「昌也さんを知っていた人間が、あなたのことを教えてくれました」神崎は言った。
「誰ですか」
「西野薫牧師です」神崎は静かに言った。「私が可児を調べていたとき、西野さんに会いました。あの方が言いました。根古という探偵は信用できる。困ったことがあれば頼れ、と」
根古は少し空を見上げた。
紅葉した山が、青空に映えている。
西野薫。あの牧師は、どこまで人を繋げるつもりだ。
「文書をどうするつもりですか」根古は神崎に言った。
「公にしたい」神崎は言った。「でも一人では動けない。マスコミに持ち込んでも、圧力がかかれば潰される。警察は信用できない部分がある。内閣府は桐生さんが倒れた」神崎は根古を見た。「根古さん、フェルナンド村田さんという方を知っていますか」
「知っています」
「CABINです。私も名前は聞いていました」神崎は言った。「CABINなら、この文書を適切に扱えますか」
「分かりません」根古は言った。「でも聞いてみます」
旧道を戻りながら、根古はフェルナンドに電話した。
「根古さん、昨日の数字の件、もう動きましたか」フェルナンドは言った。
「動きました。神崎綾乃という元公安に会いました」
「神崎さん」フェルナンドは少し間を置いた。「CABINでも名前は知っています。三年前に公安を退職した後、行方不明になっていた人物ですね」
「可児にいます」根古は言った。「平成六年の極秘文書を持っています。黒田省吾と、警察庁の要職にある人物が署名した密約の証拠です」
電話の向こうでフェルナンドが黙った。
珍しい沈黙だ。
「根古さん」フェルナンドはやがて言った。「その文書、私も三年前から探していました」
「あなたも」
「CABINとして調査していました。でも手が届かなかった。神崎さんが持っていたとは」フェルナンドは言った。「根古さん、私が可児に行きます。今日中に」
「来てください」根古は言った。「ただしフェルナンドさん、一つ聞きます。この文書を公にする場合、CABINとして動けますか。圧力がかかっても」
「動けます」フェルナンドは即座に言った。「それがCABINの仕事です」
「分かりました。待っています」
昼前に、根古は可児署で桐生に会った。
桐生は昨日より落ち着いていた。顔色も戻っている。
「少し思い出しましたか」根古は言った。
「名前が戻ってきました」桐生は言った。「桐生隆一です。内閣府に勤めています」桐生は根古を見た。「根古さん、私は何をやっていたんですか。断片的には思い出せるが、全体が見えない」
「黒田省吾という名前は分かりますか」
桐生の目が動いた。
「黒田」桐生は繰り返した。「知っています。私が調べていた人物です」桐生は少し手を握った。「思い出してきました。私は黒田の証拠を??」
「無理に思い出さなくていいです」根古は言った。「ゆっくりでいい」
「でも」桐生は根古を見た。「私は何かを掴んでいた。それが消された。悔しいです」桐生の目に力が戻ってきた。「根古さん、続けることはできますか。私が途中でやめたことを、続けることは」
「すでに動いています」根古は言った。
「本当ですか」
「神崎さんに会いました」
桐生は息を呑んだ。「神崎さんが可児に」
「はい。文書も持っています」根古は言った。「あとはそれをどう使うかです。桐生さん、回復したら一緒に動けますか」
「動きます」桐生は即座に言った。「必ず動きます」
夕方、フェルナンドが可児に来た。
ラクカで根古と神崎とフェルナンドが揃った。
太田がコーヒーを出して、何も言わずにカウンターの奥に引っ込んだ。
神崎はフェルナンドを見た。警戒している。
「CABINの方ですか」神崎は言った。
「そうです」フェルナンドは笑顔を作らなかった。今日は関西弁も抑えている。「神崎さん、お疲れ様でした。三年間」
「お疲れ様と言われる筋合いはありません」神崎は言った。「まだ終わっていない」
「そうですね」フェルナンドは頷いた。「終わらせましょう」
神崎はフェルナンドをしばらく見た。それから根古を見た。
「信用できますか」神崎は根古に言った。
「俺が判断できる立場ではありません」根古は言った。「ただ??これまでフェルナンドさんと動いてきて、裏切られたことはない」
神崎は少し考えた。
「分かりました」神崎は防水袋をテーブルに置いた。「見てください」
フェルナンドは文書を読んだ。
一枚一枚、丁寧に。顔色が変わった。それだけ内容が重いということだ。
「本物ですね」フェルナンドはやがて言った。
「本物です」神崎は言った。
「警察庁の人物の名前が入っている」フェルナンドは静かに言った。「これは??想像していたより大きい」
「だから三年間、動けなかった」神崎は言った。「一人では」
「CABINとして動きます」フェルナンドは神崎を見た。「ただし??時間が必要です。この規模になると、慎重に手順を踏まなければなりません。マスコミへの提供、国会への資料提出、法的手続き??どれが最も有効か、判断に時間がかかります」
「どのくらいですか」神崎は言った。
「二週間から一ヶ月です」フェルナンドは言った。「その間、あなたの身の安全を確保します。CABINとして保護します」
神崎は少し黙っていた。
「一人で動いてきたので」神崎は静かに言った。「誰かに頼るのが怖い」
「分かります」フェルナンドは言った。「でも根古さんがいます。この男は信用できます」
神崎は根古を見た。
「西野さんが言った通りの人ですね」神崎は言った。
「西野は買いかぶりが多い」根古は言った。
神崎は初めて、かすかに笑った。
夜、根古は西野の教会に寄った。
西野は礼拝堂の掃除をしていた。根古が入ると、箒を止めた。
「来ると思っていた」西野は言った。
「神崎さんにここを教えたのか」根古は言った。
「一年前に、ここに来た人がいた」西野は静かに言った。「疲れ切った顔で、どこに行けばいいか分からないと言っていた。話を聞いたら、黒田という男を追っているという話をした」
「神崎さんだ」
「教会は誰でも来られる場所です」西野は言った。「話を聞いて、あなたの名前を教えました。根古親司という探偵がいる、と」
「余計なことを」根古は言った。
「余計ではない」西野は根古を見た。「あなたのことを教えると、神崎さんの目が変わった。諦めかけていた人間が、諦めなくなった」
根古は何も言えなかった。
「根古」西野は言った。「あなたはここに来るたびに、誰かの荷物を下ろしている。自分でも気づいていないだろうが」
「そんなことはない」根古は言った。「俺はただ動いているだけだ」
「それが大事なんだ」西野は箒を持ち直した。「コーヒーでも飲んでいくか」
「いただきます」




